十三話

 翌日、世話係としていつものようにエメリーの部屋を訪れると、その扉が半分ほど開いているのが見えた。その違和感に俺は首をかしげる。彼女は部屋にいる時はもちろん、出ている時もきっちり扉を閉めていく。こんな中途半端に開けた状態にしていることはまずなかった。偶然閉め忘れたのだろうか。それとも――俺は怪訝に感じながら、開いた扉に近付いた。


 中をのぞいて声をかけようとした時、部屋に人影が横切り、俺は口を閉じた。露出の多いドレスを着た、華奢な後ろ姿――女がいる。だが背中にかかる長く暗い茶の髪から、エメリーでないことは瞬時にわかった。あんな髪の女、いただろうか……。女は部屋のあちこちを見回し、何かするでもなく、ふらふらと歩き回っている。時折、ふーんと独りで納得するような声を出しながら、腕を組んで隅々にまで視線を送っている。一体何をしているのか――明らかに不審な行動に、俺は警戒しつつ扉をゆっくりと押し開けた。


「……誰?」


 こちらに気付いた女は怪しむ表情で俺を見てくる。その化粧をした顔はゼルバスの他の女達同様、どこか気の強そうな整った容貌の美人だったが、俺は初めて見る顔だった。


「そっちこそ、誰だ」


 そう言うと、女は少しむっとした目になって言った。


「あんた、あの人の部下よね? 聞いてないの?」


「何のことだ」


 女はこちらへ歩み寄ってくると、自分の胸を軽く叩きながら尊大な口調で言った。


「あたしはアスパシア。あんたのボスの新しい恋人よ。忘れないように、その小さな頭に刻んでおきなさい」


 口角を上げ、ふんっと鼻を鳴らした女は、勝ち誇ったように俺を見てくる。まさに虎の威を借る狐だな。ゼルバスの恋人になることの何が偉いというのか。やつの部下と見ただけでこんな態度では、知るまでもなくひどい女なのは明白だ。それにしても、やつは本当に面食いだな。


「……それで、この部屋に何の用で?」


「下っ端のあんたには関係ないことよ」


「いや、関係はあります。俺はこの部屋の主の世話係をしているので」


 これに女の片眉が上がった。


「世話係? じゃあちょうどよかったわ。あんたからその主に言っておいて。今週中にここから出ていくようにって」


「出ていくって、どういうことです」


「そのまんまの意味よ。家具が揃う来週には、ここはあたしの部屋になるの。だから、その邪魔になる前に出ていってってこと」


 エメリーを、追い出すのか……?


「ボスは、了承しているんですか」


「当たり前でしょ。どこでも気に入った部屋を使えって言ってくれたわ」


「追い出された者はどうなるんですか」


「知らないわよ。あんたの主の面倒なんて見る気ないわ。とにかく、叩き出されたくなかったら、今週までにどっか行ってちょうだい。いいわね」


 冷めた微笑を見せた女は、俺の横を通り、悠々と部屋を出ていった。来週には、もうエメリーの居場所がなくなる。お互いに、時間切れが迫っている。彼女と話さなければ――踵を返し、部屋を出ようとした時、不意に人影が現れて俺は足を止めた。


「……エメリー」


 壁の向こうからうつむいて現れたエメリーは、俺を見上げると戸惑いの混じる笑みを浮かべた。


「あたしも、とうとうお払い箱みたいね」


「聞いていたんですか……」


 エメリーは小さくうなずいた。


「あの人から解放されて嬉しいはずなのに、いざこうなると、こんなにも不安になるものなのね」


 記憶を失っている彼女には戻るべき場所がわからないのだ。その取り残されたような孤独感は、本人にしかわからないし、感じられないものだろう。


「過去、ここを去った女達は、どうなりましたか?」


「よく知らないけど、聞こえてくる噂にいいものはないわ。街へ戻っても浪費癖が直らず、借金を重ねてるとか、あの人の名前を売りにして男の家を渡り歩いてるとか……真っ当な生活に戻れた人の話は聞いたことがない。あたしも、いずれそうなるのかしら……」


 エメリーは苦笑いを見せて言った。


「もしそうなって男を頼るにしても、その時は迷わずあなたの元へ行くのに。あ……でも、無理ね。アリオンはあの人の部下だから、もう頼ることはできないわね……」


 強がる笑みの中で、黒い瞳が不安に揺れていた。本音を押し殺している。俺への気遣いなど必要ないのに……。


 俺はエメリーの腕をつかみ、部屋に引き入れると、扉を閉め、鍵をかけた。


「何? どうしたの……?」


 困惑の目を向けてくるエメリーと俺は向き合った。


「言ってくれ」


「何を……?」


「エメリーの、心の声を」


 見つめると、エメリーは俺から視線を外した。


「……ありがとう。でもいいの。アリオンにこれ以上迷惑をかけるなんて――」


「じゃあ、俺が言わせてもらう」


 丸い目に見つめられながら、俺は言った。


「一緒に、逃げよう」


 エメリーは呆然とした表情を浮かべ、しばらく人形のように止まっていた。


「……あたしのために、ここから逃げるって言うの?」


「そうだ」


「駄目よ! あの人に捨てられたあたしはともかく、アリオンは部下なのよ? 何も言わず逃げたりなんかしたら、きっと追っ手が――」


「俺は部下じゃないんだ」


「……え?」


「ここには潜入捜査に来て、部下に成り済ましているだけなんだ」


 唐突すぎたのか、エメリーは口を半分開けてまばたきを繰り返している。


「潜入、捜査……何、どういうこと……?」


「密造酒の製造場所を特定することが俺の任務なんだ。そして昨日、それを果たした。あとはここから、この島から出るだけだ」


「アリオン……あなたは、諜報機関の人間なの?」


 驚く瞳を見つめ、俺はうなずいた。


「捜査の網はすでにゼルバスを包囲している。やつは、もう終わる」


「あたしも、捕まるの?」


「大丈夫だ。密造と無関係のエメリーがそうなることはない。だがこのままここにいれば……」


 ここにいれば、リントンに殺される――その言葉を俺は言えなかった。正直に言ってエメリーを怖がらせたくはない。それに、言えばなぜ殺されるのか、その理由を聞かれるだろう。俺は何と説明すればいい? あまりに複雑で、勝手な都合で、エメリーを絶望させかねない現実……これ以上、彼女を苦しませることはしたくない。


「……どうしたの、アリオン」


 不安顔がこちらをのぞき込んでくる。俺は意識して表情を緩ませ、言った。


「ここにいれば……当然疑われるし、本土まで連行されるかもしれない。そんな面倒になる前に、俺と一緒に逃げよう」


 見つめ、返事を待つ。だがエメリーの目には怪訝な色が浮かんでいた。


「それは、本当なの……?」


「すべて本当だ。数日もすればここには――」


「そうじゃない。あたしと逃げようとしてくれるのは、本当にその理由なの?」


 真剣な眼差しが鋭く俺をとらえてくる。明らかに何か感付いている。


「どうしてそんなことを……」


「何だか、アリオンが切羽詰まってるように見えるから……」


「気のせいだよ。俺はエメリーのために――」


「あたしがここにいると、不都合でもあるの?」


 問いただす強い口調に、俺は頭の中で言葉を探すことしかできなかった。だがエメリーは、そんな俺にすぐに微笑みを見せた。


「ごめんなさい。アリオンを信じてないわけじゃないの。ただ、知ってるならそう言ってほしくて」


 思わず息を呑んだ俺を、エメリーは優しく見つめ、そして言った。


「あたしが誰なのか、アリオンは知ってるのよね?」


 押し黙る俺を見ながら、エメリーは続ける。


「そうじゃなきゃ、記憶を思い出さないでほしいなんて言わないはずだから。あなたが諜報機関の人間だって知って、確信できたわ。そういうところなら、あたしのことくらい、こっそり調べられるんでしょう? ……何か言ってよ、アリオン」


 俺は観念の溜息を吐くしかなかった。完全にこちらの落ち度だ……。


「……言う通り、俺はエメリーの失った記憶を知っている」


「じゃあ――」


「だが、今は教えることはできない。わかってほしい」


 笑みの消えた残念そうな顔が俺を見てくる。


「やっぱり、教えてくれないのね」


「これは、エメリーのためなんだ。俺はあなたを守りたい……」


 暗殺の手からも、心をえぐる衝撃からも……。


 するとエメリーは俺の手を取ると、真っすぐこちらを見上げて言った。


「教えたくないならそれでもいいの。でも、一つだけ答えて。あたしと逃げて、アリオンに迷惑はかからない? 後でひどいことになったりしない?」


 エメリーはどこまでも俺を気遣い、心配してくれる。辛い状況の自分を差し置いて……。もう気付かれるわけにはいかない――俺は間を置かず、すぐに答えた。


「そんな心配はいらないよ。任務を終えて島を離れるだけなんだ。どこに迷惑がかかるというんだ?」


 笑いかけると、それを見極めるようにエメリーが見てくる。


「信じて、いいのね?」


 俺の手を握るエメリーの手に力がこめられる。


「ああ。エメリーが心配することは何もない」


 俺も手を握り返すと、不安げだった表情に薄い笑みが浮かんだ。


「……わかったわ。アリオン、あなたに付いてく。一緒に……」


 俺はエメリーを抱き締め、その耳元に顔を寄せて伝えた。


「明後日の朝、本土行きの定期船が出る。それに乗ってここを出よう。荷物は多く持っていけないが、準備をしておいてくれ」


「ええ。明後日ね……」


 身を離すと、エメリーは太陽のような笑顔を見せて言った。


「アリオンが側にいてくれて、本当に嬉しい。ありがとう」


 温もりを確かめるように頬を寄せてきたエメリーを、俺は再び腕の中に抱き締めた。彼女を失いたくない――そう思った俺が選んだ道は、逃げることだ。その道がひどく険しいことは承知の上だ。諜報部の追跡から逃れ続けるのは不可能かもしれない。だが、エメリーを救うにはこうするしか方法がないのだ。世界の果てまで追われても、俺はこの命を懸けて、彼女を守ると決めたのだ。もう、迷ったりはしない。


 その夜、いつものように家へ帰り、玄関の扉の鍵を開けようとした俺は、それが開いていることに気付いて思わず手を止めた。来ている。リントンが中にいる――緊張する心を抑え、顔が引きつらないよう努めながら、俺は平常心で扉を開けた。


「……外で待つということを知らないのか?」


 椅子に座るその背中に話しかけると、金色の頭はくるりとこちらに振り向いた。


「あまり人目に付きたくないのでね。……おかえり」


 足を組み、薄い表情のリントンは俺を迎える。これではどちらがこの部屋の住人だかわからない。


「探索は進展したか?」


「……ああ」


 平静を装い、俺はベッドに腰かけ、リントンに言った。


「見つかったよ」


 これにリントンの緑の目がわずかに反応した。


「ほう、それで、どこにあった」


「館の東側の浜辺にある、漁師小屋の奥だ」


「本部には伝えたか?」


 俺はうなずいて見せた。密造場所については、その日のうちに伝書鳩で伝えている。本部はすでにその手紙を読んでいるはずだ。


「では、任務完了というわけだね。やっと私も動ける」


 すると、俺と対するように座り直したリントンは、こちらを見据えて言った。


「ついでと言っては悪いが、ゼルバスの部下であるお前に、一つ頼みたい」


 嫌なものを感じながら、俺はリントンを見た。


「……何だ」


「ナディネ王女を人気のない外へ連れ出してほしい」


「なぜ、俺が……」


「なぜ? 随分な愚問だね。私が殺すために決まっているだろう」


 それ以外に答えなどあるわけがない――気を抜くと本心が出てしまいそうな自分をさえぎり、俺は聞いた。


「お前ほどの腕なら、俺の手など借りずに一人でできるだろう」


「まあ、そうだが……見ていると、王女は最近、外出を控えて館にこもる日々を続けている。夜中に忍び込むこともできるが、すでに潜入しているお前を使ったほうが早く、楽に終えられるだろう」


 任務を果たすためなら、これは至極真っ当な考えだ。しかし、俺がその考えに乗ることは絶対にできない……。


「王女を連れ出せるほど、俺は部下の中で高い位置には――」


「何を言っている。お前は毎日王女の側に付いて世話を焼いているだろう。それに実際、二人で外出もしている。この程度のことなら難なくできるはずだ。一体何を弱気になっている?」


「違う。弱気になど……」


 どう言えばいいのか。上手く断らなければ――頭であれこれ考えていると、リントンはおもむろに椅子から立ち、俺の前まで来てこちらを見下ろした。


「弱気ではないのか……となると――」


 手を伸ばし、がっと俺の肩をつかんだリントンは、顔を近付け、至近距離で俺の目をのぞき込んできた。


「連れ出したくない他の理由が、あるということか?」


 ほの暗い緑の瞳が、心を探るように、とらえるようにこちらを凝視してくる。駄目だ。平静を保て。何も見せるな――


 するとリントンは目を細めると、視線はそのままに口を開いた。


「……私が、知らないとでも思っているのか? 王女に対するお前の気持ちを」


「!」


 もう隠すことはできていなかっただろう。それほど俺は愕然とした。リントンは、とっくに心を見透かしていたのか……?


「毎日お前と王女を見ていれば、その態度でわかる。お互いが気を許し合う仲だとね。それもより深く、愛を持ちながら……。任務中に、お前は思いがけず、別のものを見つけてしまったようだね」


「本部に、報告するか?」


 緑の目を見つめ返し、聞くと、リントンは俺から手を離し、腕を組んで見下ろした。


「いや、まだしない。まだね。お前は今のところ、私に対して妨害と呼べるようなことは何もしていない。ただ王女に心を奪われ、私の頼みを断ろうとしただけだ。報告が必要な内容ではない。だが――」


 見下ろしてくる目に鋭い光が差した。


「この先、厄介な行動を起こせば、報告しないわけにはいかなくなる。お前にその気がないというなら、三日の内に王女を連れ出し、私にそれを証明してみせろ。いいな?」


 妨害すれば、その時はわかっているだろう――そんな目が俺に忠告してくる。わかっている。仲間を敵に回すことがどれほど無謀かということは。だがもう覚悟を決めたのだ。エメリーと共に歩むと……。


「あまり前向きな顔ではないね……まあ、馬鹿な真似をしたければすればいい。私もそれなりに対応させてもらう」


 向きを変えたリントンは玄関へと向かい、扉に手をかける。


「もし連れ出す気があるなら、その頃合いは任せる。私は館の外で待機しているから、いつでも構わない。……ではな」


 そう言ってリントンは家を出ていった。ぱたんと扉の閉まる音を最後に、部屋の中は静寂に満たされた。だが耳には低く重い音が聞こえてくる。どくん、どくんと、自分の鼓動音が、体の奥底から……。俺が妨害すれば、リントンは躊躇なく排除しに来るだろう。三日の内……エメリーとの約束は明後日……すべて見透かされているのなら、行動は急ぐべきだろう。予定を早めて明日の夜にでも逃げなければ。本土行きの定期船には乗れないが、何かしら船はあるはずだ。隙を見て密航して、とにかくこの島を出られれば――焦燥に駆られながら、俺は遅くまでエメリーとの逃亡経路を懸命に考え続けた。

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