第12話 母親失踪〈河原崎沙衣〉
気づけば、まぶたの裏が明るい。
いつの間にか朝だ。
トシエはあれからどうなったんだろう? 茉莉児さんが病院に連れて行ったのかな? 手当てしてから家に帰ってる?
それとも‥‥‥まだ、茉莉児さんの部屋に?
俺は戻って荷物片してからすぐにぐっすり寝てしまって、それからのことはわかんない。
何にしろ、今朝もお母さんが下の部屋にいるのが当たり前の、普段通りの設定で行動しなきゃいけない。
まだ喋れない
俺、トイレに行きたいけど、子ども部屋は廊下側からカギが閉められている。
部屋にあるインターホンの室内呼び出しを鳴らしてみた。これ、俺が鳴らすと怒られるけど。
‥‥無反応。
「お母さーん。開けて」
戸をドンドン叩いても返事がない。何回呼んでも反応なし。
我慢出来なくなってベランダで用を足した。
俺がベランダの窓とカーテン開けたし、うるさくしたからレイラが起きた。ついでにレイラにも呼んで貰ったけど、トシエは来ない。
夜明がここにいるから、俺らがここに閉じ込められたまま放置されることはない。夜明がいればこそ、トシエのこの家での立場が強固になっているんだから。
まだ茉莉児さんの家で休んでいるか、病院行ってるか。
家に帰って横になってそのまま動けずにいるとかかも? 血がいっぱい出てたし。
痛くて気は失ってたみたいだけど、踏んだら『ぎゃっ』て声出たから、夕べは生きていたと思うけど、もしかしたら打ち所が悪くて、今頃死んでんのかも知んない。
レイラが、不安げに俺に言った。
「‥‥お母さん、まだ寝てるのかな? おかしいよね。朝になっても夜明を連れに来ないなんて‥‥‥」
あ、そうだ。レイラには夕べの念押ししとかなきゃな。
「うん、寝坊かもな。あ、俺が夕べこっそり出掛けたことはお母さんにもお父さんにも誰にも言うなよ。約束だからな。これ、破ったら俺はもう、レイラのお兄ちゃんやめるからなッ!」
レイラは俺の厳しい言い様に、ふえっとしゃくり出した。
「‥‥やだ‥‥お兄ちゃんレイラのお兄ちゃんやめたらやだよぉ‥‥ふぇ~ん‥‥ズズズ‥‥」
「なら約束守れ。ほら、これで鼻かんで」
俺はティッシュ箱を差し出しながら、確認するように、レイラの目をじーっと見た。
「‥‥うん‥グズッ‥‥約束する‥‥かっ‥らっ‥‥ぶぇぇ~ん‥‥おにっ‥おにいちゃ〜ん」
俺にガバッと抱きついて、俺のシャツに顔を押し付け、涙と鼻水を擦りつけて来た。
おいおい、ティッシュここにあんのに。
‥‥ま、いっか。俺が泣かせたんだからしょうがない‥‥‥
「にーに、にーに」
いつの間にか起きた夜明もレイラの真似して俺の背中に抱きついて離れない。
前から後ろから、何だよお前ら。俺、重たいじゃん。‥‥‥ふふっ。
んー、トシエがいなくなった時は、俺がレイラと夜明のお母さんになってやっからな。
俺、ちゃんとできるかなー? わかんないけど、やる。
──この時、そう決めた。
俺はタブレットで、お父さんに連絡した。
《お母さんが来なくて、子ども部屋から出られないよ》
《トシエが寝坊してるのか?》
《何回呼んでも来てくれないよ。レイラはトイレにもいけないし、夜明だってそのうち泣くよ》
トシエは、俺たちの安全のためにカギを閉めているってことにしてる。実際、ハイハイと伝い歩きの夜明には階段が危険だし、お父さんもカギのことは知っていた。
階下で、トシエの携帯の着信音が響いた。
きっとお父さんがかけているだろう。だけど、その音は空しく鳴り続けるだけだった。
お父さんは、地方都市にいた。会社に連絡をつけて、一番ここに近くにいる同僚が来てくれることになった。
******
それから30分ほどすると、聞き覚えのない車のエンジン音が響いて、家の前で止まった。
玄関チャイムが鳴ったので俺は窓から顔を出した。
お父さんよりうんと若い感じの、スーツ姿の男の人が立っていた。
「ボク、ここは河原崎さんのお宅でいいんだよね?」
「うんっ。おじさん、来てくれてありがとう」
「おはよう。お父さんと同じ会社の岡本です。ボク、玄関のカギ持ってる?」
「うん、俺のランドセルに入ってるからあるよ。今、投げるね」
1階の裏側のテラス窓のカギは、トシエがいないなら開いているはずだったけど黙っていた。
俺らは岡本さんによって部屋から解放された。
そしてトシエは、家に戻ってはいなかった。
*******
あの日からトシエは行方不明になった。
警察では家出ではないかと判断された。育児が嫌になって一人逃げ出したのではと。
元キャバ嬢という肩書きは、社会的信用度が低かったらしい。見た目も派手だったのも軽くみられたんだろう。近所で数件、警察が聞き込みをしていたのをこっそり聞いてたけど、対応した周りの奥様方からは評判はもちろん芳しくはない。特に二見さんからとか。
全く血の繋がらない俺、前の彼氏との間に生まれたレイラ、そしてまだ伝い歩きの夜明という3人もの子どもを抱えてストレスがたまり、発作的に家出したと警察からは思われたようだ。
『未成年ならあれだけど、大人のことですからね‥‥。まあ、奥さんはそのうち冷静になったら戻って来るんじゃないですか?』と、警察には余り相手にされていなかったようだ。
子どもにも見て取れたぜ? こんなくだらないケース、マジめんどくせぇって顔に書いてあんの。
あ~ん‥‥‥
世の中ってこういう風に出来てるんだって知った、小2の初冬。
やっぱ、大人って、いい加減なものだよ。裏側なんてどうでもいいんだ。
見ようともしない。
警察がそう言えば世間的には、そうってことになるんだ?
それらしい理由があって収まれば全てよし。隠れてたらどんな出来事も無になるってことだ。
じゃあ、世の中、表に出てることは取り繕いで、裏にこそ本当があるんだ?
それって、それはそれで時には誰かにいいことかもね。
──俺の不幸。
俺は子どもなのに、大人の真実を知りすぎて、斜めに見る癖がついちゃって、可愛らしい子どもらしさなんて無くしてた。今になって、そう思う。
大抵の子どもは、親や先生って、パーフェクトな存在で、言ってることは全部正しくて善、って思い込まされて過ごすらしいから。
ま、大人でも、上から言われれば無条件に何でも信じちゃう人は多いけどね。ある程度恵まれて順調に過ごせて来た人たち。
もちろん俺は黙っていた。隣の家で起きたことなど。
あの状態で病院にも連れて行かれていないのなら、トシエは茉莉児さんによって‥‥‥?
捜索願いが出されたまま、トシエの行方は知れず、月日は経って行く。
トシエは田舎を飛び出してからは、生まれ育った家族とはとっくに縁を切っていた。行方不明となっても誰も心配する親族はいなかったし、もちろん会ったこともない夜明を預かることは拒否された。
オヤジの母親は、病気がちで父親が看病していた上、そもそもオヤジがトシエと結婚した時点で勘当されており、俺たち家族に手を差し伸べてくれる人はいない。
だが、トシエ無くしても、生きてる俺らの生活はそれなりに続く。
レイラと夜明はオヤジの出勤とともに保育施設に預けられ、オヤジと共に戻って来る。
これにより、俺は昼間はレイラと夜明の世話からほぼ解放されたし、これなら宿題だってやれた。
放課後は友だちと遊ぶ暇も出来て、トシエがいたころよりもずっと快適に過ごすことが出来た。
俺はもちろんのこと、家では自分のことは自分で当たり前にやっていた。
俺は当時小学2年だったが、家事もわりと覚えていて、包丁だって使えたくらいだ。
今までトシエが握っていた生活費。トシエが消えたお陰で俺はオヤジから金を直接貰えるようになり、自分でパンや弁当などを自由に買うことも出来るようになった。
これもすべて茉莉児さんのお陰だ。感謝してもしきれないよ。
年が明け、レイラが小学校に入学する時期になってももちろん、トシエが戻ることはなかった。
この頃になるとオヤジには諦めムードが漂う。あれ以来外で飲んで来ることは無くなっていて、家でだらだら酒を飲む時間が延びていた。
──ところで、一体トシエはどこに?
それ、茉莉児さんのみが知っている。
茉莉児さんだって驚いただろうな。シャワーから戻ったらトシエが血を流して失神していたんだから。出血もすごかったし、もしかして、あれから自然に死んでしまったのかも知れないし、そうではなかったのかも知れない。
その辺の真相は俺にはどうでもいいし、関係無いので。
ただ、茉莉児さんは俺にとっての神様だ。
すっごくいい人。感情は、それだけ。
月日は巡り、俺は地元の評判のよろしくない高校に入学した。
だって俺、近くじゃないと家事が出来ないから。バイトもして家計も助けなきゃなんない。
あれから子育てに手間取って、オヤジも出世コースから外れてしまったしね。俺らのために転勤も断わってたらしいから。
女を見る目が無いと、可哀想だね。
この頃には俺自身は、『一生結婚などしない!』と、決めていた。
流石にね、オヤジみたいな反面教師いるし、俺はあんな目に遭って来たんだから、他所の女なんて心底信用出来るわけねーだろ。
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