第6話

 さしもの神子かみこ高校といえども、流石に授業は行われる。ただし、不良高校らしい劣悪な環境下であるが。


 怒号と共に机が吹き飛び、教卓の目の前で喧嘩が始まる。周りの生徒は囃し立てるばかりか、勝ち負けを巡って賭博をする者までいた。


 が、先生は注意する素振りもない。ただウーとかアーとか意味をなさない言葉を口にしながら淡々と数式を黒板に書きこむばかりである。


 梅小路うめこうじのピンと張った背中が震える。感心したことに梅小路うめこうじは努めて教室の混沌を無視しながら健気に先生の話に耳を傾けているようだ。


 ちなみに僕はとうの昔に授業を諦めている。こんな教室で先生の話なんか耳に入ってくるはずがない、自分で教科書を勝手に進めたほうがまだましだ。


 それに、僕には専属の家庭教師が一人いた。


「あのさ、しずか。この問題のここから先がわからないんだけどどうすればいいのかな。」


 後ろに振り返り、分厚い専門書を読み耽っている数奇院すうきいんに質問する。数奇院すうきいんは僕のグチャグチャとしたノートを一瞥しただけで全てを把握したようだった。


「その三行前の式からその次の式にかけて移項を間違えているのではなくて?」


「あ、本当だ。ありがとう。」


「べつにいいわ、たいして頭を使うことでもないもの。」


 すぐに視線をハードカバーの本に戻す数奇院すうきいん。その本は僕には読むこともできないような難解な数学書だった。


 大学院ほどの数学を片手間に楽しんでいる数奇院すうきいんにとって高校の数学は児戯に等しいらしい。僕は数奇院すうきいんがまともに教科書を勉強している姿を見たことがなかった。



 キーンコーン。


 生徒が大挙して授業を抜け出していった後、教室のスピーカーが割れたチャイムの音を奏でる。昼休みの始まりだ。


 まだ残っていた真面目なほうの生徒も授業終了の合図にすぐさま教室を飛び出していく。混雑する扉を横目に数奇院すうきいんは本を閉じた。


「行くわよ。」


「え、いやまだこの問題解き終わってないんだけど……。」


「答えは4, 13, 25の三つ。これでいいでしょう?」


 先ほどちらりと見ただけで数奇院すうきいんは答えまで求められていたらしい。答えをネタバレされた僕はというと、結局は数奇院すうきいんに従うほかないのだった。


 人気のない校舎の裏側まで数奇院すうきいんについていく。


 数奇院すうきいんは静寂が支配するこの裏庭を気に入っているようで、いつも僕をつれてここで昼食を済ませるのだ。


 かつてはビオトープとして使われていたのだろう、濁った池のほとりに腰をおろす。僕は鞄から取り出した網かごを数奇院すうきいんに手渡した。


 今朝早起きして作っておいたサンドイッチだ。寝起きで目をこすりながら用意した代物である。


 数奇院すうきいんは優雅な仕草でひとつ摘まむと、その淡く桜色に色づいた唇に運んでいく。僕もまた自分の分のサンドイッチを口にすることにした。


 沈黙が二人の間を通り過ぎていく。


 とはいっても気まずい雰囲気なわけではない、むしろ逆だ。僕も数奇院すうきいんも口数が多いほうではないが、だからといって仲が悪いわけではない(と少なくとも僕は信じている)。


 ボフッ。


 数奇院すうきいんが無造作にもたれかかってきた。すこしも躊躇せずに体重を預けてくる。


しずか、重いよ。」


「あら、人にその言葉は失礼でなくて?」


 どこかご機嫌な様子の数奇院すうきいんに、僕は文句をひっこめることにした。


 青空を旋回するトンビの間の抜けた鳴き声が降り注ぐなか、僕たち二人は淡々と口を動かす。今日のサンドイッチにはハムとか苺ジャム、ほうれん草なんかを挟んでいた。


「……しずか。」


「なにかしら?」


 脇からのびてきた真っ白な腕がハム入りのサンドイッチをかすめとっていくのに、僕はとうとう声をあげる。


 数奇院すうきいんは料理が全くダメな上に偏食家という、とことんまで自堕落な一面があった。肉は口にするが野菜は大嫌いなのだ。


 責めたてるような視線を数奇院すうきいんにむけると、どこか拗ねたような顔でそっぽをむかれる。その手元にはほうれん草入りのサンドイッチだけが丁寧に残されていた。


「きちんと野菜も食べなさい。」


 僕はため息をついて数奇院すうきいんからハム入りのサンドイッチを奪い返す。空っぽになった数奇院すうきいんの手の中にほうれん草入りのサンドイッチを握らせた。


 再び奪われないうちにと口の中にハム入りのサンドイッチを放りこむ。そんな僕に数奇院すうきいんはぐいっとほうれん草入りのサンドイッチを返却してきた。


「あなたに指図される筋合いはないわ、違いまして?」


 数奇院すうきいんが冷笑する。その態度に僕はしかたなく最終手段に訴えることにした。


「むぐっ!」


 数奇院すうきいんの小さな口もとにサンドイッチを捻じこむ。目を白黒させながら咀嚼する数奇院すうきいんに、僕はしてやったりといった風に笑ってやった。


「ムグムグ……ん。思っていたよりも強引なのね、あなたという人は。」


 ようやくサンドイッチを飲みこんだ様子の数奇院すうきいんは、非難がましい視線を僕に向ける。が、すぐにいつも通りの余裕のある笑みを浮かべた。


「でも、楽でいいものね。続けてくださるかしら?」


「はいぃ?」


 予想外の返答に、僕はあっけにとられてしまう。数奇院すうきいんはよほど僕の顔が間抜けていたのか、クスクスと愉快そうに笑った。


「なにがそんなに不思議なの? 始めたのはあなたじゃない。」


 数奇院すうきいんが目を閉じ、まるでひな鳥のように口を開ける。その儚げな容姿に妙な背徳感すら感じてしまった僕は、あわててサンドイッチを食べさせた。


 唇を閉じ、しばらくもごもごと口を動かす数奇院すうきいん。しばらくして強請るようにまた口を開けた。


 しかたがないので、またほうれん草入りのサンドイッチをその口の中に放りこむ。


 人気のない裏庭で友人を餌づけするという、あまりにも不可解な展開に僕の頭は混乱していた。そもそも一体全体どうして数奇院すうきいんはこんなに幸せそうに口もとを緩めているのか。


 ついには思考を放棄してしまった僕は、ただひたすらに数奇院すうきいんの口もとにサンドイッチを運ぶ機械と化すのであった。



 普段ならまったくといっていいほど減らない野菜入りのサンドイッチが次々と数奇院すうきいんの小さな胃袋の中に納まっていく。ついにはほうれん草のサンドイッチは最後の一切れを残すばかりになっていた。


しずか、最後ぐらいきちんと自分で食べてよ。」


「嫌よ、却下するわ。そもそもわたしはほうれん草なんて目に入れるのも避けたいのよ、あなたが食べさせてくるのだから渋々口にしているだけで。」


 なぜか最近まれにみるほど上機嫌な数奇院すうきいんは、最後まで僕の奉仕を要求するようである。根負けした僕は最後のサンドイッチに手をのばした。


「そない数奇院すうきいんはんがいらんのやったら、うちがもらうわ。」


 が、予想だにしない闖入者によって僕の手は空を切る。突然ひょいと現れた梅小路うめこうじは、最後のサンドイッチを一口でペロリと平らげてしまった。


「あ、うまいやん。これいずみが作ったん?」


 口にした途端、ビックリしたという風に目を見開く梅小路うめこうじ梅小路うめこうじのいきなりの登場に未だバクバク鳴っている心臓を押さえる。どうして梅小路うめこうじは僕たちの居場所がわかったんだろう。


梅小路うめこうじさん? いったい誰の断りでそのサンドイッチに手をつけているのかしら?」


 次の瞬間、空気が凍った。


 数奇院すうきいんの底冷えするような声が僕の肌を刺す。どうやら数奇院すうきいん猊下は自分のサンドイッチが奪われたことにたいそうご立腹らしい。


「で、でも数奇院すうきいんはんはほうれん草が大嫌いやって!」


「それはなんの正当化にもなっていないのではないかしら。」


「別にサンドイッチ一切れぐらい堪忍してや……。」


「このサンドイッチ一切れの価値の大小ではなく、あなたの行為そのものが問われているのだと気づいているのでしょう?」


 哀れな梅小路うめこうじはタジタジになりながらも論戦を試みる。が、鉄のカーテン並みに冷たく厳格な数奇院すうきいんによって次々と反論は封殺されていった。


「す、す、すみませんでした~!」


 ついには梅小路うめこうじは尻尾をまいて逃げる。後には最高に不機嫌な数奇院すうきいんと、どうやったらその怒りを宥められるのか頭を悩ます僕とが残されるのであった。

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