第16話

 のしかかってきた衝撃で手に持っていた紅茶のカップが胸元にぶつかり、紅茶の液体が制服の上に広がっていく。

 潰れるようにしてテーブルの上に倒れた為に、用意されていたケーキが潰れて額と髪の毛にこびりついた。


「きゃわーーーん!嘘でしょう!大丈夫ですかぁーー!」


 カサンドラをテーブルの上に押しつぶした何かは、酷く乱暴な手つきでカサンドラの肩を掴んで引き起こした。

「ごめんなさい!ごめんなさい!わざとじゃないんです!悪の手から逃げていたら、こんな事になっちゃったんです!」


「まあ!」

「カサンドラ様大丈夫ですか!」


 遠くに控えていた侍女だけでなく、護衛の騎士まで駆け寄ってきた。

 胸元は紅茶でびちゃびちゃ、額と髪の毛はクリームとスポンジケーキの残骸でベタベタ。カサンドラは自分を押しつぶした元凶を見上げて、怒りの言葉を飲み込んだ。


 ピンクブロンドの髪に鮮やかなコバルトブルーの瞳、人の目を引くような魅力ある可愛らしさの中に、凛とした美しさも醸し出す。

 三年から編入という形で学園にやってきた、フェヒト子爵家が引き取った庶子となるハイデマリーは困り果てた様子でカサンドラの顔を覗き込むと、

「お待ちなさい!」

「もう許さなくってよ!」

木々の向こうから怒りを露わにして三人の伯爵令嬢がこちらの方へと向かって来る姿に気がついた。


 カサンドラを心配そうに覗き込むハイデマリーは頭の先からつま先までずぶ濡れで、彼女の手がカサンドラの肩を掴んで押さえている関係で、カサンドラの制服の肩までぐっしょりと水で濡れている。


 ハイデマリーを取り押さえようと出てきた騎士とお茶会を台無しにされた先輩令嬢たち、そしてケーキまみれとなったカサンドラの姿を見た三人の伯爵令嬢たちはギョッとした様子で立ち尽くす。


 一年生として入学してきたばかりの三人の令嬢は、バラ園の横にあるガゼボが王子の婚約者のお気に入りの場所であり、あまり近づいてはいけない場所となっている事を知らなかったのだろう。


「お・・お・・王国の太陽であらせられるアルノルト殿下の婚約者、カサンドラ様にご挨拶申し上げます」

 すかさず淑女の礼をする三人の新入生を見ながら、

「これが格差社会って奴なのね〜、子爵令嬢である私には噴水に突き落とした上で追いかけ回すような暴挙に出るのに〜、偉い人がいるだけでひれ伏しちゃう感じになっちゃうんだ〜」

ハイデマリーはカサンドラの肩に手を乗せたまま、呆れた声をあげている。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


 ハイデマリーの手を払い除けた侍女が、カサンドラが火傷をしていないかすぐ様確認し、騎士がハイデマリーを遠ざけるようにして動き出す。

「貴女たち、これは一体どういう事なのですか?」

 コンスタンツェが怒りを含んだ声を上げると、

「ハイデマリー様、貴女三年生なのに一年生に追いかけ回されていましたの?」

ずぶ濡れのままのハイデマリーを見上げながら、カロリーネが呆れた声を上げる。


「ええーっとー〜」

 困り果てた様子でハイデマリーが眉を顰めると、

「この方が殿下に対してあまりにもちょっかいを出すので、私たちは苦言を呈しただけですわ!」

一年生の三人組の中でも、気の強そうな面差しをした令嬢が果敢にも言い出した。

「話をしている間に勝手に噴水におっこちて、あろう事か、私たちへと水を浴びせるようにかけてきましたの!そうして嘲笑うようにして逃げ出して行った為、私たちは追いかけたまでです!」

「もういいです!この話は終わりに致しましょう!」

侍女からの火傷チェックを受けていたカサンドラが、少し大きめの声を上げた。


 飲んでいた紅茶は火傷するほど熱いものではなかった、頭がケーキまみれになっているようだが、皿まで割れて大怪我をしたというわけではない。

 それよりも、この、良くある鳳陽小説に出て来るような展開を何とかしたかった。


 三年となって突然編入してくる事になった美少女、これ、完全にヒロイン属性ですわ。しかも、編入してきた生徒の面倒を見る生徒としてアルノルト殿下が選ばれる事になったのもまた、鳳陽小説あるあるですわ!


 ヒロインを追いかけ回して虐めるのは新入生三人が受け持ったみたいですけれど、これで私が激怒したら、完全に卒業パーティーで追い込まれるネタの一つにされる奴。しかも、こうなった時には必ず・・・


「カロリーネ!大丈夫かい?君の紅茶まで倒れているじゃないか!火傷したんじゃないのかい?」

 こちらに駆け寄って来たドラホスラフ王子は、掬い取るようにしてカロリーネの両手を持ち上げると、火傷をしていないが真剣な眼差しで確認している。

 気がついてみれば、ハイデマリーが倒れ込んできた衝撃でカロリーネの目の前に置かれた紅茶のカップが倒れて、彼女の目の前にも溢れた紅茶が広がっている。


 献身的に制服に跳ね飛んだ紅茶にハンカチを当てて拭いているドラホスラフの姿を見ながら、カップを持ち上げたままのコンスタンツェが、

「はあ・・・私もセレドニオ様にお会いしたいわー〜・・」

と、意味不明な事を言っている。


 ここにドラホスラフ王子が居るのなら、おそらくアルノルト王子も居るのだろう。

 侍女をちょっと横に退けながら後を見ると、確かに王子はその場に居た。


 二人の王子が現れた為、三人の伯爵令嬢たちは青を通り越して真っ白な顔色へと変化し、胸の前で祈るように手を握りしめた、ずぶ濡れのハイデマリーが、キラキラした瞳でアルノルト王子を見つめていた。


 鳳陽小説を翻訳して十年、あらゆる恋愛小説の翻訳をしてきたけれど、いつの時でも、ヒーローとヒロインの直接的な触れ合いの場では、一瞬時が止まったように動かなくなる。


 春の心地よい風が芳しい薔薇の香りを運び、舞い散った幾枚もの花弁が二人の間を通り過ぎていく。

 ガゼボに心地よい影を落とす楢の木の新緑の葉が二人を祝福するように風で揺れ、煌めくように注ぐ木漏れ日が、光の粒となって二人の周囲を包み込む。


 一年生で現れたのは『真の悪女』と言われるクラリッサ・アイスナーであり、二年生では遠巻きにする令嬢のみとなり、変化が起きる事はなかった。


 そうして三年生となった時に現れたのがハイデマリー・フェヒト子爵令嬢となる。下位の貴族身分の上、妾腹の庶子、つい最近まで平民として暮らしていた所を養女として子爵家に引き取られる事になったハイデマリーは、編入試験では満点を叩き出したらしい。


「これぞまさに、ヒロイン属性を網羅した女!」

 カサンドラは黄金の髪の毛を縦巻きロールにして挑むべくもなく、さっさと熨斗をつけて王子を渡してしまいたかった。見つめ合うように見える二人を、侍女を押し退けながら眺めていたカサンドラは、

『王子!今です!今こそ貴方の出番ですのよ!』

と、心の中で叫んだ。


 ヒロインが頭の先からびしょ濡れになっていたらまず颯爽と手を差し出してエスコートするのがヒーローの役目。

 颯爽と連れ去られるヒロインを眺めながら、

「キーーーーーッ悔しいですわーーーー!」

と、言わなければならないのだろうか?その際は、ハンカチを噛み締めるアクションを起こさなければならないのだろうか?


 カサンドラが自分の口でくわえて悔しがる用のハンカチを取り出そうとして手を動かしていると、

「あはっははっははっはっははっは!」

腹を抱えてアルノルトは笑い出した。

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