失敗作

良前 収

◆01 ミワ研究室

 蒸し暑い。風はあるがまるで熱風だった。


 トオルは鞄を手にげてただ道を歩いているだけ、それなのに体中から汗が噴き出て流れ落ちていた。大事な学会発表や面談でしか着ない白い襟付きのシャツが、肌に貼り付いてしまっていた。


 朝の街は人通りが多かった。不慣れな道を進むのに、繰り返し立ち止まって目の前に投影されるナビゲーションを確認する。何度目かに止まっていた時、すれ違ってきた男と鞄同士が軽く接触した。


「どこ見てやがる!」


 怒声にトオルは息をのみ、とっさに「すみません」と返す。男は舌打ちして足早に立ち去った。


 トオルは唇を噛みしめ、鞄の持ち手をきつく握る。だが、そのまままた歩きだした。暑さで皆、気が立っているんだ。言い訳めいた思考が頭をよぎる。


 四月に入ったばかりの九州地方は最高気温が三十度を超える日が続いていた。ようやく気象庁も日本全体が亜熱帯気候に移ったと正式に発表したが、亜熱帯で済むのかと人々は声高にうわさする。


 気候変動など、トオルにとってはどうでもいい。けれどそのせいで人々が感情的になっていくのが、耐えがたかった。


  △ ▽ △


 カザミ先端物性研究センターの正門までたどり着いたのは、約束の時間の一時間半前だった。


「本日よりミワ研究室に配属になる、クボ・トオルですが」


 身分証をまだ持っていない彼は横の受付に声をかける。案内ロボットがシリコン皮膚に覆われた腕を差し出した。


「ミワ研究室発行の証明書をご提示ください」


 彼は鞄から書類を取り出し、渡す。スキャナの目が不可視光で埋め込み情報を読んだ。


「認証ができました。どうぞお通りください」


 書類をロボットから返されると、トオルは開いた門を急ぎ足で通り抜けた。


 門の向こうは少し開けた広場のような場所で、正面には幅の広い並木道が伸びている。視線をぐるりと巡らせば、芝生や小さな木立の広がる先に、見上げるほどの立派な建物がいくつも点在していた。


 初めて訪れたカザミ先端物性研究センターは、地方の研究施設特有の広大さを誇っていた。トオルがこれまで目にしていた、過密した中央の研究施設とはまったく違う光景に、違和感と困惑が同時に込み上がる。彼はその場で自分が少しでも眼前の光景に馴染なじむのを待ってから、足を踏み出した。


 並木道をひたすら進んだ先の終端には、威圧するように一際巨大な建物があった。「マテリアル第一研究棟」と掲示されている。しかしそこでトオルは左に折れた。敷地内の地図は、事前に何度も何度も見ていたため脳裏に刻み込まれていた。


 ぐるりと回り込んでさらに敷地の奥へ進む。急に道幅が狭くなって周囲も暗くなった。高層な建物の第一研究棟で、日差しが完全に遮られたのだ。


 行くほどに道の舗装も荒くなる。両側はうっそうと茂る木々になった。胸に湧き起こる不安を押し殺して、トオルは歩いた。


 そしてようやく、彼は目的の建物を見つけた。背の低い二階建て、打ちっ放しのコンクリートの壁。道から数段上がった先に、自動ドアでさえない、古びたガラス扉。その横に「材料部門旧館」の看板があった。


 無意識のうちに彼は階段を駆け上がり、扉に手をかけていた。はたと気づいて周辺を見たが、身分証認証システムもないようだった。薄汚れ曇ったガラスは建物の中の様子を隠していた。


 トオルは大きく息を吸い、吐いた。それでも心臓は早鐘を打ち始めていた。そんな自分に苛立ちながら、彼は扉を引いた。


 ひやりと冷たい空気が流れてきて体の前面をでた。反射的に彼は顔を跳ね上げる。汗が、急速に引いていった。


 建物の中は暗かった。ぽつりぽつりと灯る旧式の電灯の下、ドアの並ぶ狭い廊下が伸びているのが見えた。一瞬トオルは逡巡しゅんじゅんしたが、もう一度息を吸い込み中に踏み込んだ。カツーンと廊下に靴音が響いた。


 カツン、カツン、カツン。奇妙に音が響いていた。人気ひとけはまったく感じられなかった。ドアに付けられた部屋名のプレートを確認しながら彼は進む。どれも端が欠けて色がまだらに変わり、文字も判別しにくくなっていた。目的の部屋がなかなか見つからない。


 カツ、カツ、カツ。焦燥に耐えきれず、響く音が速くなっていく。どこ、どこなんだ。トオルの顔が歪み始める。


 とうとう駆けだそうとしたその瞬間、遠くの床に細く伸びる光が見えた。ハッと目をらす。十五メートルほど先の光の筋は、わずかに開いたドアの隙間から漏れていた。


 トオルは停止した。たっぷり十秒、身じろぎもできなかった。ドアの向こうは静かだった。ほんの微かに何か装置の稼働音が聞こえるくらい、静かだった。


 おそるおそる息を吐いてから、靴音を立てないように細心の注意を払って、足を前に出す。それなのにまたカツンと音が鳴った。ドアの向こうは静かなまま。押し潰されそうになりながらトオルは進む。


 光をこぼしているドアのプレートには「ミワ研究室」と書かれていた。


 上げようとした右手、その二の腕に突然強いうずきを感じた。ひきつる熱い強烈な痛み。奥歯を噛みしめ、左手で疼く場所をきつく握る。痛みは変わらない、それでもトオルは右手でドアをノックした。


「はい、どうぞ」


 アルトの音域の声が聞こえた。落ち着いて澄んだ、彼を心地よく包んでいる冷たい空気のような声。彼は立ちすくんだ。


「入って。誰かな?」


 声が続ける。トオルののどが勝手に上下し、それからやっと口が開いた。


「クボ・トオルです」


 少しの間の後、返事があった。


「ああ、どうぞ入って」


 一瞬目を閉じる。朱い炎が見えた。高い高い火の壁。自分はこれを乗り越えなければならない。そう決めた。


 トオルは疼く右腕を伸ばし、半開きのドアを、押し開いた。

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