◆12 男児

「まだ帰らないのかい?」


 その日の夜、もう遅いと言っていい時刻。マリコさんがまた声をかけてきた。


「……あまり根を詰めすぎると、良くないと思う」


 白々しい言葉に聞こえ、苛立いらだった彼は振り返りもせず首を横に振る。


 残り一ヶ月の間に、何か目覚ましい成果を。ミワ研究室で、マリコさんのもとで、何かを。でなければここに来た意味が完全になくなる。


 困ったように彼女は黙った。そしてややあってから、小さな声で続けた。


「じゃあ……お先に失礼するよ。鍵のロックの仕方は分かる?」


 一拍後、トオルは彼女の方を振り向いた。そう言えばこれまでずっと、マリコさんは彼より帰るのが遅かった。そして彼より先に研究室にいた。彼が戸惑っているうちに、


「教えていなかったっけ。じゃあ今教えよう」


 彼女は立って部屋の入り口へ向かう。トオルは慌てて追いかけた。


「簡単だよ。ドアを閉めて、電子キーの星印アスタリスクを四回押す」


 ピーと軽いアラームが鳴ってから、ガチャリと鍵の閉まる音がした。


「開け方はね、○二一九」


 えっ。トオルは息をのんだ。マリコさんの細い指が数字キーを押し、またアラーム音がして鍵が開く。


「番号、覚えられた?」


 数字キーを凝視して、うなずく。一と二と九と○のキーだけ印字が薄れていた。覚えられないはずがない。二月十九日。トオルの、誕生日。


「オッケーオッケー、ばっちりだね」


 マリコさんはさっさと研究室の中へ戻っていく。彼は廊下に棒立ちのままそれを見ていた。


 偶然? 偶然だろうか? それとも?


 すぐに彼女はまた廊下に出てきた。バッグを手にしている。


「お疲れ様、じゃあまた明日」


 にこっと笑って、建物の出入り口の方向へ歩きだす。トオルはその背中を茫然と見送っていた。


 だが、突然。彼女の膝がガクリと折れた。崩れるように床に倒れていく。


「――マリコさんっ!?」


 反射的に彼は叫んでいた。彼女へ向かって駆けだす。その間、マリコさんはぴくりとも動かない。


 抱き起こしてもぐったりとしていて、目を開けない。呼吸が速く、浅い。


「マリコさん、マリコさんっ!?」


 どんなに揺さぶっても彼女は反応しなかった。トオルはパニックに陥りかけ、


『お母さんを、頼んだぞ』


 ハッと顔を上げた。


 若い母親の腕に抱かれた、幼い男児の姿が見えた気がした。男児がつぶやく。


『そうだ、僕が、お母さんを守らなきゃ』


 ぎゅっと唇を引き結び、トオルは腕に抱いたマリコさんを見た。


「僕しか、いないんだから」


 十九年前と同じ言葉を言って、ポケットから通話端末を引き出す。ここに来た初日にマリコさんから「絶対に登録しておくこと!」と渡された番号リストのうちの一つを呼び出した。


 二回のコールで相手は出た。


「はい、健康医療センターの当直医、カジ・ヒトミです」


 名前と顔に覚えがあった。幸運だと思った。


「ミワ研究室のクボ・トオルですっ。ミワ・マリコ教授が突然倒れましたっ」

「えっ、マリコが!?」


 早口でこちらが言ったのを、マリコさんと親しそうだった女医はきちんと聞き取ってくれた。彼女が焦った表情を見せたのは一瞬、すぐに冷静な医師の顔になった。


「こちらで救急隊を呼ぶ。マリコの意識はある?」

「呼んでも反応しませんっ」

「マリコの顔を写せる?」


 通話端末をマリコさんへ向け、女医の指示通りに動かす。


「脈拍を測れる?」

「やり方が分かりませんっ!」


 トオルははっきり自分の無知を告白した。


「なら、マリコの首筋に君の人差し指を当てて――」


 教えられるがままに頸動脈けいどうみゃくの脈動を数え、女医に伝える。


「あとは君は、マリコの体をそのまま支えて、救急隊が来るまで待っていて」

「はいっ」

「その後は救急隊の指示に従ってほしい」

「分かりましたっ」


 それで女医との通話は終わった。トオルは震え続ける腕でしっかりマリコさんの体を抱え直す。


「お母さん……」


 呼びかける。


「お母さん……っ!」


 けれどマリコさんはこたえを返さなかった。


  △ ▽ △


 すぐに救急隊が駆けつけ、マリコさんを病院へ運んでいった。トオルは帰宅していいと言われたが、研究室に泊まった。


 マリコさんを医療関係者たちに任せたことで、トオルの中に一気に動揺が戻り、すさまじく暴れ狂った。うろうろと部屋の中を歩き回り、実験装置を軽く叩いたり、薬品瓶を並べ直したり、意味のないことばかりをして、夜を徹した。


 そして朝、健康医療センターが開く時刻になるのと同時に押し入った。受付でヒトミとだけ覚えていた女医に会わせろと強弁し、驚いた職員に拒否され、めて警備員を呼ばれかけたところで、背後から「トオルくん」と声をかけられた。


「君、昨日帰ってなかったの?」


 やはり眠そうな目をこすっている、ヒトミ医師だった。彼女が職員に軽く説明してくれ、トオルは診察室へ通された。


「マリコさんはあの後どうなんですか?! 意識は?!」

「大丈夫だよー、いったんは集中治療室に入ったんだけどね、今日の午後には一般病室へ移るって。今朝目も覚めて、軽く話だってできたし」


 ここで女医は少し困ったように笑った。


「君が知らせてくれたって言ったら、マリコはずいぶんと動揺しちゃってね。だっからまずは君が、落ち着いてー」


 トオルはあごを引いて視線を落とした。顔に手をやると、っていない無精ぶしょうひげがチクチクと刺してきた。一度深呼吸して、それからどうしても訊きたい質問をする。


「マリコさん、何か、病気なんですか? もしかして……ずっと前から?」


 眠れない夜の間、考えていた。ごく一般的な情報しかトオルは通話で言わなかったのに、やって来た救急隊は即座に注射や点滴を始めた。何か薬剤名や症状名らしきものも飛び交っていた。ヒトミ医師が詳しい情報を渡したとしか思えない。


 相手はまだ困った笑顔のままだった。悩んでいるように、視線が左右に揺れている。


 そして女医はデスクの方へ向き直った。

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