◆13 事実

「私、独り言の癖があってさー」


 唐突にそんなことを、ヒトミ医師はディスプレイに向かったまま言い出す。


「直さなきゃなーって思ってるんだけどー、昔っからだからどーしよーもなくてー」


 彼女の手がキーボードの上を動き、ディスプレイに何かが表示される。


「えっと、マリコのカルテ、カルテっと。あったあったー、クボ・マリコ、通用名ミワ・マリコ、四十七才」


 トオルの背筋せすじが伸びた。一瞬入り口を見たが、ドアはきちんと閉まっていた。


「今年一月下旬、定期健診で心エコーに異常の所見、精密検査を指示。二月初め、拘束型心筋症と診断」


 心筋症。聞き慣れない病名に、彼の顔から血が引いていく。


「心臓のポンプ機能の深刻な低下を認める。自覚症状の動悸や倦怠感は半年ほど前からあったとのこと。心筋の硬化、つまり硬くなっている度合いはかなり進行」


 女医は彼の方を見ないまま続けていく。


「入院、薬物治療を開始。しかし症状が進行しているため、人工心臓への置換を強く薦める」


 彼はギュッと拳を握った。最近では一昔前と違って人工臓器も安全な治療法となり、置換手術を受ける人も多くなっているのは知っている。それでも、心臓だなんて。


「しかし患者は置換手術を拒否」

「えっ? どうして!」


 トオルは立ち上がりかけ、女医が突き出した片手で制される。


「理由は、置換および定着に必要な長期の入院およびリハビリ通院のため。入院は通常十ヶ月、短くても半年。リハビリは二年かかる」

「でもそんな、心臓なんですよねっ!? 二年でも三年でもかけて、ちゃんと治さないと!」


 コンッとヒトミ医師の拳がデスクを叩いた。彼が黙ってから、彼女は続けた。


「四月より、研究室に新しい研究員が来るとのこと」


 ――自分?


「その研究員をまずは受け入れ、彼の次の職を確保してから、手術およびリハビリを受けたいとの患者の強い希望」


 トオルの全身が震えだす。


「三月末、仮退院。健康医療センターでフォローを開始。投薬、生活管理指導。ただし長くても三ヶ月が限度と念押し」


 そこでようやく、ヒトミ医師は彼へと向き直った。


「マリコ、相当つらかったと思う。心臓機能は限界まで落ちてるし、無理はするなって何度も言ったんだけどねー……」


 毎日、朝、自分を迎えてくれた。夜、自分を見送ってくれた。笑顔で。


 昨日は、本当に限界だったんだ。そしてとうとう倒れた。


「さっすがにこのまま入院して置換手術になると思う。今朝もマリコは君のことばっかり心配して、入院を嫌がっててねー。君の次の職とか、どーなってる?」

「それは……マリコさんが、もう、全部用意してくれて……」

「それなら良かった」


 女医は小さく微笑んだ。


「じゃーあ、君からも、手術を勧めてくれないかなー?」


 トオルはうなずくしかなかった。


  △ ▽ △


 自宅へ戻って体を徹底的に洗い、一番清潔だと思われる服を着て彼はマリコさんの見舞いに行った。


 一般病棟の個室でたくさんの医療機器に囲まれ管につながれて、彼女は横になっていた。


「失礼します……」


 ほんの小さな声を出しただけなのにマリコさんはパッと振り向いた。


「おやトオルくん、わざわざ来てくれるなんてすまないね」


 元気を装って起き上がろうとするのを、彼は慌てて駆け寄って制止する。


「寝ていてください、入院中なんですから」

「……そうかい?」


 彼女は再び枕に頭を載せた。頬がはっきり分かるぐらい青白い。トオルの胸が握りつぶされたように痛んだ。


「すまなかったねえ、驚かせてしまったろう」


 血の気のない唇が微笑む。彼は首を横に振った。


「手術をすると聞きました。もちろんするんですよね?」


 強く言うと、彼女の笑みが苦笑の形に変わった。観念した、諦めたような表情になっていく。


「ヒトミだね? まったく、おしゃべりなんだからぁ」

「いつごろ手術になるんですか?」

「一ヶ月先とか言われたなぁ。色んな準備してたら、それくらいになるんだってさ」


 一ヶ月後ということは。トオルは素早く計算する。ワト教授のチームに彼が参加するのも一ヶ月後とマリコさんは言っていた。今から交渉すれば、もう半月ほど遅らせることも可能だろう。


 マリコさんの手術に、付き添える。


「ああ、だから定例のミーティングは、来てくれればここでやろう」


 彼女の明るい声。びっくりして彼は顔を上げた。


「ミーティングって、そんな、大丈夫なんですか?」

「いやあ手術まで寝てるだけだから、私は暇なんだよ」


 マリコさんはあははと笑う。彼は迷ったが、見舞いに来る絶好の口実なのに気づいた。


「そういや今日もミーティングの日だね。簡単に、今やる? ……と言っても、私の騒ぎで進んでないか……」


 彼女の口調が沈んだものになっていくのを急いで遮った。


「一つ、お聞きしたいことがあったんです」

「ん、なんだろう?」


 彼の方を向くマリコさんの目をしっかり見て、トオルは言った。


「僕は、無機メタルの結晶生成は、あまり経験と知識がなくて」


 打ち明けた。自分の不得手なことを。


 自分が今できることを一晩かけ、考えたのだ。たどり着いた結論は「マリコさんが胸を張って送り出せるような成果を上げる、そのために何でもする」だった。


 だから、彼女に自分の弱い部分をさらけ出す勇気を出した。


「シリコメタルと比べて、何か気をつけることってあるんでしょうか?」


 彼女のまぶたが、ゆっくり閉じて、また開いた。現れたその瞳にはやさしい光があった。


「そうだなぁ、コツとしては」


 いつものように軽やかで穏やかな声。


「その日その時で、生成に最適な温度がころころ変わるんだ。本当に微妙な環境の違いが原因なんだろうけど、コンマ以下一桁の調整がポイント」

「温度の、小数点以下一桁」


 繰り返して頭に刻み込む。


「そう。実験をするごとに、最初の一分間は様子を見ながら手動で調整をしていく。一分てば安定するねえ、経験上」

「一分間、生成の様子を観察して温度を調整する」

「そうそう」


 役に立つかなぁと付け足した彼女に、トオルは深く頭を下げた。


「ありがとうございます、やってみます」

「期待しているよ」


 その言葉に驚いて彼女の顔を見つめた。マリコさんは満面の笑みを浮かべていた。

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