◆11 勧奨

 半日研究業務をさぼったことについて、マリコさんは何も言わなかった。部品をオヅ研究室に返したかどうかを確認して、トオルがうなずくと「ありがとう」と微笑んだ。それだけ。


 トオルはただ研究を続けた。心地よい環境に整えられたミワ研究室に閉じこもり、昼食にさえ出ていこうとしなかった。夜も可能な限り居残った。


 朝、彼がやって来ると彼女は「おはよう」と挨拶あいさつしてきて彼は「おはようございます」と返す。夜、彼が帰ろうとすると彼女は「お疲れ様」と声をかけてきて彼は「お先に失礼します」と返す。トオルとマリコさんが交わす言葉はそれ以外なくなっていた。他の言葉を彼女が言っても、彼は頷くか首を横に振るかしか、できなくなっていた。


 それでも、トオルはミワ研究室へ行き続けていた。行かないと研究ができないから。行かないとマリコさんに会えないから。


 彼女と会話をするのが怖かった。彼女と会えなくなるのはもっと怖かった。意気地のない自分が嫌でたまらなくて、それでも怖くて動けなかった。


 そんな彼に、マリコさんはやはり何も言わなかった。


 相変わらず彼女の外出は続いていた。オヅ教授と一緒に研究会の準備をするために。オヅ教授と会うために。そして帰ってきた彼女はいつだって顔色が明るく、安らいだような表情になっていた。


 誰がうそいているのか分からなかった。祖父か、マリコさんか、オヅ教授か、あの若い研究員たちか、分からなかった。


 最悪な状況だった。


 音波干渉の理論化が進まなくなっていた。そもそも実験の結晶生成自体がきちんと行われていない可能性に、トオルは気づき始めていた。


 無機メタルを使った結晶生成は彼にとってあまり馴染なじみがないことだった。論文や書物には書かれないレベルの細かいコツを、彼はよく知らない。本来ならこんなときこそ、研究室の長であるマリコさんの助言を請うべきだった。しかしそれを彼はできなかった。


 数日置きのミーティングで、彼女は「どうだい?」と尋ねる。彼はただ頷く。彼女が「順調かい?」と尋ねる。彼はただ頷く。その繰り返しだった。


 いびつな形の結晶ばかりがディスプレイに映し出される。ばかりが作られていく。の自分には、失敗作しか生み出すことはできないのか。トオルは一人、闇の中にうずくまっていた。


 六月初め、ミワ研究室に入ってから二ヶ月のある日。険しい顔で結晶生成装置へ向かう彼に、マリコさんが声をかけてきた。


「トオルくん、少し、話があるんだ」


 彼の全身が硬直した。右腕の瘢痕はんこんが火炎に晒されたように激しく痛みだす。


「ほら、トオルくん」


 奇妙なまでにやさしい声に、彼は関節がさびついたような動きで振り向いた。ギリリ、ギリリリ、ギッ。


 彼女がイスに腰かけつつ向かいの席を軽く叩く。彼はひどくぎこちなく、そこに座った。


「中央の、国立先端科学技術研究所、知ってるよね?」


 唐突に言われた名称に彼はゆっくり瞬きした。


「そこのワト教授、知ってる?」


 彼女の目が返答を促すので、彼は頷いた。ここ一年ぐらいシリコ系素材で論文を連発している研究チームのリーダーだ。そこからも、トオルは高等教育課程の修了前に勧誘スカウトされていた。


 マリコさんは口元に笑みを浮かべて言った。


「ワト先生のチームが新しい研究員を探してるって話があってね。問い合わせてみたら、先方もすごく乗り気で、すぐにでも君が行けるようポストを整えてくれるそうだ」


 そして微笑んだまま彼女は続けた。


「君はそちらに移るべきだ。そのほうが断然いい」


 息が止まった。


 何かを詰め込まれたように、耳の奥の頭蓋内が真っ白に固まった。右腕は痙攣を始めていた。


「どうだい?」


 微笑んだ唇のまま、彼女は小さく首をかしげる。


「あ、君の雇用契約については大丈夫だよ。私の側の都合で中途解雇ってことにするから。ちょうどいい口実も用意できるんだ、実は」


 口実とは何だ。雇用契約中の解雇なんて、そんな滅茶苦茶めちゃくちゃなこと――。


 突然トオルの体を電流が走った。


 マリコさんは、研究室を畳む、退職するのではないか。オヅ教授と、結婚して。


 おかしいことにはトオルだってとっくに気づいていた。いくらマリコさんに権力がなくても、彼女は教授だ。率いる研究室に他の研究員がいないのは異常だ。


 本当は、ミワ研究室は既に畳まれているはずだったのではないか。でもトオルが入ることが内定してしまっていたから、最低限の人間マリコさんが残っていただけ。


 彼女は変わらず、微笑んでいた。


「なにしろ向こうのほうが実験環境も充実しているし、正直、給金もずっといい。福利厚生なんてのもずっと良くてね」


 声が弾んでいるようにさえ聞こえた。


「すごく良いポストだから、君があちらに行ってくれたほうが、私としてもうれしいな」


 世界が、凍った。


 


 トオルはただ、ゆっくりと頷いた。


「受けるってことで、いいかな?」


 もう一度頷く。


「良かった!」


 喜ぶ声。そこには確かに、安堵あんどの色が含まれていた。


「来月初めにはあちらの準備が整うらしいから。あと一ヶ月だね」


 あと一ヶ月。この研究室にいられるのが。マリコさんといられるのが。


 彼女が立ち上がっても、トオルはしばらくそのまま、動けなかった。

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