第19話 爪痕
それから二人は、歩きながら取り止めもなく話をした。
「あっちこっちに変な色の水たまりがあるけど、あれって何なの?」
「魔物の残骸みたいなもんさ。機嫌が悪けりゃ、あの魔霊獣みたいに襲いかかってくる。うかうか近づくんじゃねえぞ」
「勇者の伝説でレヴィアタンを襲ったのも、水たまりの親玉みたいなやつだったのかな」
「きっとそうだろうな。棲家の湖に、いつの間にか巣食ってたのか」
「他の国の精霊もみんな、レヴィアタンみたいに正気を失くしていたの?」
「いいや、シナツの精霊王・ジズだけは違うぜ。何しろ慧風の国と言われるシナツの王だ、闇に支配されないとびきりの秘術を知ってたんだとさ。自分の心を取り出して特別な壺に収め、鏡と燭台で作った一片の暗がりもない隠し部屋に安置した。それで安全だったはずなんだ――空飛ぶ魔物を追っかけてた勇者が、頭からその隠し部屋に突っ込まなけりゃな」
「なにそれ! ジズと勇者はどうなったの⁈」
「ハハ、そっからが傑作なんだ。いいか――」
湧き出す疑問をネノが次々と投げかけて、トヴァンはそれに片っ端から返事をする。言葉は尽きることがなく、あっという間に風景は後ろへ流れた。
太陽が空の頂点を通り過ぎてからしばらく経った頃、ふとトヴァンが足を止めた。
「ネノ、振り返ってみろ」
「なに?」
言われるまま後ろを向いたネノは、ハッと息を呑んだ。
いつの間にか二人は、長い傾斜を登り切ろうとしていた。すり鉢状の広大な窪地が、目の前に広がっている。『五国』のかつての中心を一望する場所に、ネノたちは立っていた。
点在する滅びた都市の遺構が、同じ方向にくっきりとした影を落としている。
街道を行く各国の商人たちが、細い帯のように連なっているのが見える。
大きな川がゆったりと流れ、水面が昼下がりの陽光にきらめいている。
そのさらに遠くには、連なる山々が青く霞んでいる。
美しく、心を旅へ誘う絶景――しかしその分、点在する「異物」が強烈に目を引いた。
「あれって……」
「手遅れになった場所さ。もう草一本生えやしない」
二人の視線の先には、穴が空いたかのように暗く沈んだ空間があった。不自然に黒く染まった土の上に、白く枯れ果てた木々の残骸が積み重なっている。空を自由に飛び回る鳥たちすら、その上空には近づきたがらないようだった。
一度訪れた世界の終わりを物語る痛ましい爪痕は、大小様々の澱んだ暗がりとして大地に刻まれていた。光と闇が歪に絡み合った景色に見入るネノに、トヴァンは言った。
「ああやって完全に呑まれた場所は、太陽の光すら撥ねつける。どんなに明るい松明を持って入ったって、闇の方に負けるのさ」
「神樹の木漏れ日なら、あそこも照らせる?」
「きっとな。それで駄目だったら、もうお手上げだ」
ネノはケースに触れ、小さく揺らした。革越しに伝わる感触は、あまりにも軽くて頼りない。それでもこの種が圧倒的な力を持っていることを、ネノは知っている。同時に、そんな力が何をもたらすのか、まだ全く思い描けない自分の無知も理解していた。
「……もっと、知らなきゃ」
ケースを握りしめるネノの頭を、トヴァンは静かに見下ろしていた。躊躇うように視線を彷徨わせてから、ゆっくりと口を開く。
「なあ、ネノ。お前さっき、疑問を疑問のままずっと頭に置いちまうって言ってたよな。それは他の気持ちでも同じなのか? 例えば……怖い気持ちや悲しい気持ちも?」
パッと振り返ったネノは、自分の心を探るようにしばらく目を伏せてから答えた。
「そう、かも」
悲しい気持ちはまだ知らない。しかし恐怖した記憶ならあった。足をもつれさせながら荒野を駆け戻った先で見た、満身創痍の男を取り囲む黒い獣の群れ。振り向いた魔物の歪んだ頭に濁った目がいくつ付いていたかも、ネノは数えられる。
「で、でも『どうして』って気持ちと一緒で、乗り越えられたらもう平気だよ。それにオレとトヴァンなら、大体の怖いものはぶっ飛ばせるでしょ?」
笑ってみせたが、トヴァンはまだ浮かない顔をしていた。あるいは、ネノの顔色が一瞬悪くなったことに気付いてしまったのかもしれない。自分の記憶について説明した時、彼が何かを言いかけていたことを思い出した。
「トヴァン?」
「お節介は承知だ、独り言だと思って聞いてくれ。普通、人はどんなことも少しずつ忘れちまうんだ。嫌な事まで全部くっきり覚えていたら、辛くてしょうがねえだろ? だが稀に、忘れるのが下手な奴がいる。俺の妹――リシアがちょうどそうだった」
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