燁煙:補遺

伊島糸雨

補遺


 喩えようのないほどの愚かしさで生きられたなら、それはひとつの映画になり得ただろう。

 中途半端で、退屈で、儀礼的に苦笑する以外に術のない最下位の等級でも、誰かがひっそりと愛着を抱くような、そんな話程度にはなれたはずだ。道化は道化らしく在れるという点において才覚を持つ。それを唯一の存在意義として生涯を焼き尽くしていける。けれどもしも、愚昧に徹しきれず漫然と死んでゆくだけの器量もなく、役立たずと爪弾かれてゴミのように捨てられるしかないとしたら。おどけて泥の上を転がることもできないのだとしたら、私は未完成の自主制作映画の、頭の中で腐り続けるふざけたプロット以下でしかない。

 きっと恵まれていた。可能性はたくさんあった。選べるだけの道を、私はたぶん、用意されていた。

 だから、すべては私の問題でしかない。道化の役を貫けず、かといって役を降りるとも言えなかった、私の弱さが私を病葉に変え握り潰した。せめてまっとうに生活をしようと歯を砕き喉を掻いて胃液を吐いて、その果てに私はここにいる。

 目覚めたくない今日と眠れない明日のためにアルコールを流し込み、鮮明に脳裏を焼く記憶と現実を誤魔化すために煙を飲んだ。それでも、自分以外の、私と関わりのない物語は好きだったから、本を積み上げ虚構で目蓋を縫いとめた。最初、映画はなんでも構わなかった。光の明滅、音の漣に意識を向ければ、それだけで時間をやり過ごせた。目に入ったタイトル、たまたま手にとったパッケージで構わなかった。何もできない朝と陰鬱な昼と悪夢にうなされる夜から目を逸らせればそれで構わなかった。でも、数を重ねるうちに好ましく思うものが出てきて、なんとも酷いと笑えるものも記憶にあって、いつしかそれが、生命線になっていた。

 私と無関係の生活と、そこに滲む冷たい暖光が好きだった。私というものから遠く、不干渉で、互いに存在を認知せず、観客と映像の隔たりでいられる関係だけが唯一心地良いと思えていた。放りおけば流れゆく映画と類似して、無関心でも忌避でもなく、単に私が私の弱さと無縁でいられるという一点において、街や都市に灯る光たちが安穏だった。煙で目を潰し鼻を狂わせ束の間の酩酊を継ぎ接ぎながら、私を見つめない見つめるばかりの距離で眺め続けて、時には仕入れに隘路へ足を踏み入れる。子供は嫌いではなく、けれど私には荷が重過ぎて、店番の子には飴をあげるのが精一杯だった。私はちっぽけでまったく力もないけれど、雑多な街並みの澱み燻んだネオンたちは、クソな私を放逐することはしなかった。子供たちの瞳は飴玉のようで、けれど私が口に含むには、あまりに眩く、空想の色に満ち満ちていた。

 頭はいつだって重苦しい。この肉体も、精神も。金銭だけがよすがの関係と、浪費ばかりの生活と、私を磔にして曇らせるための成分たち。古びたリノリウムの粘つく明かりにぐらついている。病院に赴く度に思い知らされる。私はこんな私と生涯にわたって付き合い続ける。益体もなくどれだけ無様に絶叫してもこの鎖が外れることはない。いつまでもどこまでも全身の穴という穴を侵し窒息させるこの泥濘たちは、紛れもなく私の内から湧きいずる。私が私を溺れさせる。手を伸ばす力さえも、きっといつしか奪われていく。

 私が持てるものには限界があり、私という一個人が、娘が、女が、大人が抱えられる〝わたし〟にも常に終わりがつきまとう。私にできること。私だから意味のあること。私の価値。すべては機能で役割で、薄氷でできた水槽のようなものだった。時に冷水を、時に熱湯を、あるいは縁日で気まぐれに掬った金魚を放り込み、その適性の一切を顧みず、死んだ金魚の悪臭と白く膨れた艶やかな腹を眺めては、死骸の分別法を協議する。水槽は何も言わない。いつか罅割れ注がれたすべてが瓦解し溢れ、無意味と無価値の地平に消えると知っていながら、氷の水槽は口を噤んでいる。おそらくはその終わりだけが、水槽が水槽でなくなるためのたったひとつの冴えたやり方だと信じているから。

 耐えられない。ついてゆけない。正しくあれない。真っ当でありたい。異なる選択の果てには違う結末があったかもしれず、しかし私は今の他には生きられなかったと確信している。私は一本の葦に過ぎない。試みれば容易く手折れ、二度と同じには戻らない。だからこそこうして地面に横たわり、腐りゆくままに映像と言葉を再演する。澱みは澱みのまま、部屋の片隅に杭を打ち、映画館の座席に拘束し、消えたくない臆病のために命を繋ぐ。ひと口ごとに灰になり、一秒ごとにエンドロールへ近づくように、消極的な態度で氷が溶け崩れるのを待ち続ける。すべてはいつしか空想になる。遥か未来でなく、十年後の世界に自分の姿は描けない。そこに私の影はなく、焼け爛れた遺骸の断片が路地裏の水溜りに映るばかりだと悟っている。

 傑作も良作も、良いものは私の如何に関わらず良く在り続け、揺れる脳味噌にあって、そうした不変性は好ましかった。美しさも鬱屈も喜びも不安も、私と隔たって再生される現象として遠くにあり、劇中の論理は震える頭にも良く馴染んだ。物語とは普遍性で、その骨髄を舐らせるためにつけられた肉が美味ければ、それはきっと良いものだった。時には胃もたれするものも好ましく、テンプレートをなぞるばかりでも、そこにはある種の安心がある。私がどうあれ、彼らは一切影響されない。

 その上で、完全な退屈と愚かしさというものが、私は不思議と愛おしかった。最初から期待もなく、浪費とわかり切った二時間こそが何よりの安穏だった。感じることなどどこにもない。脈絡のないシーンの唐突な挿入、安っぽいCGの群れ、大根役者、不釣り合いに壮大な音楽、着地点を見失ったラスト。どれもこれもが不自然な必然によってかたちづくられ、予見されたはずのどうしようもなさを恥じることもない。そこにはクソがクソであることのおかしな自負があり、そうした評価を気に求めない一種の神性があった。役立たずの神とやらが己を恥じることがないように、存在が存在のまま、ただそこにあるだけで意味もなかった。彼らは私など及びもつかないZ級で、ドン底の泥をこよなく愛しているようだった。

 持てる資源を使い尽くしてなお、強情な選択の果てにクソであれるのなら、それはひとつの強さであったと思う。そこには正しく意志があり、どうしようもない信念があり、くだらない矜持と理想がある。少なくとも私にはそのように見え、傲岸不遜にクソをクソのまま詳らかにできるその精神性は、何か妙に清々しかった。

 無駄であることの体現と、無意味であることの証明は、恐ろしく滑稽で、それでいて強烈でなければならない。面白くてはならない。良いものであってはならず、価値や意味など脇に放り、十全な分不相応と全力と非常識を持たねばならない。あるいはそれらはこのように表現してもいいかもしれない。悪くて良い。退屈で良い。空っぽで良く、ただひとつ、厚顔無恥であれ。

 どんなことでも、突き詰めれば毒にも薬にもならないつまらない場所にたどり着く。私たちは深海の底で浅瀬に至る。そして、これまでのあらゆる努力や試みが、ここに至るための熾火であったと呆れ果てて笑うだろう。しかしそんな戯れこそが、何よりも私を生かし、この牢獄で夢を見せるのだ。

 チャプターを選んだ以上、上映が始まった以上は、結末もエンドロールに流れる名前も決まっている。私はただ眺めるだけだ。煙草を持ち上げ火をつけて、ぼやけた視界のまま座席にもたれ、この世のどんな映画よりも退屈なひと芝居を漫然と見つめ続ける。それだけが私に許された余生であって、私が選ぶ逃れがたい物語だから。責任などない。使命などない。それらを投げ出した先に待つのは、灰と吸殻の山、燃え尽きたタイトル画面だけでしかない。けれど、そのためにこそ、私はこうして座席に座る。

 だからこれは、とるに足らない私という人間が、せめてと縋る愚かな妄想だ。もしも──もしも、私が現実に足をつけたまま、蝉の余生に満たない束の間の関係を築けるのなら。もしもどこかで観客が増えるのならば、その時は。

 煙草の一本や二本程度は、わけてやってもいいかなと、そんなことを思う。




 女の子はぐっすりと眠っている。館内には明かりが灯り、その寝顔をくっきりと浮かび上がらせる。外行きの服装は垢抜けて、どこまでもこの場所には不釣り合いだと思う。近寄ると私の影が全身を覆う。張り付いた喉を撫でさすり、自分の乾いた唇を指でなぞる。「馬鹿だな、こんなのを見に来るなんて」私はひっそりと呟いてから、少しだけ笑ってみせる。私は手を伸ばす。肩を揺すり、震える目蓋のその奥に、このように語りかける。

「もう終わったよ。それとも、まだ何か見る予定が?」



 私もいつかは空想になる。だからね、私を語る人が君だったらと、そう思うんだ。

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