◆08 痕跡
薬品棚からトオルは無機メタルの鉄と希釈サルフォ酸を選んだ。結晶生成装置内の残留素材などを除去する作業を行って、鉄の粉末を投入トレイに入れる。そしてサルフォ酸の瓶を装置上部に差し込もうとした時。
突然、何か低い響きが聞こえ、次に建物が大きく揺れた。
「わっ!?」
「うわっ!」
ガシャガシャッと棚の中で瓶がぶつかる音。もう一度さらに強く揺れる。立っていた彼はバランスを崩してとっさに装置に両手を突き、そこへ、中途半端に刺さっていた酸の瓶が倒れて中身が降り注いだ。
「つっ……!」
「トオルくん!?」
マリコさんの上げた悲鳴のほうが大きかった。
トオルが反応するよりも早く、彼の体は彼女に抱えられて流し台へ運ばれていた。
「早くっ!!」
蛇口がいっぱいに開かれ、シャワー状の太い水流の下にトオルの両手が突っ込まれる。
「ああこれじゃ足りないっ!」
マリコさんは隣の蛇口も開き、彼の片方の手をそちらへ引っ張る。トオルの
気がつけば、揺れは収まっていた。それでも彼女は彼の手首を握る力を緩めない。間近な距離にいる彼女に、トオルの心臓の鼓動は乱れだしていた。後ろから彼を抱きかかえているような――子供の
「……あの……そろそろ……大丈夫だと……」
「ダメだよ、サルフォ酸は強い酸なんだから、しっかり洗い流さないと!」
たっぷり十分はそのまま水を浴び続けて、それでようやく彼女はトオルの手を離した。しかし、
「さぁ健医センターへ行こう」
今度は彼の二の腕を掴む。
「え、いや、これくらいなら……」
「ダメ! ちゃんと
ぐいぐいと強引に引かれ、彼は逆らうこともできず、連行された。
△ ▽ △
「うん、これなら大丈夫だよー。念のための軟膏だけ出しておこっか」
健康医療センターの診察室にいたのは女性の医師だった。あははと笑いながら、トオルの後ろに立っているマリコさんへ話しかける。
「応急処置が良かったんだね。マリコのお
後ろから
「とっころで、そろそろそのびしょ濡れの白衣、脱いだら?」
あっとトオルはイスに座ったまま振り向いた。マリコさんは腕全体、肩先まで濡れていた。
「そうだね、気がつかなかった」
小さく笑って肩をすくめ、彼女は無造作に白衣を脱ぐ。瞬間、トオルは目を見開いた。
半袖から出ているマリコさんの左の二の腕に、はっきりとした
絶句している彼をよそに女医の明るい声がした。
「あーほらー、トオルくん固まってるじゃん。だっから前から言ってるでしょー、いい加減その火傷の
「ヒトミ。何度も言ってるけど、これはこのままでいいんだよ」
マリコさんは困ったように眉と目尻を下げた。
「ごめん、嫌なもの見せたね?」
トオルは無言でただ首を横に振った。言葉なんて何も思いつかなかった。
彼の右腕の
彼女は気づかない。だけど彼は気づいてしまった。マリコさん――自分の母親に、自分と同じ、あの火事の痕があることを。自分のよりも一層ひどい、痕が。
「じゃあ戻ろうか。ヒトミ、ありがと」
「どーいたしまして、お大事にー」
マリコさんに促され、まだ呆然としているトオルは機械的に礼を言って立ち上がる。ひらひらと手を振る女医に見送られて診察室を後にした。
トオルの頭がそれでも少し働くようになったのは、廊下の窓の外が視界に入った時だった。
昼間とは思えない暗さに意識を引かれ、大雨でも降り出したかと目を
「……あぁ、火山灰か」
彼女が呟く。
「さっきの地震は、フツ山の噴火だったんだろうね」
その言葉で、近くに位置する火山の活動が急に活発になったと報道があったのを、彼も思い出した。
初めて見る降灰は奇妙なものだった。風に吹かれ不安定に落下軌道が揺れる幅は、降雨よりも大きい。
「ユキみたいだね」
マリコさんが言った。聞き慣れない単語に、トオルはつい彼女の方へ視線を向ける。彼女も彼の疑問を見て取ったのか、そうかとまた小さく呟いた。
「君はユキを知らないのか」
窓の向こうの景色が指差される。
「昔々、こんな風に空から舞い落ちてきた、白い、結晶のことだよ」
やっと意味が分かった。トオルが生まれる前に日本で起きていたという気象現象。幼い頃に学校で習った記憶があった。「雪」だ。
しばらく二人、ただそれが落ちてくるのを眺めていた。火山が吐き出した灰だと思うと、トオルにはそれが嫌なモノで、無いほうがいいモノであるように感じられた。けれどマリコさんは、
「……懐かしいな……」
そんなことを、小さな小さな声で呟いたのだった。
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