其ノ十三 蜜柑

 安子様は思わず、

「え、ああ、その事なら何でも有りません。ちょっと、近くまで来たものですから。」

 と早口で口走ってしまうと、御手に握りしめていらっしゃった御住所録を、ころもそでの中に、くしゃくしゃのまま放り込まれました。


「ああ、そう? そうだ、せっかくお見えになったんだから、蜜柑みかんを持ってお行きなさいな。うちのこの木、成り過ぎてしまって、放っておくと実が落ちてしまうの。」


 染子様はそう仰り、乾いた手拭いであらかた拭き終わったしゅうと様に、暖かい綿入わたい半纏はんてんを羽織らせますと、お庭の蜜柑の木の方に駆け寄って、木の低い所に実って居る、香りの良い艶々とした甘そうな蜜柑を三つほどもぎ取ると、安子様のころもすその中にお入れになりました。


「もっと持って行って頂きたいけれど、赤子様あかごさまも居たら重くて難儀だものね。またいつでも貰いに来て頂戴ね。」


 染子様の笑顔と優しさに、安子様はそれ以上何も言えず、とぼとぼと染子様の屋敷の門をくぐられました。

 御心優しい安子様にはどうしたって、あの様に色々な事をお一人で抱え込んで、それでも健気に笑顔で過ごしていらっしゃる染子様に、来年度の大奥(PTA)取締方とりしまりがた(本部役員)をお願いし、これ以上の御負担を掛けることなど出来無かったので御座います。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る