ジル 人と魔の狭間で⑪

 ジルは、そうか、とだけ言い、アイシャの前で素早くリーゼルを抱え上げると、窓から少女を抱えて飛び立った。

 目の前でジルが飛び立った光景を見てアイシャがどう思ったかは、今のジルにとってはどうでも良かった。


 リーゼルの命が尽きないように祈りながら、少女を抱いたまま、ジルは、村で一つしかない医師の元へと飛ぶ。


 ジルの胸を、後悔が突き上げていく。

 怒りと憎しみで自分を見失いそうだった。

 膨れ上がっていく怒りは、リーゼルをこんな目に遭わせたヘインズと、自分の愚かさに向けられたものだ。

 


 ――オレが間違っていた……!

 早くあんな男は殺しておけば良かったんだ。

 そうすれば、リーゼルはこんな目に遭わずに済んだ。

 


 ジルの心の内には葛藤ではなく、既に一つの結論が見出されていた。



「おい、開けてくれ! リーゼルを、助けてくれ!!」


 ジルはリーゼルを片腕で支えながら、医者の家の扉をどんどんと叩き、大声を出した。

 大きな街まで飛び、医者を探すのは時間がかかり過ぎる。それではリーゼルの身がもたない。

 ジルは、年を取ってはいるが、その医者は村では頼られる存在だった。扉を壊しそうな勢いの物音と呼び声に、屋敷の中から、パタパタと足音が近づく。


「何です、こんな時間に……」

 屋敷から出て来たのは、使用人と思しき女だった。

 女はジルが抱えたリーゼルを見て、顔色を変えた。

 

「この子、リーゼル! まあ、何ということなの!」

 傷と痣だらけで、ぐったりとなったリーゼルを見て、女の声は震える。

「君、入りなさい」

 騒ぎを聞きつけ、医者の男――、シュラフが背後から現れ、声をかけた。

 シュラフはリーゼルと顔見知りなのだろう、彼女の状況を理解しており、何があったかは、察しが付いたようだ。


 ジルは頷き、リーゼルを抱えたまま屋敷に入った。


「ここに寝かせて」

 医務室に通され、言われた通りにリーゼルをベッドに横たえる。

「これは……、酷いな」

 シュラフは眉を寄せ、リーゼルの体を診ていくと、哀れんだ顔をした。

「リーゼルを、助けてやってくれ。金は、これで――」

 と言い、ジルは美しい石を差し出した。

 シュラフは、分かった、と言い、石を数個受け取った。

 本当は、シュラフは金がなければそれでも良かったのだが、受け取らなければこの子供は納得しないだろうと思ったのだ。それほど、ジルの顔は切羽詰まった表情をしていた。

 シュラフはリーゼルの置かれた状況に同情しており、普段から、少女を何とかしてやりたいと思っていた。


「君、名前は?」

 一通りリーゼルを診ると、シュラフはジルの追い詰められたような目を見て言った。

「――ジルだ」

「ジル、落ち着いて聞け。リーゼルが助かるかどうかは五分五分だろう。すぐに治療を始める。君は、屋敷の中にいて良いから、待っていなさい」

 シュラフは親切な男だ、とジルは思った。

 今までリーゼルが酷い目に遭っても耐えられたのは、この人にも支えられていたからかも知れない。


 ジルはシュラフの言う通りにはせず、医務室を出て、屋敷からも出た。

 ジルには押さえられない怒りと、どうしても今、行動しなければ――、という、強い衝動に掻き立てられていた。


 そうしなければいけない。


 でなければ、今度こそ、自身を見失ってしまうような気もした。

 


 ジルは再び浮遊術フロートで、村の酒場へと向かう。

 家にいなかったあの男は、どうせそこで飲んでいるのだろう。

 酒場は閉店時間を迎え、店内の客はほとんど帰っており、店主は店を閉めようとしていた。酒に酔って寝ている客を、店員の若い女が起こして回っていた。


「おい、起きろよ」 

 その一人、カウンター席に突っ伏して寝ている男に、ジルは背後から声をかける。

 ジルの声は低く怒りに満ちていた。


 気持ち良さそうに寝ている髭面の大きな体格の男――、ヘインズが、「うん……」と、心地良さそうに息を漏らすと、ジルの血が沸き立った。

 油断すれば、己を失い、変身しそうになるほどの怒りが込み上げてくる。

 殴りつけて店から引き摺り出そうと思ったが、ヘインズは目を覚まし、ぼんやりとジルを見上げた。


「何だお前、俺を迎えに来てくれたのか?」

「……ああ、そうだ」

 ジルが言うと、ヘインズは、「ふわあ」、と一つ欠伸をしてから立ち上がり、ジルと一緒に店を出た。


 二人は、暫く夜の闇の中を無言で歩き、ヘインズの家へと向かう。

 ジルはその間拳を握り締め、怒りで我を忘れて、変身しないように、堪えていた。


「お前、俺の養子にならないか?」

 家が見えてくると、ヘインズは突如言った。

「随分、良い働きをするからよ。これからは、もっと良い暮らしをさせてやるよ。住むところと飯も沢山食わせてやる。それから、働いた分、取り分もやるからよ」


 ジルは先に歩いていたが、続けて話しかけられ、ピタリと足を止めた。

 家までは、もうあと数十メートルというところ。

 夜も更けているので、外には誰もいなかった。



 幸いなことに――。



「……黙れ」

 ジルは後ろ向きのまま、昏い闇のような声で言った。


 そうしてゆっくりとヘインズを振り返る。

 ジルの黒い瞳は月光を受けてじんわりとした光を放ち、そこには迷いなど微塵もなく、怒りと憎しみを湛えている。

 少年の体からは禍々しくも純粋なオーラが立ち昇っているかのようだった。





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