其ノ十五 御声

 その時に御座います。どなたかが御自分の脇をお通りになられた気配を感じ、花子様が大きな御声でお泣きになられたのは。


 その御声と時を同じくして、陶器の様に青白く冷たかった安子様の御手に太郎君たろうぎみの涙の粒が落ちると、その周りから波濤の様にべにが差し広がり、安子様のお顔の方にも血の気がよみがえって来たでは御座いませんか。


「は……な……ちゃ? かわや?」


 安子様の口からかすかにこの様な御声が漏れたのをお聞きになり、とこを囲んでお座りになっていた御一同は、一瞬耳を疑って顔をお見合わせになり、少し間があって、ようやく御声を発する事が出来ました。


「お母様! お母様!」

 太郎君たろうぎみは、堰を切った様に流れ出た安堵の涙を、お母様のももに顔を埋めて拭われました。


「た……ろう? どした?」


 安子様は、今正に途絶えようとする意識の底から這い上がって来る瞬間にも、我が子の事を考えていらっしゃったのでしょう。最初の言葉は、やはり愛するお子たちの御名おなで御座いました。


「お慶、お慶! 患者が目を覚ました。急いでこっちに来い!」

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