◆04 修理課

「どうして新しい基板がもらえないんですか、理由を教えてください」


 修理課の受付カウンターで、トオルは彼なりに必死に訴えていた。


「いやさっきから言ってますでしょ。その電子回路基板は今、切れてるんですよ」


 カウンターの向こうで中年の男性が薄く笑い、のらりくらりと答えてくる。トオルとマリコさんを見比べているのか、左右に揺れる視線が妙にいやらしさを感じさせた。


「そんなはずはないです、よく使われる、汎用の制御基板じゃないですか」

「それでも無い物は無いんでねえ」


 押し問答をしている間にも、他の研究室の者たちがカウンターに来ては別の職員に受け付けされていた。皆、とどこおりなく交換部品を受け取るかあるいは部品や専門修理の発注手続きをするかして去っていく。


「でしたらこの基板を発注します。手続きをお願いします」

「んー、どうですかねえ。たしかメーカー側も在庫を切らしてて発注不可なんですよ」


 ありえない。トオルが三月までいた研究室では常に五枚は研究室内にストックしていたくらい、最先端の物性系実験装置にはよく組み込まれていて、しかも故障しやすい、汎用基板なのだ。


 隣の職員の前にまた、他から来た者が立った。


「すみませーん、例の回路がまたショートしちゃって」

「えっ……あ、はい……」

「いつもの基板、お願いしまーす」


 気軽な調子で言われたのに、若い女性職員は急にひどく狼狽ろうばいしたようだった。おろおろと隣の、トオルに応対している中年男性の方をうかがう。だが中年男性は素知らぬ顔だった。


「あれ、うちの研究室の修理予算、まだありますよね……ていうかもう四月だ、リセットされたんだった」

「は、はい、その通りです……」


 若い職員はトオルたちにも視線を向ける。トオルの斜め後ろにいたマリコさんの口から、小さなため息がこぼれたのが聞こえた。トオルがつい振り返ると、肩がポンと叩かれる。


「トオルくん、いったんお昼ご飯を食べに行かないか。お腹がすいて、そろそろ我慢しがたいんだ」


 寝坊して朝食を抜いちゃってさ、などと呑気のんきな口調で言っているが、トオルの顔を見つめる瞳はその日そこまでで一番強いものだった。従ってくれ。きつく指示、あるいは懸命に懇願された気がした。


 トオルは一瞬息をのんだのを誤魔化すように、ことさら大きなため息を吐いてみせた。軽い口調を装って応じる――そうしたほうがいいと直感した。


「寝坊とか何やってるんですか。僕、今日が勤務初日なんですけど」

「遅刻しなかったんだからいいじゃないかぁ」

「はい、じゃあ行きましょう」


 カウンターの中年男性に「出直します」と会釈してから、その場を二人で立ち去った。


  △ ▽ △


「いったい……どういうことなんですか?」


 食堂へ来ていた。昼食にはやや遅い時間のため、数人用の丸いテーブルにトオルとマリコさんだけが向かい合って座っていた。彼の前にはオムライスとコーヒー、彼女の前にはピラフとサラダとアイスティーがある。


 マリコさんは苦笑していた。自嘲の笑みだった。


「すまない、力の弱い研究室で」

「そういう問題じゃ、ないです」


 替えの部品を受け取れないまでなら、弱小研究室への嫌がらせと捉えられなくもない。だが、あの若い女性職員の様子、彼女をかばうかのようなマリコさんの言動。


「さっきの受付の男性が、何か、問題のある人なんですか」


 マリコさんはストローでアイスティーをかき混ぜながら答える。


「彼はサノという名前で、修理課の課長なんだけど……君の想像通り、かなり問題のある人物でね」


 トオルはグッと眉根を寄せた。ざっと見た限り、カウンターの向こうの修理課にいたのはほぼ全員が若い女性だった。


 以前所属していた研究室でもそうだったが、簡単な修理であれば故障にってしまった本人なり得意な後輩や同輩なりが研究室内で済ませる。それ以上の修理となると今度は専門の業者を呼ぶ必要がある。つまり多くの研究施設では、修理課はほぼ完全に事務作業のみなのだ。


 修理を担当する技術者が内部にいたなら、その人が修理課のトップへも強く出られただろうが、純然たる部下である事務員たちだけでは。


 これは、中央とは違う、地方の研究施設だからなのだろうか。それともあのサノという男個人が、とりわけひどいのだろうか。


「今日も、彼の昼休憩の時間を狙うつもりで行ったのだけれど、運が悪かったんだろうね」


 ここで、マリコさんやトオルが声を上げてサノを排除するのは、難しい。修理課は管理部門の管轄かんかつで、ミワ研究室は研究部門の管轄だ。「よそのこと」に口を出すことになる。でも、


「なんとか、ならないんでしょうか」


 マリコさんは顔を上げてトオルのことを見た。


「……もちろん、基板は必ず手に入れるよ。私の、研究室の問題で、君に迷惑をかけるわけにはいかないからね」


 反射的に彼はうつむく。確かに基板は絶対に必要だ。けれどこれはそれだけの話ではない。そしてトオルは、このことに対して何もできはしない。


 トオルはコーヒーに手を伸ばし、黒く苦い液体を口内に流し込んだ。


 そこへ、


「おや、マリコくん?」


 よく響く男声バリトンが耳に入った。トオルはコーヒーを飲む動作のまま目線を上げて、半白の髪の男性を見たとたん激しくむせる。


「オヅ先生もお昼ですか?」

「ああ。同席しても?」

「どうぞどうぞ」


 ようやくコーヒーとせきを飲み下して、トオルは背筋をぴんと伸ばした。


「……あの、オヅ・タクト教授でいらっしゃいますか? 有機メタル結晶がご専門の……」

「そうだが」


 サンドイッチの皿と共に座ったオヅ教授はマリコさんへたずねる。


「彼が前に言っていた、クボ・トオルくん?」

「ええ、そうなんですよ」


 彼女が笑顔で答えた。

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