其ノ二十三 片乳

 ご夫君ふくんは、母屋おもやで休憩していらっしゃる産婆さんば様に謝礼を渡すと仰って、夫婦で何の話し合いも無いまま、そそくさと産屋うぶやを後にされました。


 残された安子様は、むずかる宗次郎そうじろう様に片乳かたちちをお預けになりながら、ただ呆然と、この子をゆう、と呼んで過ごした長い日々を思い返されておりました。


 安子様は、お産の直後から体の御不調を感じてはいらっしゃったものの、先ほど、名を奪われた時に涙をお流しになったのをきっかけに、その後も滂沱ぼうだの涙が止まらず、御自分でもどうする事も出来ないほどに、お気持ちが塞ぎ込んで仕舞われたので御座います。


 結局、御先祖様への御報告のため一旦御自宅に戻られた奥方様おくがたさまは、ご報告を終えるやいなや、まっしぐらに産屋うぶやに戻って参られ、そののちの七日間ずっと、眠らぬ様に安子様を見張っていらっしゃいましたので、安子様は産後の疲れ切ったお体をいたわる事もままならず、言葉も稀にしかお発しにならず、ただ鬱々としたお気持ちのまま、時折、宗次郎そうじろう様が欲しがるままに乳を与えるのみで、表情も無くお過ごしになられたので御座いました。

 


 次章へ続く

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