十二話

 あの女の出来事から数日が経っていた。あの後、俺は懸念を抱えながら日々を送っていたのだが、周囲に変わった様子はなく、ゼルバスにも特に変化はないようだった。まさか女が約束を守ったわけではないだろうが、まだ言っていないのか、言うタイミングを計っているのか、もしくはエメリーの力が働いているのか……。


 女に見られたことで、エメリーは最近俺といる時間を減らしていた。話し相手役、丘での笛の練習への付き添いはなくなり、俺は身の周りの雑用をするだけになっていた。まあ、これが世話係の本来の仕事なのだが、その本来に戻したのはエメリーの気持ちであり、俺のためでもある。すべてはゼルバスに怪しまれないため……それが、エメリーの真意だった。


 毎日彼女と会い、話していたから、そんな時間が急に減ってしまうと、正直心にぽっかりと穴が開いたような心地だったが、俺を守ってくれようとしているエメリーにもっと会いたいなどわがままは言えないし、言える状況でもない。彼女も、俺に何かを頼むことはなかった。夢で見たロアニス王子の顔を画家に描かせるというのも、あれ以来口にしていない。俺の、記憶を思い出さないでほしいという頼みを聞いてくれたのかわからないが、エメリーは記憶についての一切の話や頼みごとを言ってはこない。それが俺の望んだことではあるのだが、頼られないというのは少し寂しさも感じる。だが今の状況ではこれが最善なのだろう。ゼルバスを警戒し、記憶もそのままの現状維持。あとは、俺がどうすべきかだけだ……。


 エメリーといる時間が減ったことで、俺は雑用を終えてしまえば暇と言えた。これは密造場所を探す絶好の機会ではあるのだが、見つけるということはリントンが動き出すということでもあり、俺は複雑な心境にならざるを得なかった。ここに潜入した目的を忘れるわけにはいかないが、それを果たせばエメリーは殺されると知りながら探すことも辛かった。しかし、何もせず探索を長引かせれば、リントンは元より、諜報部本部からも疑念を抱かれかねない。そうなってはエメリーを助けることもできなくなるだろう。俺には、密造場所を探すことしかできないのだ。エメリーが死に近付くと知っていても、そうするしか――そんな葛藤を抱えながら、館の廊下を歩いていた夜に、それは突然やってきた。


「おい、そこの!」


 声をかけられて振り向くと、廊下の先にはこちらに手招きをして立つ部下の男の姿があり、俺は小走りで近付いた。


「……何ですか?」


「お前暇そうだな。手空いてるだろ。ちょっと手伝え」


「いいですが、何をするんですか?」


「酒の荷積みだ」


 その言葉に、思わず聞き返しそうになって、俺はすんでのところで飲み込んだ。


「ん? 何だよ。だりいとか思ってんのか?」


 鋭い目に見られ、俺は聞いた。


「いえ……俺にもやっとやらせてもらえるのかと思って……」


 密造酒に関する仕事は、これまで新入りという理由で何一つ関わらせてもらえなかったが、ここへきて初めて与えられたことに、俺は正直動揺していた。


 すると男は、はっとした表情で言った。


「そうか、お前はまだ新入りだったな……でも、もう結構経ってるだろ? 一年とか、それくらいは」


 一年は経っていないが、俺は曖昧に返事をした。


「まあ、今回は荷積みだけだし、それくらいは大丈夫だろ。とにかく人手が足りなくてな。付いてこい」


 男の後を追って、俺は廊下を進んでいった。


 館の裏庭へ通じる扉を開けると、男はそのまま外へ出ていき、暗く静まり返った裏庭を横切っていく。辺りに人影は見えない。どこで仕事をしているのか……。黙って付いていくと、男は裏庭を越え、さらに奥の草むらも越えていく。その先には波音を響かせる黒い海しかない。まさか館から離れたこんな海の近くでやっているのか? ――だがそのまさかだった。


「……おう、連れてきたか」


 砂浜へ下りると、待ち構えていた部下が話しかけてきた。


「一人だけな」


「一人? もっと連れてこいよ」


「暇そうなのがこいつしかいなかったんだよ。文句言うならてめえで連れてこい」


「ったく、しょうがねえな……じゃあ一人で二人分はやってもらうぞ。さっさと運べ」


 言われるまま砂浜を歩いていくと、そこには十人ほどの部下達が集まり、せっせと木箱に詰められた密造酒を運んでいた。


「時間がねえからな。お前も早く運べ。酒はあの小屋の中だ」


 示されたほうを見ると、真っ暗な景色の中にぼんやりと簡素な小屋が建っていた。部下達はそこから酒を運び出している。それを横目に俺も小屋へ入った。


 細いろうそくの明かりだけが照らす小屋の中は想像よりも広かった。木造で砂にまみれた床には密造酒の木箱が山積みにされていた。他には壁に網やロープ、銛などがかけられている。ここは漁師小屋だろうか。


「おい、ちんたらしてんな。早く運べ」


 入ってきた部下に急かされ、俺は仕方なく木箱を抱え、運び出した。砂浜を戻り、水際にある小船の近くに置く。それをまた別の部下が小舟に積んでいく。その小舟にもまた、網やロープが見えた。……なるほど。酒を隠している小屋も、この小舟も、おそらく漁師のものとして偽装しているのだろう。密造酒を運んでいることがばれないように……。だが、この酒を一体どこへ運んでいるのだろうか。最終的には本土に着くのだから、大海を渡れる輸送船などに積み替えるはずだが……。


「ほら、急げよ。全部積み込めなくなるぞ」


 指揮を執る部下が皆を急かす。俺は再び小屋へ向かいながら、前を歩く男に聞いてみた。


「あの、どうして急いでいるんですか?」


「ああ? 本土行きの輸送船の出航時間が迫ってるからだよ。聞いてねえのか」


「はあ……輸送船なら、もっと早くに積み込み作業ができたんじゃ……」


「お前は馬鹿か? 法に触れる酒を正面から積み込めるわけねえだろが。貨物検査が終わって出航するまでの短時間しか積み込めねえんだよ。お前、新入りか?」


「はい。まだ不慣れで……」


「けっ。じゃあ早く俺らのやり方に慣れるんだな」


 小馬鹿にした目で男は俺をいちべつした。……やはり密造酒は小舟から輸送船へと積み替えるようだ。おそらく船長に前もって賄賂を渡し、酒を積み込めるよう手配しているのだろう。


「ところで、この酒ってどこから運ばれているんですか?」


 密造場所をさりげなく聞いてみたが、これに男は急に険しい表情を作った。


「新入りに教えられるかよ。知りたきゃもっとボスのために働け」


 そう言って男は足早に小屋へ行ってしまった。この話になると部下達の口は急に堅くなる。それだけゼルバスも警戒しているということだろう。だが当たりはついた。これだけの密造酒を遠く離れた場所からわざわざ運ぶような手間はかけないはずだ。つまり、密造場所はあの小屋の近くに必ずある――そう確信しながら、俺は砂浜を往復して酒を運び続けた。


 それから数日後、俺は再び酒の隠されていた小屋にやってきた。今日は午後からゼルバスが部下達を連れ、どこかへ出かけたようで、普段よりは人目が少なかった。世話係の仕事を終えた俺は空いた時間を使い、誰にも見られないよう慎重に裏庭へ出て、海へと向かい、密造場所の探索をすることにした。


 東側にあるこの砂浜は、館の二階からたまに見てはいたが、人影はほとんどなく、いたとしても住人や漁師が何か作業をしているとしか思わなかったかもしれない。部下の姿を一度でも見ていれば、それも違ったのだろうが、どうやら荷積みは夜にしか行われないようだ。だから当然昼間に部下を見かけることはなく、暗闇の中での荷積みに気付くこともできなかった。それほどこの砂浜は、俺の注意の範囲外だったということだ。


 そうなった最大の理由は、あまりに殺風景すぎるからだ。南北に伸びる砂浜は広くも大きくもなく、その周囲に建物もない。あるのは陸に上げられた小舟と、漁具の置かれたこの小屋だけだ。ここで密造酒を見なければ、こんな浜辺に密造現場があるとは考えもしなかっただろう。いや、まだあるとは確定されてはいないが、俺の経験からして、ほど近い場所に必ずあるとは思う。必ず、どこかに……。


 小屋に入った俺は、何か手掛かりはないかと隅々を見て回った。漁具は先日と何も変わらず壁にかけられている。うっすらと埃をかぶっているのを見ると、やはりこれは偽装のために置かれているのだろう。山積みにされた密造酒がない今は、砂で汚れた床があるだけで、他には何もない。本当に、ただ酒を一時的に隠し置くだけの空間と言ったところか。手掛かりはなさそうだな……。


 壁や床を眺めながら外へ出ようと思った時、俺はふと足下の傷跡に目が留まった。砂が散らばる床板に刻まれた、こすれたような傷。別の場所を見れば、そんな傷は至る所に見えたが、そのどれもが直線なのに対し、この足下の傷だけは弧を描く長い曲線だった。こんな傷跡を俺はよく知っている。借りているあのぼろい家の玄関に、まさにそっくりな傷跡があるのだ。どこかが歪んでいるのか、扉を開け閉めするたび、その底辺が床とこすれ、毎日傷を刻んでしまっているのだ。だから家の床には扉が描いた弓のような痕跡がくっきりと残っていた。それと似た傷跡……ということは、ここにも扉があるのでは――


 俺は傷跡に近い壁を手で探りながら調べてみる。と、見ただけではわからなかったが、触るとわずかに動く部分があった。長方形の、人一人分が通れそうな大きさ……隠し扉だ。壁板の切れ目を使って上手く同化していて、一見しただけでは扉に見えない。取っ手でもあればわかるのだろうが、隠し扉なのだからあるわけもない。これはどうやって開けるのだろうか。


 壁と扉のわずかな隙間に指を差し込んでみるが、開きそうにない。どうやら反対側から鍵をかけられているようだった。こちら側からは無理らしい。俺はひとまず小屋から出て思案した。


 あの扉の向こうが密造現場である可能性は高い。鍵を壊せる道具を取りに戻って、強引に破る方法もあるが、それでは侵入されたことがすぐにばれ、証拠の隠滅をされてしまうだろう。そうなっては意味がない。それに、中に誰もいないとも限らない。大勢いれば逃げられることも――


 俺は小屋の外観を眺めながらふと思った。酒の密造という犯罪現場なのだ。逃げ道が一つということはないのではないか? 警戒心の強いゼルバスのことだ。見つかった時のことも想定はしているはず……。そう考えながら、俺は改めて小屋の周囲を見回した。砂浜を離れた先は、草木が生える小高い野原が広がっており、小屋はその段差に身を寄せるように建っている。つまり隠し扉の奥は、小高い野原の下に続いているわけだ。その野原は先へ行くほど高くなり、最奥には林が見える。もしも俺がもう一つ入り口を作るなら、人が近寄らなさそうな、あの辺りに作ると思うが――小屋を後にした俺は、坂になっている野原に入り、緑の濃い香りが包む林へと向かった。


 頭上から日は差し込むが、足下は雑草に覆われ、かなり歩きづらい。雨でも降れば草で滑って、砂浜まで一気に転げ落ちてしまいそうだ。そんな坂にある林を、足下に気を付けながら歩いていると、ところどころ踏み潰された雑草が目に付くようになった。これは獣ではなく、人間の踏んだ跡だろう。それを追って進んでいくと、小ぶりの岩の側に一箇所だけ、雑草のない地面があった。


「……やはり」


 見ると、その地面には大きな四角い木の板が埋まっており、端には錆びた取っ手が取り付けられていた。もう一つの入り口に違いない――誰もいないのを確認して、俺はその取っ手をつかんで引き上げた。砂をぱらぱら落とさせながら扉である木の板が開くと、その下には想像通り、地下へ伸びる梯子があった。のぞくと、奥は暗く、結構深そうだ。だがためらう余地はない。俺は暗い穴に身を入り込ませると、木の板を静かに閉めてから、慎重に梯子を下りていった。


 長い梯子を下りきった先には、細く暗い通路が奥へ伸びていた。まだ目が暗闇に慣れないせいか、辺りがはっきり見えず、俺は土の壁を手でたどりながら進んだ。その指先には穴の上から伸びる硬い木の根がごつごつと当たってくる。今は林の真下を通っているようだ。通路はやや下りながら、真っすぐ奥へ続いていく。


 目が慣れ始めた頃、ようやく通路の終わりが見えた。口を開けたような暗い穴の先は、ぼんやりと明るかった。明かりがともっている。誰かいるのか――俺は息を潜めながら忍び足で進み、通路の壁に身を寄せた。見下ろしてみると、足下にはまた梯子があり、それを下りれば広い空間に出られる。洞穴にしては何とも広々とした場所だ。自然のものなのか、またはこつこつと月日をかけて掘ったのか……。俺は梯子を下りず、高い位置から奥を見回した。


「……!」


 それはすぐに目に留まった。ろうそくの明かりを鈍く映す、丸みを帯びた大きな金属の装置――蒸留器だ。間違いない。同じものが間隔を開けていくつも設置されている。その周りには瓶やら器具やらが机の上に無造作に散らばっている。今は稼働させていないようだが、空間に漂うこの匂い……酒をここで作っていることは明らかだ。ついに、見つけた……。


「お前も早く来いよ。酒がなくなるぞ」


 突然男の声が聞こえ、俺はすぐに身を引いて隠れた。


「なくなるもんか。そうなったらここで作ればいい」


 別の男が陽気な声で答えている。俺はしゃがみ、壁から目だけを出して奥を凝視した。……いた。蒸留器の向こう側の暗がりの中、机を囲む三人の男の姿が見える。


「ここのは売り物だ。勝手に飲めねえよ」


「できそこないならいくらでも飲める」


「あっちの蒸留器は大丈夫か? 早いとこ直さねえとボスの機嫌を損ねるぞ」


「大丈夫だよ。心配いらねえ。すぐに直る」


「本当か? ならいいけどよ」


 この男達は密造酒作りとその管理をしているようだ。こんな穴蔵にいるせいか、会話が響いてここまでよく聞こえてくる。


「そういや、あっちの話はどうなってる」


「うん? あっちって?」


「薬のことだよ。進めてんのか?」


「ああ、あれね。ボスはやる気らしいぞ。今、売買経路を探してるとか言ってたな……そうだったよな、おい」


「……ん、何だあ?」


「寝ぼけてやがる。聞いても無駄だ」


 薬? ゼルバスは酒以外にも手を出すつもりなのか?


「でも、やるんだったら早いとこ揃えないとな。病気が終息したら稼げなくなる」


「まだ平気じゃねえか? 南国の……ムルリア、だっけ? 向こうのほうはかなりごたごたしてるらしいからな。病気どころじゃないだろ、多分」


 病気って、ムルリアでの感染症のことか? まさかゼルバスは偽薬まで作ろうとしているのか。


「たとえ終息したとしてもだ、あっちじゃ薬は作れないんだ。備蓄用にたんまり買ってくれるさ。そんでこっちは大儲けってわけだ」


「やっぱりボスは商売の天才だな。目の付けどころが違う」


「何を今さら。そんなボスだからここまで付いてきたんだろうが」


「違いねえ。じゃあ、次の商売の成功を祈って、乾杯だ」


「おう。……ほら、乾杯しろよ。目開けろ」


 眠っている仲間を、男は小突いて起こそうとしている。そんな光景を後にした俺は、静かに来た道を引き返し、穴から地上へと戻った。


 人影がないのを確認して、俺は館へと向かう。草むらの中を歩きながら、ようやく任務を果たせたことにわずかな安堵はあったものの、達成感は微塵もなかった。あるのはゼルバスの外道な企みへの憤りと、リントンに報告しなければいけない憂鬱な感情だけだった。穴の奥で見たこと、聞いたことはしっかり知らせなければならない。だが、それはエメリーを殺す合図でもあるのだ。黙っていようか――心の声がささやく。しかしそんなことをしたところで何も解決されないのはわかっている。時間を稼いでも、エメリーを暗殺対象からは外せないのだから。彼女を助けたい。諜報部に背くとしても、殺されるとわかっているエメリーを放っておくことは絶対にできない。守り続けるのだ。この手で……。そうなると、取れる行動はおのずと限られてくる。もう、迷いを吹っ切る時だ――俺はそう自分に言い聞かせ、前を向いた。

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