十六話

 波の音が聞こえる。とても穏やかな音……海の匂いか? もう慣れてしまった潮の香り――そんなものが俺の目を覚まさせた。薄く開けた目に光が差し込む。眩しい……あれ、夜ではないのか? それとも夜が明けてしまったのか……。


 眩しさに目を細めながら、俺は正面を見つめた。仰向けに横たわる視線の先には、ぼろい天井が見える。拠点として借りていたあの家よりもぼろぼろだ。小さな穴がいくつも開き、梁は何かにかじられたのか、細くて今にも折れそうだ。……ところで、ここはどこなんだ? 俺はなぜここに寝かされているのか――ぼーっとする頭が思考を始め、俺はとりあえず体を起こそうと思った。


「いっ、た……」


 動こうとすると、左肩にズキンと痛みが走った。……そうだった。ゼルバスにナイフで刺されたのだったか。反射的に右手で押さえ、その感触にふと気付く。服とは違う何かが傷に巻かれている――視線を下げ、肩を見ると、薄茶色の布が傷を覆っていた。その下の服には乾いた赤黒い血の染みが見える。誰かが手当てをしてくれたのか? まさか無意識に自分でやったとは思えないし――


「気分はどうだ」


 不意の声に、俺は頭を持ち上げ、視線をつま先の奥へ向けた。するとそこには木箱に座って腕組みをする、見知った金髪の男の姿があった。


「……リントン?」


 気配にまったく気付かなかった。ずっといたのだろうか……。俺と目が合うと、リントンはこちらに歩み寄ってきた。


「生還できて何よりだ。体はどんな具合だ?」


「……この傷、お前がやってくれたのか?」


「そうだ。ついでに頭も洗っておいた。かなり酒臭かったからね」


 言われて俺は髪に触れてみた。すでに乾いていたが、確かに、酒の臭いはもうしない。


「ここは、どこなんだ……?」


 俺は再び体を起こして周囲の様子を見ようと思った。だが肩の痛みが邪魔をしてすんなりとは起き上がれない。すると横からリントンが手を貸し、俺を助けながら言った。


「ここは、クローラ島の南東にある離れ小島だ。干満の差で島と地続きになるせいか、かつては人もいたようだが、現在は無人らしい。残っているのはこの廃屋だけだ」


 ようやく起き上がれた俺は、入り口の壊れて傾いた扉の隙間から外の景色を眺めた。緑の草が生い茂る向こう側に、わずかだが青い海が見えた。ここから海まで、あまり遠くないらしい。どうりで波の音が鮮明に聞こえるわけだ。


「館の火事は……ゼルバス達は、どうなった」


 壁に寄りかかったリントンは、腕を組んで俺を見下ろす。


「さてね。私は最後まで見届けていないから。すべて焼け落ちたか、街の住人が総出で消し止めたかしているだろう。仮にそうだとしても、燃え広がった時点で中にいた人間は、残念ながら助かってはいないだろうがね」


「だが、俺はこうして助かっている。お前が助けてくれたのだろう?」


 リントンは肩をすくめる。


「命の恩人だな……ありがとう」


「礼を言われることではない」


「何を言っている。あんな炎の中へ危険にもかかわらず飛び込んでくれたのだろう? 礼を言うのは当然だ。死を覚悟するほどの火事だったんだ」


「ぐったりしたお前を見つけた時は、正直私も焦ったよ。ここに連れてきて、十時間近くも目を覚まさないものだから、取り返しのつかないことをしてしまったかと思ったよ」


「……取り返しのつかないって、何のことだ?」


 聞いた俺に、リントンは感情の薄い表情で言った。


「火事のことだ。館に火を付けたのは、実は私でね」


 悪びれもせず、あまりにさらりと言われ、俺の頭はしばらく言葉を見つけられなかった。……あの火事は、リントンの仕業だった? 何を言っているんだ、こいつは……。


「……よく、わからないのだが……」


「言った通りだ。まず庭に火を付け、注意がそちらへ向いた頃に、各部屋にも火を付けて回った。広間は――」


「そんな説明はいい。どういうことだ? 一体何を考えて火なんかを……。俺は危うくお前に焼き殺されるところだったのか?」


 詰め寄ると、リントンは小さな溜息を吐いてから言った。


「だから、礼を言われることではないと言ったのだ。お前が館内にいて、捕らわれたことは、外から見張っていて知っていた。連れて行かれた広間とその周囲には、極力火が回らないよう努めていた」


 確かに広間に炎は来なかったが――


「体が焦げなかった分、煙で窒息する寸前だった。どうしてだ? 俺がいると知りながら、どうして館を燃やしたんだ。本当は俺を殺すつもりだったのか?」


「馬鹿なことを言うな。それならお前は、今こうして話していないさ」


「じゃあ、納得のいく説明をしてくれ。俺がなぜ死にかけなければいけなかったのか」


 腕を組み直したリントンは、落ち着いた口調で答えた。


「捕まったお前は逃げることが困難なようだった。だからいろいろと考えた上で、火事で気をそらし、逃げる隙を与えようと思ったのだ」


 俺は唖然としてリントンを見つめた。


「真面目に、言っているのか? 椅子に縛り付けられた俺が、それで逃げられると……?」


「その程度のことはできると思っていたが……私はお前を少しばかり過信していたようだ。殺しかけてしまったことは謝ろう。悪かった」


 リントンは感情の感じられない口調で謝罪したが、その言葉は、上手く逃げられなかったこちらの失態みたいにも受け取れる。これは、俺のせいなのか? 諜報員だからと言って皆が皆、同等の能力を持っているわけではないのだ。ましてリントンと変わらない質で任務をこなせる者はほぼいない。果たして本人はそれを自覚しているのか……。


「火を付ける暇があるなら、お前自身の手で助けることは考えなかったのか」


「多数はさすがに相手にできない。追われるのも厄介だからね。あの時は火事を起こすのが最善だと思えた」


「ふっ、仲間を殺しかけるのが最善か……」


 俺は肩をかばいながら、ゆっくりと立ち上がった。


「傷はまだ塞がっていない。あまり動かさないほうがいい」


 手を差し伸べようとしたリントンを俺は制した。


「わかっている。世話になった」


 十時間も寝ていたらしい重い体を強引に動かし、俺は壊れた扉へ向かう。


「どこへ行くんだ」


 後ろからリントンが聞いてきた。


「任務は終わったんだ。帰るに決まっているだろう」


 ひどい目には遭ったが、結果俺はこうして生きている。一度は諦めたものの、まだ命があるのなら、俺が帰るところはたった一つしかない。エメリー……窓から見送った後、順調に逃げられていれば、今頃どこかの船に乗っているか、すでに異国へ到着しているかもしれない。その後を追うにはまず港で聞き込んで、昨晩寄港していた船の行き先を――


「諜報部へ帰るのか? それとも、王女の元か?」


 俺は足を止め、静かにリントンに振り返った。差し込む陽光で輝く緑の目が、真っすぐこちらを見ていた。


「私としては、諜報部へ帰ることを勧めたいね」


「何を、言っているんだ? それ以外に帰る場所など――」


「昨夜、王女が逃げたことを、私が見逃したと思うか?」


 淡々とした口調が、俺の鼓動を次第に速めていた。……その通りだ。俺が捕まり、どこにいたかを把握していたなら、その前に逃げたエメリーのことも知っていて当然だ。胸の奥底に恐ろしさが湧いている。だが、聞かなければならない……。


「殺した、のか……?」


「知ってどうする? 生きていればすっ飛んで行くか? 死んでいれば私を殺すか?」


 言おうとしないリントンに俺はたまらず詰め寄った。


「どっちなんだ! 教えろ」


 俺が怒鳴っても、リントンは身じろぎせずにこちらを見てくる。


「……王女が浜のほうへ逃げたのを見て、私はすぐに追い、そこで話をした」


「話って、何を……」


「王女の祖国の現状。そしてロアニス王子との婚約破棄のことだ」


 こいつは、思い出させる必要のない辛い記憶を、わざわざ話したのか……!


「……気に入らないといった顔だね。でも王女が記憶喪失だと教えてくれなかったお前も悪いと思うが」


「言う必要などなかった。それを言ってお前が暗殺をやめるのなら、俺はすぐにでも教えただろうが、お前は任務を必ず全うする男だ。言ったところで何も影響は与えられない。そうだろう?」


「確かに……そうだね」


 リントンはふうと小さな息を吐き、歪んだ窓枠の外に視線をやりながら続けた。


「私の話で、王女は記憶を少し取り戻したようだった。どこまで思い出したかは定かではないが、少なくとも自身については自覚していた。だが、それ以上思い出せば、王女は我が王国に助けを求めてくる可能性もある。国王陛下が危惧しておられたことが起こりかねない。そうさせないために、私は――」


 一度まばたきをした目がこちらを見つめる。俺は、無意識に息を止めていた。


「――王女を、ある場所に監禁した」


「か……」


 まだ、殺していない……? 俺は止めていた息を安堵と共に吐き出した。


「生きて、いるのか」


「今のところは」


「どこだ。どこにいるんだ」


 そう聞いた俺に、リントンは怪訝な眼差しを向けてくる。


「勘違いされては困る。監禁したのはお前を助け出す間の一時的な扱いであって、私はこの後、任務を遂行しに向かう」


 何の感情も混じらない声を聞きながら、俺はその顔を呆然と見つめた。


「彼女は、記憶がないんだぞ。何も知らないんだ。それでも殺す必要があるのか?」


「王女の状態など関係ない。我が王国にとってその存在が気がかりでわずらわしい以上、排除するのは当然の意思だ。私はその意思に従うだけだ」


 体温の感じられない目でとらえたリントンは、俺の右肩に手を置いて言った。


「王女への気持ちは忘れろ。諜報部へ帰るんだ」


 射すくめる眼差しが俺を威圧してくる。これは無言の警告だ。邪魔をするなら容赦はしないと……。俺はおそらく、いや、絶対にリントンには勝てない。その殺人技術と能力は俺の遥か上を行っている。手負いの状態で、しかも諜報部の第一人者に立ち向かおうだなんて、無謀にもほどがあることは自覚している。しかし、ここで引いたら俺はエメリーを裏切ることになるのだ。一緒に逃げようと言い出しておいて、やはり自分の命が惜しいなど、そんな愚かな道には引き返したくない。すでに覚悟をしたのだ。この手でエメリーを守ると。彼女の側でそれが果たせないのなら、生きて二度と会うことができないのなら、俺はこの命を使って彼女を守るだけだ。リントンが相手では、かなり難しいことだろう。だがまだ殺されるわけにはいかない。あがいて、最低でも刺し違える結果でなければ、エメリーはこいつの手にかかってしまう。彼女は誰にも殺させない。誰にも……!


 視線で威圧してくるリントンを見返し、俺は聞いた。


「帰らないと言ったら、どうする?」


 動かない緑の目が細められた。


「そう言われたら、力尽くの手段に出るしかないだろうね……」


 沈黙が流れる。その中でお互いの視線だけがぶつかり続ける。……息が詰まりそうだ。見合っているだけなのに、まるでリントンがそびえ立つ壁のように感じる。太刀打ちできないと本能はわかっている。だがそんなもの、今はいらない。一瞬の隙さえあればそれでいいのだから――俺は見合いながら呼吸を整える。そして、微動だにしない緑の目がまばたきをした瞬間、動いた。


 俺の肩に乗るリントンの手をつかむと、素早く背後へ回って腕を締め上げ、同時に首にも手を回し、思い切り絞める。が、寸前でリントンは俺の手と首の間に自分の手を差し込み、完全に絞まるのを防いでいた。


「……これは、どういうつもりだ?」


 少し苦しげな声が聞いてきた。


「彼女は、殺させない」


「私の任務だ。馬鹿な真似をやり通す気か?」


「お前には、悪いことをする」


「そういう自覚はあるのか……今なら見逃すぞ」


 俺は黙ってさらに腕を締め上げた。それに抵抗するリントンの体がこわばる。


「……そうか。せっかく助けてやった命を、お前はここで使うのか。それで、いいんだな?」


「俺は彼女を守る。誰にも――」


 その刹那、リントンが体を曲げ、動いたかと思った時には、俺の手は体と共に弾かれ、気付くと壁に押さえ付けられていた。一体、俺の手からどうやって抜け出したのか、目の前で起こっていたのに、まったくわからなかった……。


 ただただ驚いていた俺を、リントンは鋭く見据えてくる。


「私の邪魔をするということは、諜報部の邪魔をすることでもある。すなわち、敵と見なされる。それでも構わないというのか?」


 喉元を肘で押さえ込まれ、呼吸も苦しい状態で俺は言った。


「覚悟、の……上だ……」


 見据えてくる鋭い目が、わずかに緩んだように見えた。


「じゃあ私に殺されても、文句はないということだね」


 するとリントンは、腰の辺りから細身のナイフを取り出した。暗殺任務用に作られた、特注の武器だ。それを下向きに握ると、先端を俺の心臓に合わせ、構えた。


「とても残念だが、これでお別れだ」


 言ってナイフが振り上がる。陽光が反射して鈍い光を放つ。俺は両手でリントンを押し退けようとするが、そうするたびに押し付けられた肘が喉に食い込み、その力を奪っていく。刺し違えるどころではなかった。俺の力では追い詰める余地すらなかった。こんなに惨めで悔しいことがあっただろうか。エメリーは今もどこかで俺を待っていてくれているというのに、それを知りながら迎えに行けない自分の力不足を痛感するしかないなんて、我ながらあまりに情けなかった。ナイフの切っ先が俺に死を与えようとしている。もう、ここまでのようだ。これほど悔しい死に方をするとは、想像もしていなかった――無駄な抵抗をやめた俺は、光るナイフをただ見つめ続けた。心の声を打ち消すために……。


 ドン、と衝撃が響いた。俺はリントンを呆然と見ていた。衝撃が響いたのは胸ではない。背後の壁だ。リントンはなぜかナイフの軌道を変え、俺の顔のすぐ横の壁を刺していた。


「……なぜ? って顔だね」


 当然だと返したかったが、この状況が理解できず、言葉にできなかった。


 すると、俺から離れ、ナイフをしまったリントンは、おもむろに入り口のほうを向いた。


「もう入ってきて構わない」


 一体誰に言っているのかと見ていると、壊れた入り口の扉に細い褐色の手がかかり、ゆっくりと押し開き始めた。それに俺は瞠目し、鼓動は一気に早鐘を打ち始めた。まさか、まさか――


 傾いた扉は床に引っ掛かりながらも、ギシギシと音を立てて開き、そして、眩しい陽光に照らされた姿が目の前に現れた。


「アリオン……」


 か細い声が俺の名を呼んだ。もう二度と見られないはずだった美しい顔は、今にも泣き出してしまいそうな微笑みを浮かべている。


「エメリー……」


 そう呟くのが精一杯だった。夢ではないのはわかる。だが、頭は疑問だらけだった。そうして立ち尽くす俺に、小走りで駆け寄ってきたエメリーは、両腕を広げ、俺の体を強く抱き締めてきた。


「よかった……本当に……」


 耳元でエメリーは安堵しながら、細い腕で俺の肩を抱き寄せる。左肩の傷に触れられ、正直痛むが、そんなことはどうでもよかった。


「……あっ、ごめんなさい。ここは怪我して――」


 ようやく気付いたエメリーは身を離そうとしたが、今度は俺から手を伸ばし、その華奢な体を抱き締めた。艶やかな黒髪に頬を寄せ、愛しい香りと体温を感じる。


「……何度も諦めた。悔しくて、自分が情けなくて……あなたとは会えないと思っていたのに」


 エメリーは俺の頭を優しく撫でる。


「でも、またこうして会えたわ。情けないなんて言わないで」


 顔を見ると、エメリーは瞳を潤ませ、満面の笑みを見せていた。そこに触れれば、表情ははにかみに変わる。エメリーは、間違いなく目の前にいる。優しく、温かい感触をこちらに伝えてくれる。俺は、再び彼女の元へ戻れたのだ――そんな至福を得た一方で、この状況を俺はまだ理解できていない。これは一体どういうことなのか。すべてを知るであろうリントンに俺は目を向けた。


「……そろそろ説明したほうがいいかな」


 腕を組んで俺達を眺めていたリントンは言った。


「監禁など、していなかったのか」


 聞くと、リントンは小さくうなずいた。


「嘘をついてすまなかった。お前を殺すつもりも、はなからなかった」


「じゃあ何であんな真似を……」


「お前の気持ちを確かめたかった。王女を本気で愛し、命懸けで守る覚悟があるのかを見極めるために」


「俺を、試していたのか?」


「一言で言えばそうなる」


「何のために」


 これに間を置いたリントンは、俺を見つめながら言った。


「私のため、だろうか」


 俺は思わず首をかしげた。俺を試すことが、なぜリントンのためになる?


「……これではわからないね。じゃあ、私の正直な気持ちを話そうか」


 そう言ったリントンの表情は、気のせいか普段よりも柔和な表情に見えた。どこか雰囲気が変わった――胸の片隅でそう感じながら俺は話に耳を傾けた。


「観察する中で二人の仲を知ったというのは以前話したね。見ている限り、お互いが引かれ合い、必要としているふうに見えた。純粋な愛……私にはそう思えた。だが任務では王女を暗殺しなければならない。それは仕方のないことだと、その時は考えようと思った。しかし、お前が私の頼みを渋ったのを見て、ふと後ろめたいものを感じた。自分はこれから、二人を引き裂こうとしているのだとね……」


 俺は驚いてリントンの言葉を聞いていた。任務に忠実で、ためらいなど一切ない男が、まさか私情で迷うことがあるとは……。そんなことを思っていた俺を、リントンはちらと見やった。


「意外だったか? 諜報部内での私の印象と言えば、真面目で冷徹と言ったところか。人の命をたやすく奪える、感情のない男と思っていたのだろう。だが私だって人の子だ。暗殺に慣れているとは言え、時には余計な感情をともなうこともある。今回のようにね……」


 ふっと息を吐いたリントンは自虐的に口の端を上げた。それはかすかに笑ったようにも見えた。


「王女を待ち受ける悲惨な状況を知っていた私は、もしかしたら同情をしたのかもしれない。すでに不幸に見舞われているのに、最後の命まで奪うことに意味はあるのだろうかとね。たとえ王女が祖国へ戻ったとしても、我が王国に助けを求めたとしても、もはや情勢を覆すのは難しいほど南国地域は複雑化してしまっている。それでも王女を排除することが私の正しい道なのだろう。だが、館から逃げ出した王女と話し、記憶を失っていると知って、私は自分の心に従うことを決めた。お前と、王女を、共に逃がすと」


 リントンは任務を放棄して、エメリーを殺すのではなく、助けようとしていた――これまでの姿を知る俺からすれば、まったく信じられない行動だが、現にエメリーは目の前で生きている……。


「しかし逃がすということは、命令に逆らうわけで、お前と同様、私も諜報部の敵となる。だが私にはまだ諜報部を出る意思はないし、理由もない。ただ王女の命を密かに助けたいだけだからね。そこで私は考え、館に火を放つことにしたんだ。これはお前を助けるためでもあったが、もう一つの目的もあった」


「もう一つ……?」


 思い付かない俺を、リントンは見つめながら言った。


「王女とお前が、死んだことにするための口実だ。あれほどの火事になれば、島の住人の多くが目撃者となり、火事の事実を証言してくれる。何人か犠牲者も出たようだとね。それを調べた私が、その中にお前と王女の遺体があったと伝えれば、目的は達成される」


「部長に、そんな嘘が通じると?」


 これにリントンは目を細めた。


「これまで築いてきた信用は、伊達ではないと自負している」


 確かに。リントンは諜報部の切り札なのだ。その言動を疑う者など誰一人としていないだろう。……だが、そう思うと、俺の中にはふといぶかる感覚が湧き上がった。


「お前、暗殺任務の放棄は、これが初めてか? 他にも暗殺対象を意図的に逃がしたりしたことが実はあるんじゃ……」


 恐る恐る聞いた俺に、リントンは肩をすくめる。


「さてね……諜報部内の記録では、私はすべての任務を果たしていることになっているが」


 抑揚の少ない口調と澄ました顔が、逆に真実を物語っているようだった。冷酷で感情など持ち合わせていない男だと思っていたが、それは誤解だったらしい。淡々と任務をこなす印象も、その裏では命を奪うことに葛藤を抱えているのかもしれない。当然と言えば当然だ。好き好んで暗殺をする人間などいるわけがない。これは任務だからやっているのであって、自ら進んでの行動ではないのだ。精神的に参り、人間味を失ってもおかしくない仕事だが、リントンはそれをまだ見失っていない。暗殺任務担当としては失格を言い渡されるだろうが、いくら命令とは言え、無意味に命を奪いたくないという心は、血の通った真っ当なものだと思う。俺は初めて、リントンの内側を感じられたのかもしれない。


「私のことはさておき……この島を出た後も、お前と王女が本当に逃げられるかは、アリオン、お前の腕にかかっている。だから私はお前を試したんだ。自分を犠牲にしてでも、王女を最後までかくまい、そして守り通す気持ちがあるかとね。もし途中で王女を見限ったり、自分を優先するような軽い覚悟なら、私がした工作もばれて、こちらの身も危うくなってしまうからね。その時は王女に加え、お前も始末しなければならなくなるだろう。できればそんなむなしい思いにはさせないでほしい」


「わかっている。お前に迷惑はかけない」


 見据え、力強く言うと、リントンはゆっくりとうなずいた。


「そう願うよ。王女にはお前が必要なんだ。目を覚まさない間、お前のことを付きっきりで介抱していたんだぞ。死なないでと祈りながらね。その気持ちに応えてやるんだな」


 ずっと、介抱を――腕の中のエメリーを見下ろすと、穏やかな微笑みがこちらを見上げてきた。


「すべて聞かされたわ。あたしが失った記憶のことを……。あたしには、もう帰る場所がなかったのね。だから思い出さないでとアリオンは言ったんだってわかった。記憶を取り戻しても、もっと辛い現実を知るだけだと、あなたは気遣ってくれたのね……」


「それでも、故郷のムルリアへ帰りたいか?」


 エメリーは緩く首を横に振る。


「わからない……現実を聞かされても、あたしにはまだぴんと来なくて、実感がないの。多分、聞かされただけじゃ記憶は戻らないのね……。でも、実感できてることはあるわ」


 にこりと笑ったエメリーは、黒い瞳を輝かせながら言った。


「あたしの名前はナディネ。そして、ようやく広い世界で自由を得られた。アリオンのおかげで……」


「ああ。もうエメリーなんかじゃない。あなたはナディネだ。やっと声に出して呼べるんだ」


 柔らかな体を抱き寄せ、その耳元で名前をささやいてみる。ナディネ――この響きこそが本物の彼女なのだ。そこには隠し、偽るものなど何もない。


「記憶をなくしてから、あたしはこの島の中しか知らない。自由を得たのはいいけど、広すぎて、つかみどころがなくて、今のあたしには心細すぎるの」


 身を離したナディネは俺を見つめた。


「アリオン、側にいて。隣で、あたしの手を握ってて。お願い……」


 袖をつかむ手を取り、俺はぎゅっと握り締めた。


「もちろん。俺はいつでもナディネを支え、側にいる。どんなことがあろうとも、この先ずっと……」


 リントンのおかげで俺達はこの島で死んだことになる。だがそれは、今までのような生活ができなくなることでもある。多くの者は俺達の顔など知りもしないだろうが、その中に混じる素性を知る人間に出くわせば、手に入れた自由は瞬く間に壊されるだろう。新たな希望の道はそう簡単には楽観できない。想像以上の険しさが待っているかもしれない。それでも、俺はナディネを守り続けてみせる。王女らしい暮らしをさせることはできないが、ささやかでも幸せを感じる日々を、俺はナディネと共に歩んでいく。この心に誓って――


「行き先は決めているのか?」


 リントンが聞いてきた。


「いや……」


 この島を出ることに必死だったせいで、その先のことはまだ考えてもいなかった。


「私は東国を勧める。あちらのほうは諜報部でもまだ情報が少なく、我が王国とも関係がほとんどない。お前と王女を知る人間はおそらく皆無だろうが、反面、未知の部分も多い。だが人目を気にしない環境は大きいだろう。一度行ってみるのも手だ」


「わかった。参考にしてみよう」


「それと……これはせん別だ」


 そう言うとリントンは、ズボンのポケットから無造作に何かをつかみ出し、それを俺の手に渡してきた。


「……金?」


 それは金貨五枚と、青く透き通った宝石のはまったブローチだった。


「金貨は任務資金だが、宝石は館で失敬したものだ。売ればそこそこの金にはなるだろう」


 するとリントンはおもむろに入り口へと向かう。


「行くのか」


「ああ。いろいろやることがあるからね……」


 入り口で立ち止まると、リントンはこちらに振り向いた。


「お前達は暗くなってから出たほうがいい。それまで体を休めておけ。じゃあ……二度と顔を合わさないことを願っている」


 別れの言葉にも表情を変えず、駆け出したリントンは、そのまま風のように外へ消えていった。俺とナディネが窓からその背中を見送ろうとした時には、姿はもうどこにも見当たらなかった。リントンには礼を言っても言い切れないほどの借りができてしまったな。いつか返せれば……と思うが、会わないことがあいつの望みなら、この借りは胸にしまうしかない。そして、ナディネと共に飛び立つのだ。新天地を見つけるために。


「……ナディネ、どんなところへ行きたい?」


 窓際で隣に並ぶナディネに聞いた。するとすぐに太陽のような笑顔が向いた。


「自由なら、どんなところでも」


 砂浜の向こうには青く輝く海が果てしなく続く。その上を風に乗って、俺達は先へ先へと飛び立つのだろう。翼を広げるのに邪魔な檻はもうない。目の前の自由な世界へ羽ばたいて行けるのだ。愛する者と共に、手を取り合い、どこまでも――ナディネの肩を抱き、俺は地平線の先に、そんな前途を描いていた。




 数日後――諜報部本部、部長室の机に、一枚の報告書が提出されていた。


『ナディネ王女暗殺任務についての報告


 クローラ島にて発見された王女は、別件で内偵中のヴァシリス・ゼルバスの恋人として邸宅にかくまわれていた。(素性を教えていないのか、ゼルバスは彼女が王女だと知らない様子)


 暗殺実行の直前、邸宅で火事が起こり、任務を一時中断。邸宅は焼け、八人の遺体が運び出されたと聞き、確認に向かった。


 多くは性別も判断できないほどの状態だったが、王女が当時身に付けていた首飾りを遺体の一つに発見。その証拠から、ナディネ王女は焼死したと考えられる。(他の遺体も確認したところ、別件で潜入任務中だったアンジェロス・アリオンの遺体と、ヴァシリス・ゼルバスの遺体も確認した。このことは担当者に報告済み)


 念のため、街や港で聞き込みをしたが、火事以降、王女らしき人物を目撃した人間は一人もいなかった。以上のことから、ナディネ王女は火事により死亡と判断。遺体は身元不明のまま、島の墓地に埋められた。(諜報員アンジェロス・アリオンも同様の扱い。諜報部規定通り、掘り返さず安置)任務遂行前に目的は達成され、国王陛下の憂いは完全に取り除かれた。よって二年前の任務と共に完了する。


                            ライゾス・リントン』

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籠の中の黒い鳥 柏木椎菜 @shiina_kswg

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