◆02 マリコさん

 中は白と水色だった。


「よく来たね。暑かったろう」


 彼女は水色のTシャツにジーンズの上に白衣を無造作に羽織った姿でイスに座っていた。


「とりあえず何か飲むかい? ずいぶんと汗をかいている」


 長い髪を後ろで束ね、見たところアクセサリーの類は何も身に着けていなかった。


「いえ。あの」


 自分の掠れた声を他人のもののようにトオルは耳にした。そんな彼に向かって、彼女は小さく首をかしげた。四十代とは思えない、無邪気な少女のような仕草。


「ああすまない。私がミワ・マリコだよ。今日からよろしく」


 目の前の女性は微笑んだ。トオルは待った。だが彼女は何も言わなかった。軽やかな笑顔のまま、彼を見つめている。


 ――どうして?


 無言の時間に息苦しくなり、トオルは言葉を続ける。


「あの、他……の方は」

「えっと実はだね、この研究室、私一人しかいないんだ。君は待望の二人目の研究員なんだよ」


 おどけたように肩をすくめてから、彼女は一つうなずいた。


「君はとても優秀だと、ノダ先生からも伺っている。期待しているよ」


 僕が、分からないのか? 本当に?


「……ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」


 機械的に口を動かす彼へ彼女はにこやかに言う。


「こちらこそ。さっそくだけど、このセンターの諸々もろもろ、入館システムやら物品の手配方法やら食堂の使い方やら、説明しようか?」

「お願いします」


 彼女はさっと立ち上がった。ほっそりとした滑らかな体つき。女性らしい凹凸は控えめな代わり、贅肉ぜいにく欠片かけらも見当たらない。


「なにしろまずは身分証だね。管理棟へ行こう、案内するよ」

「いえ、受け取る場所さえ教えてくだされば僕一人で受け取ってきます」

「それがね、初めての人は必ず中で迷うっていう複雑極まりない内部構造なんだよ、管理棟って。あれは建て増しのしすぎだと思うなぁ」


 さぁ行こうと彼女はトオルに背を向け、廊下へ出ていく。その後ろ姿を彼は凝視した。


 僕が、分からないのか。


「どうしたんだい?」


 彼女が振り返る。


「いえ。すみません」


 彼は内心を押し殺すのに必死だった。なんとか彼女を追いかけ、斜め後ろの位置まで来たところで、疑問が口からこぼれ出す。


「ずっとお一人で、ミワ先生は――」

「あーちょっと待った。ミワ先生ってのはやめてほしいな。背中がむずむずしちゃうんだ」


 彼女は明るく笑った。


「でしたら、ミワ教授」

「それもむずむずする」

「ミワさん」

「んー、みんな名字じゃなくて名前で呼ぶから、君もそうしてくれないか」

「……マリコ先生」

「だから先生はむずむずするんだって」

「……マリコ、さん」

「よしよし、それでオッケー」


 にっこりと頷いて、そのまま彼女は続ける。


「君のことも、トオルくんって呼んでいいかい?」

「……はい」

「よし、ではトオルくん。亜熱帯の昼へ突撃するとしよう!」


 無邪気な言葉、無邪気な言い方。彼女は入り口扉を大きく開き、どっと熱気が押し寄せた。彼女の背後で、トオルの顔が歪んだ。


 本当に分からないのか。それで「トオルくん」なんて呼ぼうというのか。


 僕の、母親は。


「いやー本当に暑いな」


 彼女は軽い足取りで彼の前を歩いていた。その後ろをうような気持ちでついていく。


 会いに来たのに。


 期待の反転。逆回転。五才からの十九年分の激情が噴き出し、頭の中が一杯になっていく。怒り、恨み、苦しみ、悲しみ。


 彼は押し黙って歩き続け、混濁した理性と意思でそれでも考えて、考えて考えて、結論付けた。己に思い込ませた。


 こんな弱小の研究室に来た意味はなかった。完全な失敗だった。もう何も期待しない。ここは単なる踏み石。一日でも早くもっと良い研究室に移る。


 管理棟前で彼の方を振り向いた彼女は、何も知らずに不思議そうな顔をしていた。

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