◆11 勧奨
半日研究業務をさぼったことについて、マリコさんは何も言わなかった。部品をオヅ研究室に返したかどうかを確認して、トオルが
トオルはただ研究を続けた。心地よい環境に整えられたミワ研究室に閉じこもり、昼食にさえ出ていこうとしなかった。夜も可能な限り居残った。
朝、彼がやって来ると彼女は「おはよう」と
それでも、トオルはミワ研究室へ行き続けていた。行かないと研究ができないから。行かないとマリコさんに会えないから。
彼女と会話をするのが怖かった。彼女と会えなくなるのはもっと怖かった。意気地のない自分が嫌で
そんな彼に、マリコさんはやはり何も言わなかった。
相変わらず彼女の外出は続いていた。オヅ教授と一緒に研究会の準備をするために。オヅ教授と会うために。そして帰ってきた彼女はいつだって顔色が明るく、安らいだような表情になっていた。
誰が
最悪な状況だった。
音波干渉の理論化が進まなくなっていた。そもそも実験の結晶生成自体がきちんと行われていない可能性に、トオルは気づき始めていた。
無機メタルを使った結晶生成は彼にとってあまり
数日置きのミーティングで、彼女は「どうだい?」と尋ねる。彼はただ頷く。彼女が「順調かい?」と尋ねる。彼はただ頷く。その繰り返しだった。
いびつな形の結晶ばかりがディスプレイに映し出される。失敗作ばかりが作られていく。失敗作の自分には、失敗作しか生み出すことはできないのか。トオルは一人、闇の中にうずくまっていた。
六月初め、ミワ研究室に入ってから二ヶ月のある日。険しい顔で結晶生成装置へ向かう彼に、マリコさんが声をかけてきた。
「トオルくん、少し、話があるんだ」
彼の全身が硬直した。右腕の
「ほら、トオルくん」
奇妙なまでにやさしい声に、彼は関節が
彼女がイスに腰かけつつ向かいの席を軽く叩く。彼はひどくぎこちなく、そこに座った。
「中央の、国立先端科学技術研究所、知ってるよね?」
唐突に言われた名称に彼はゆっくり瞬きした。
「そこのワト教授、知ってる?」
彼女の目が返答を促すので、彼は頷いた。ここ一年ぐらいシリコ系素材で論文を連発している研究チームのリーダーだ。そこからも、トオルは高等教育課程の修了前に
マリコさんは口元に笑みを浮かべて言った。
「ワト先生のチームが新しい研究員を探してるって話があってね。問い合わせてみたら、先方もすごく乗り気で、すぐにでも君が行けるようポストを整えてくれるそうだ」
そして微笑んだまま彼女は続けた。
「君はそちらに移るべきだ。そのほうが断然いい」
息が止まった。
何かを詰め込まれたように、耳の奥の頭蓋内が真っ白に固まった。右腕は痙攣を始めていた。
「どうだい?」
微笑んだ唇のまま、彼女は小さく首を
「あ、君の雇用契約については大丈夫だよ。私の側の都合で中途解雇ってことにするから。ちょうどいい口実も用意できるんだ、実は」
口実とは何だ。雇用契約中の解雇なんて、そんな
突然トオルの体を電流が走った。
マリコさんは、研究室を畳む、退職するのではないか。オヅ教授と、結婚して。
おかしいことにはトオルだってとっくに気づいていた。いくらマリコさんに権力がなくても、彼女は教授だ。率いる研究室に他の研究員がいないのは異常だ。
本当は、ミワ研究室は既に畳まれているはずだったのではないか。でもトオルが入ることが内定してしまっていたから、
彼女は変わらず、微笑んでいた。
「なにしろ向こうのほうが実験環境も充実しているし、正直、給金もずっといい。福利厚生なんてのもずっと良くてね」
声が弾んでいるようにさえ聞こえた。
「すごく良いポストだから、君があちらに行ってくれたほうが、私としてもうれしいな」
世界が、凍った。
捨てられた。
トオルはただ、ゆっくりと頷いた。
「受けるってことで、いいかな?」
もう一度頷く。
「良かった!」
喜ぶ声。そこには確かに、
「来月初めにはあちらの準備が整うらしいから。あと一ヶ月だね」
あと一ヶ月。この研究室にいられるのが。マリコさんといられるのが。
彼女が立ち上がっても、トオルはしばらくそのまま、動けなかった。
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