◆09 オヅ研究室

 オヅ教授から融通ゆうずうしてもらった汎用制御基板をミワ研究室が改めて手に入れるのに、結局一ヶ月半もかかった。ひとえに、修理課のあの問題ある課長、サノを回避するのに失敗し続けていたからだった。


 やっとサノのいないタイミングで受付カウンターへ行けた時、トオルは基板を六枚も取得申請した。受付の女性職員も「はいっ!」と瞬時に渡してくれた。思わず握手を求め、互いにがっちりと握り合ったほどだった。


 マリコさんも入手成功を大変喜んでくれて、速やかにオヅ研究室へ返すべくトオルが昼食に出るついでに足を運ぶことになった。もちろん彼自身の立候補だ。


 早めに昼を済ませたとはいえ既に正午を回り、緑の多いカザミ先端物性研究センターでも、うだるような暑さだった。けれどトオルは弾む足取りで歩く。


 無機メタルを使った音波干渉実験に切り替えたことで、格段に音波の影響が分かりやすくなっていた。理論化すなわち数式化の試みも始めており、仮の数式による予想と実験結果の比較をしようとしてはまだまだ違いが大きすぎて悔しがるのを繰り返していた。だがそこまで研究段階が進んだこと自体が彼にとってうれしい。


 だからこそトオルは「部品を直接返しお礼を言う」という名目でオヅ研究室を訪れるのが楽しみでならなかった。運良くオヅ教授に会えたなら進捗を報告したいと思ったし、もし会えなかったとしても研究室には優秀な人がたくさんいるだろう。ひとまず今日は部品を返して顔をつなぐだけでもいい。また口実をひねり出して訪れることはきっと可能だ。


 マテリアル第一研究棟はきっちりしたセキュリティが整っていた。入り口の内線通話端末からオヅ研究室を呼び出し、秘書ロボットに用向きを伝えて初めて玄関の自動ドアが開いた。オヅ教授たちの研究スペースは最上階のフロア全てだった。


 エレベータを下りた彼は一番手前に開いたままのドアを見つけ、中をのぞき込んだ。予想通り、若手の研究員がたむろする休憩室のようだった。少し室温がミワ研究室より高いように感じた。


「すみません、ミワ研究室から来たクボですが」


 よそいきの愛想のいい声をかけると、五人いたうちの二人が振り向いた。別の一人が備え付けのパネルを見る。


「あ、オヅ先生が貸した基板を返しに来てくれたっていう?」

「はい、そうです」


 パネルを確認した研究員が立ち上がったが、こちらを見ていた二人、トオルより数才年上らしき男性たちが先にささっと近づいてきた。


「君が新入りの?」

「例の若いオトコってわけか」


 かけられた言葉にトオルは驚いた。オトコという言い方に、強い違和感を覚える。「研究員」でも「男性」でもなく「オトコ」とは――。


「何、部品返しに来たの? そんなやっすい物、どうでもいいのに」

「まあそーだよね、オヅ先生からのお恵みなんて、君としたら嫌だよねー」


 差し出された手に、一瞬ためらって、だが基板の箱を渡した。


「あの……それはどういう意味で……」


 違和感の強さに耐えきれず、質問をしてしまう。出した声は自分でも不安定に揺れているのが分かった。


「えっ、君もしかして知らないの?」


 トオルの前に立つ若い男たちは顔を見合わせた。目が輝いている。


「うわー、そりゃ可哀想に」

「オヅ先生も罪な人だよねー」

「……どういう……」


 阿呆あほうのように繰り返した彼へ、下品な笑みを浮かべた男たちは内緒話をするように口に片手を添え、しかしまったく声を潜めずに言った。


「オヅ先生はミワセンセのイイヒトなんだよ、君が来るずっと前から。二人がオトコとオンナの関係にあるのは、ここじゃ有名な話」

「ミワセンセも悪い女だよね、地位と力のあるオヅ先生だけじゃなく、若いツバメまで欲しがるなんてさ」


 トオルの足が震えだしていた。止めようとしても、どうしても止まらない。


「君は知らなかったんだ? あ、あと修理課のサノ課長ともデキてるって噂だけど」

「いやそれはもう切れたって。オヅ先生がなびいたんでとっくに別れたって言ったろ」


 トオルはドアに手を突いた。その時、後ろでエレベータのチャイム音が鳴った。びくっと振り返ったトオルの目に映ったのは、オヅ教授の姿。


「おや、クボくん?」


 よく響く男声バリトンで呼ばれた瞬間、彼は逃げ出した。


 オヅ教授から休憩室の研究員たちから逃げた。無茶苦茶に廊下を走った。驚いた顔の白衣の人間何人もとすれ違う。


 すぐに廊下も突き当たりになり、慌てて左右を見回す。「階段室」のドアを見つけ、そこが避難シェルターででもあるかのように飛び込んだ。


 薄暗い狭い階段。そこをトオルは駆け降りていった。


「嘘だ……」


 気づかず、呟いていた。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ……!」


 暗くて押し潰されそうな空間を、トオルはただ底へ向かって降りていった。

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