◆10 声

 屋外のベンチにトオルはうなだれて座っていた。蒸し暑さの中で、汗が肌を流れ服をぐっしょり濡らしていくのを感じる。だが、動けなかった。


 いつの間にか地面を照らす光が朱い夕焼けのものになっていた。もう何時間こうしていたのか。通り過ぎる人は怪訝けげんに思っているだろうが、そもそも通行人がいたのかどうかさえ、ただ地面を見ていた彼には分からなかった。


 急に、ズボンのポケットに振動を感じた。通話端末の着信通知。――マリコさん?


 トオルは数瞬硬直し、それからのろのろとポケットに右手を入れ、端末を握った。それはまだ震えている。悩んで、ためらって、やっと端末を引き出して画面を見た。


 祖父の番号だった。


 口の中でギリッという音がした。奥歯がきつく噛んでいた。朱く燃える大気の中で冷たい汗がしたたる。右腕が堪えがたいほどにうずきだす。無意識のうちに左手でそこを握りしめた。


 通話端末は執念深く震え続けている。トオルはスローモーションのような動作で、「音声のみで応答」のボタンを押した。


「なぜ出ない!」


 暗い画面から激しい怒声が響き渡った。


「私は暇を持て余しているお前と違って忙しいんだ! お前は愚図ぐずすぎる!」

「……ごめんなさい」


 か細い声で応えた。ただ謝るのが祖父への応対での最善手だと、十九年間の経験で知っていた。


「いったいいつになったら中央に戻るんだ! そんな僻地へきちでぶらぶらしおって!」

「ごめんなさい」

ごく潰しの学者なんぞになって、しかも中央にいられず地方に流れて! このクボ家の面汚しが! 嘲笑される私の身にもなってみろ!」

「ごめんなさい」


 ああ祖父は同業者との会合に出た直後なのだろう。それだけは察しがついた。


「本当にお前は使い物にならん! 私がこれだけ教育してやったというのに! 私の会社を手伝える能力がつかなかった! そうとも認めてやろう、お前は私の唯一のだ!!」


 祖父のに、ギッとまた奥歯がきしむ。


「アバズレの血が混じって、まともに育つはずがなかった! あんなに優秀だったテツオをあのアバズレがたぶらかしたばっかりに!! テツオは死んだ!!」


 右腕の疼きが火にあぶられたように激しくなる。


「あの火事で、テツオでなくお前が死ぬべきだった! 失敗作にしかなれないお前が!」


 応えないトオルに、さらに怒声が浴びせられ続ける。


「聞いているのか! なんとか言ったらどうだ、この死に損ない!」

「……ごめんなさい……」

「あのアバズレにも捨てられた、失敗作が!」


 それは違う、とトオルは叫びたかった。


 祖父はずっと、母親に捨てられたトオルを仕方なく引き取ってやったんだと言い続けていた。だがトオルは成人してから、自分の籍をたどって母親のことを調べた。そして母親がまだクボ姓であり、再婚などもしていないことを知った。


 マリコさんのミワ姓は旧姓で、結婚前からの研究者としての通用名で、彼女の本名はクボ・マリコなのだ。夫が死んで十九年がっても。


「とっとと学者なんかやめてしまえ! 失敗作のお前が、何かを成し遂げられる、わけがないんだ!!」


 一方的に通話が切れる。トオルは強ばった腕を動かし、端末を握り直し、次の瞬間地面に叩きつけた。


 ガンッとにぶい音が響く。それに構わず彼は右手で顔を覆う。左手は疼く右腕を握ったまま。


 泣きだすこともできず、トオルはその場に座り込んでいた。


 耳に、小さく、遠く、男声バリトンが聞こえる。


『逃げろ、マリコ』


『トオルを連れて、逃げろ』


『マリコ、トオルを頼む』


『トオル』


『お母さんを、頼んだぞ』

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