◆14 子守歌
トオルは研究室に泊まり込んでいた。家に帰りたくないからではない。どうしても成果を出したいからだった。
無機メタルの結晶生成が上手くいくようになって五日後には、音波が与える影響の数式の大枠が出来上がっていた。続く二日で、 今回用いた種類の無機メタル結晶で数式化が完了。もちろん他の種類でも検証しなければ数式化ができたとは言いがたいが、トオルはここで本来ターゲットにしていた有機メタル、シリコメタル結晶での数式化を優先することにした。
ワト教授のチームはシリコ系素材を扱っている。一年前にトオルを
しかしさすがに、
音の強さが結晶生成の速さに関係しているのは無機も有機も同じ。だが一方で、無機と異なり有機では音の周波数が結晶の
有機メタル結晶は生成速度と生成される巨視的形状の間に強い相関があるため、求める材料特性を持つ形状を得るには、素材の量的効率を度外視して生成速度を上げたり下げたりするというのが従来の手法だった。
それに対し、音波で干渉することで量的効率や生成速度を高く保ちつつ求める巨視的形状を得られる、というのがトオルの研究の主眼だ。
有機メタルは巨視的形状によって材料特性が大きく変わる。産業応用を目指すなら、求める形状を生成できることが極めて重要だった。つまり、巨視的形状を指定できるような数式でなければならない。
彼はこの三日間、実験のペースを落として机上で理論と数式を組み立てようとしていた。実験のデータをにらみながら、数式を書いては修正し、また線で消して新しい式を書く。コツコツとペンがタブレット端末を叩く音が響く。
ミワ研究室の中は静かだった。快適な温度と湿度に保たれた空気がトオルを包んでいた。建物の中にいるのは彼だけ、けれど孤独は感じなかった。マリコさんの気配が常に
やさしい歌声が聞こえた気がした。子供をあやすような、子守歌――。
ハッと彼は身を起こした。
気づけば机に向かったまま眠っていたらしい。慌てて書いていたはずの数式を見直す。
そこには不思議な式が書かれていた。余分な変数項が三つも付け足されている。一見何のための変数か分からず、トオルは消してしまおうとして、手を止めた。
子守歌。高く低く歌われる音。時間とともに変化していく周波数と強さ。
「まさか……なぁ」
彼は一人呟いて、大きく腕を上げて伸びをした。手元に放置していた缶コーヒーを一口飲む。休憩を取るべきタイミングだった。
コーヒーの缶を片手に持ったまま立ち上がり、トオルは結晶生成装置のところへ行った。素材がセットされているのを確認して、適当な値を設定し結晶の生成を開始した。そして、干渉させる音波をでたらめに変化させていった。高く、低く。大きく、小さく。歌うように。
気が済むまで歌ってから、彼は顔を上げて生成された結晶の映像を見た。
瞬間、息をのんだ。
これまで見たことがないような結晶がそこにあった。中心部は小さな正六角形、その各頂点から極太の角が生えたように突起が伸び、さらに幾度も枝分かれし、枝同士が融合してクモの巣状になっている。
しばらく茫然としてから、トオルはコーヒー缶を放り出し装置に取り付いた。不思議な数式が書かれたタブレット端末を引き寄せる。彼は夢中で、実験を繰り返し始めた。
△ ▽ △
トオルは無造作に整えただけの濡れた髪で、緑の多い構内を歩いていた。カザミ先端物性研究センターの敷地内には福利厚生の一環としてスポーツジム施設があった。小規模で常駐の
普通のプール利用者に遠慮したため時間帯は昼より前。今のうちに売店で昼食と夕食を仕入れようと、通る人間の少ない管理棟の裏道へ回った時、彼はそれを目撃した。
「なあ、いいだろ?」
「でっ、でもっ、奥様にも……!」
「女房にゃぜってえバレねえって」
修理課のサノ課長が、若い女性の肩を管理棟の外壁へ押し付けていた。人目を避けるようにして。
「でもっ! 私、課長とそんな関係になる気なんてっ!」
「へえ? んなこと言っていいの?」
必死にサノの手を振りほどこうとしている女性に見覚えがあった。修理課でトオルに大量の基板を渡してくれて、固い握手を交わした相手。
「査定すんの俺だよ? 雇い止めしちゃおっかなあ?」
若い女性が大きく震えた。ここぞとばかりにサノがにやついた顔を女性の顔に近づけようとして、
「おい!!」
トオルは腹の底から怒鳴った。
ビクゥッとサノの両肩が
ふぅとトオルは息を吐き出す。暴力は嫌いで苦手だから、そういう事態にならずに済んで良かった。
そしてガクガク震えたままで歩くのも
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