第11話 偶因成就〈河原崎沙衣〉

「待ってた。誰にも見られてない?」


「もちろんよ。うふふ‥‥」


 カーテンが引かれる音がシャーっと大きく響いた。



「‥‥あん、ねえ、まって、急ぎ過ぎ。シャワーは済んでるの? まだだったら行って来て。私、スマホは念のため置いて来たし、テレビでも見て待ってるわ」


「いいじゃんか、そのままで」


「そういうのいやっ、早く行って来て」


「ちっ、仕方ねーな。ビッチのくせに‥‥‥」



 二人の向かい合った足が見えてる。


 俺に聞かれているとも知らず、ちょっとばかりいちゃついてから茉莉児さんが部屋を出た。


 なんだか股間がジンジンするな。



 向こうからは、間もなくシャワーの水音が響き始めた。


 不意に始まったテレビの中の賑やかなおしゃべりの声は小音量。

 暗い部屋にパッパ広がる規則性の無い光のフラッシュ。



 ギシッとベッドが鳴った。


 ベッドの脇に座ったトシエの足が二つ並んで俺の目の前にあった。その真下で息を潜めてる俺。心臓がバクバクする。



 ──まだだ。



 心の中でゆっくりと、ただ数を数える。いーち、にい、さーん、しい‥‥


 俺、落ち着け。


 もうすぐだ。あとちょっとでトシエが消えてくれる。



 楽しかったことも無いこともなかったけれど、そんなことは俺の受けた心と体の痛みで、パーフェクトに凌駕されていた。


 トシエからの仕打ちの数々が頭ん中をフラッシュバックする。



 ──あとちょっとでお別れだよ。お母さん。



 これなら作戦パターン4が使えそうだ。俺は臨機応変に決行出来るように、4通りのパターンを想定してある。


 無理はしないよ。ダメそうならまた今度でいい。


 殺るからには失敗は許されない。



 膝は前に曲がんないから、本当はこっち向きに立っていた時に足首を引っ張った方が倒れやすいけれど、仰向けに転ばれるより、うつぶせで転んでくれた方が都合上いいから向こう向きバージョンでいこうと思う。


 トシエが立ち上がった時がグッドタイミング。テコの原理っていうの読んだから。


 立った体に対してベッドの脇が支点だよ。これを使えば弱い力だって大丈夫なんだ。


 俺はトシエの片足を軍手の両手でガッと掴んで自分の方に力の限り引っ張っぱるんだ。そしてうつ伏せに倒れたところをこのハンマーで‥‥‥



「今のうちにトイレ借りとこうかな‥‥」


 独り言を言ってトシエがベッドの脇から立ち上がった。



 ──今だ!



「ぎゃっ!」



 トシエは想定通り、うつ伏せで転んだ、



 けど───



 あれ? 俺はまだ何にもしてないけど?


 俺が足を掴もうとした手は、形のまま寸前で固まっている。



 小さく呻いて倒れたままのトシエの足の裏が見える。



 俺はじっとして様子を窺った。



 トシエは転んだまま動かない。声も消えた。


 倒れたままいつまでも立ち上がらないのはなんで?



 俺は少し間をおいてみてから、慎重にベッドの下から這い出る。



「あ‥‥、うわー‥‥‥」



 どうやらテレビ台の角で顔面のどこかを打ったらしい。うつ伏せのトシエの額の辺りから、黒っぽい水溜まりがじわじわと広がっていた。


 これ、どういうこと?


 薄暗かったから、ベッドの上にあったリモコンで部屋の電気をつけてみた。


 結構な重傷みたい。トシエ今、俺の存在、わかってる? ううん、わからないみたい。うつ伏せ体勢から横向きで見える目は、黒目が上に上がってて虚ろ。まるでホラーだ。


 血だまりの中の、その顔はきしょい。



 口からは透明なヨダレが流れて床に垂れていて、そこだけ赤い血とマーブル模様を作ってる。



 汚いなー。人ん汚しちゃだめだよね。俺がちょっとでも何かこぼすとビンタするくせにさぁー。



 トシエの足元には固定式の赤いダンベルふたつ、乱れて転がってる。これって腕を鍛えるあれ。テレビで見たことある。


 あー‥‥これにつまずいてコケたんだ。



 1つを足で軽く蹴ってみたけど、動かなかった。


 この赤いダンベル。すごく重たいんだね。俺には動かせそうにない。


 そうそう、濃い赤って暗いとこでは見えにくいんだってね。忍者の本読んで知ってるよ。真っ黒けっけよりも緑や赤や青の濃い色の方が闇に自然に溶け込むって書いてあった。


 トシエの右の足首が外側に真横を向いてる。どうなってるんだろ?


 踏んでみたら『ぎゃっ!』と小さく声が出て、完全気を失ったみたい。完全白目剥いてる。声出たし、死んではいないよね?



 どうしよう、これ。俺はまだ何にもしていないのに、こんなことになるなんて‥‥



 俺がこのハンマーで、とどめを刺しといた方がいいのか?



 ──待ちなよ。それはどうかと思うぜ? 



 触んない方が良さそうだからほっとけって、俺の脳みそのどっかが指令を出した。


 なら、さっさと帰った方が良さそうだった。


 この声は俺をいつも助けてくれる。海でピンチの時も、波の法則の凪ぎの一拍のことも見つけて教えてくれたし。


 ぐるりと部屋を見回す。



 大丈夫。俺が残した物は何も無いよ。血も踏んでないし、俺のどこにもついてない。


 一応、持って来たタブレットで、この光景の写真を取っておく。



 ‥‥カシャッ



 シャワーの音がちょうど止まった。



 お邪魔しましたー。俺、帰りまっす!



 電気を元の暗さに戻してそっと部屋を出た。



 茉莉児さんが戻って、これ見たらどんなリアクションすんのか見たかったけど、ここで覗いてんのは危険過ぎると思った。


 俺は柵を越えて自分ち側に戻り、配管を伝ってベランダによじ登り、レイラたちがいる部屋に戻った。



 レイラも夜明も、すーすー寝てた。


 この子ども部屋は廊下側からトシエによってカギが掛けられてる。今は他の部屋には出られない。


 完璧とは言えないけど、お陰で俺のアリバイはそれなりに出来てるね。



 俺はそうそうに荷物をバラし、靴は不自然ではない場所に捨てなければならない。


 特にこの靴。明日学校に行く途中のアパートのゴミ置き場のゴミに混ぜておこう。


 ハンマーは持っていてもいいよね。使ってないし。これはがらくた入れの底に入れておく。



 メインはやっと手に入れたこれ。これは貴重品だ。


 ガムテープと紙で作った手製の鞘から引き抜いて眺める。


 とても古そうなナイフ。形はカッコいいし、大きさも俺の手に合ってる。


 ほぼ全身かびてるみたいなペパーミント色になってるけど、タブレットで調べたら、カビじゃなかったから大丈夫。緑色のサビだった。しかも保護する膜になってくれてるとかで長持ちさせてくれるらしい。棄てちゃった人、もったいなかったね。



 ナイフだけは机の3段目の引き出しの裏に、ガムテープで貼って隠しておいた。俺の宝物の一つに追加された。






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