十一話

 リントンに話を聞いた日から、俺の日常はがらっと変わってしまった気がする。これまでは任務について、自分なりの進め方でやってきたが、脳裏には常にリントンの顔が浮かび、俺を急かしてくる。それはエメリーが暗殺対象にされているという焦りでもあるのだが、どちらかと言うともう一つの理由のほうが強い。それは気配だ。館の外を歩いていると、必ずと言っていいほど誰かの気配や視線を感じるのだ。見回しても人影はないのだが、俺にはそれがリントンだとわかっていた。根拠はない。が、これほど上手く身を隠せるのは彼しか考えられない。そうして監視をしながら、エメリーや周囲の情報を収集しているのかもしれないが、俺にしてみれば、任務遂行を急かされているようにしか感じられない。漠然とした気配に、暗殺をする準備は万全だと無言で言われているような感覚で、俺はいやが上にもリントンを意識しないわけにはいかなかった。いつもどこからか見られていては、密造場所の探索をおこたることもできない。しかし、それを急げばエメリーの死が近付いてきてしまう……。俺はどうすべきか、まだ答えを出せていない。それでも平然を装って仕事をしなければいけない。世話係として、今日も彼女の元で――頭を埋め尽くす問題をひとまず奥底へ隠した俺は、表情を意識しながらエメリーの部屋の扉を叩いた。


「昼食を持ってきました」


 声をかけ、扉をゆっくりと開ける。


「……ああ、そこに……」


 突っ立って窓の外の青空を眺めていたエメリーは、俺に気付くと小さな声でそう言った。その様子はどうも上の空に見える。昼食より他のことに意識を取られているような――机に料理の載った盆を置いて、俺は聞いてみた。


「何か、考えごとですか?」


 え? という顔が振り向いた。


「持ってきた昼食を食べてからでもいいんじゃないですか?」


 料理を示して言うと、エメリーはわずかに微笑んだ。


「あたし、難しい顔してた?」


「心ここにあらずの顔でした」


 俺が笑いかけると、彼女もつられたように笑顔を見せた。


「ふふっ……聞いてくれる?」


「もちろん」


 俺はエメリーの側まで近付いた。窓から入ってくる潮風が彼女のドレスと長い黒髪を緩やかに揺らしていた。


「考えごとって言うのかわからないけど……実は昨日、夢を見たの」


「夢……またあの夢ですか?」


 心配になって聞いた俺に、エメリーは笑みを浮かべながら首を横に振る。


「違うわ。まったく別の夢。あの怖い嵐の夢の他にも、いくつかよく見る夢があってね。そのうちの一つを昨日見たの」


「どんな夢なんですか?」


「あたしが見知らぬ男の人を見てるだけの夢。それなのにその男の人の顔はよく見えないのよ。会話もするんだけど、なぜか聞き取れなくて……そんなことがずっと続くの」


「それだけの、夢なんですか?」


「そう。それだけ。怖くも楽しくもない、よくわからない夢だったの。これまではね。でも昨日、その男の人の顔が初めて鮮明に見えたのよ。あたしと同じくらいの歳で、青みがかった黒髪に、すみれ色の目が印象的だった。まるで貴族のような格好をしてて、あたしに優しく話しかけてくるの。気付くと、あたしもきらびやかな格好になってて、周りにそんな人達が大勢いて、その中であたしは横笛を吹いてた。歓声が上がると、今度は男の人も加わって――」


 エメリーは楽しそうに昨晩見た夢を語っている。だが聞いている俺は不安しか覚えなかった。青みがかった黒髪にすみれ色の目――それは、エメリーと婚約していたロアニス王子の特徴そのものだった。年齢も二十三だし、貴族のような格好も、王子なのだから当然だ。そこにエメリーがいて、きらびやかな格好で横笛を披露しているというのは、実際にあったことでもおかしくはない。彼女は音楽留学と称して我が王国へ来ているのだから。


「――それで、皆で演奏したの。あんなに楽しい夢は初めてだったわ。もっと見ていたかった。でも、朝になって、目が覚めて……その時、楽しい気分のはずなのに、胸にはなぜか懐かしさが込み上げてきたの。横笛であの音楽を吹いてる時みたいな、あんな懐かしさ……。これは何なんだろうって、自分でもよくわからなくて、だけど頭の隅に重い何かがぶら下がってるみたいな違和感もあって……それで、あたし思ったの」


 確信めいたエメリーの目を見つめながら、俺の鼓動は密かに速まっていた。


「あの夢は、あたしがなくした記憶の一部なんじゃないかって」


 気付いてしまった――そうなのだ。実際、嵐の夢は現実のものだった。昨晩の夢も、記憶を失ったエメリーが知る由もない、ロアニス王子の容姿がそのまま現れている。その他諸々の点を合わせれば、過去の記憶である可能性は非常に高い。無意識のエメリーはすでに、記憶を取り戻しつつあるのかもしれない……。


「夢だから、多少の脚色はあると思うの。皆が豪奢な格好だったり、あたしの演奏に拍手喝采だったり、都合のいい部分もあるでしょうね。でもその中に懐かしさを感じさせる記憶が混ざってるかもしれないって思ったの。思い出す手掛かりがね」


「俺は、夢は夢でしかないと思いますが……」


 不安を押し隠し、俺は言った。


「そうかしら。アリオンは、現実にいる人の夢は見ない? あたしは時々この館の人達を夢で見るわ。アリオンのことだって……。それと同じだと思うの。夢には自分の記憶が入り込むのよ。だからこそ懐かしさを感じたはずでしょう?」


 エメリーはにこりと笑うと言った。


「今から街へ一緒に行きましょう。そこで夢で見た男の人の顔を画家に描いてもらうから」


「い、今から、ですか?」


「ええ。顔をはっきり憶えてるうちに描いてもらわないと。さあ行きましょう」


 扉へ向かおうとするエメリーの前に、俺は咄嗟に立ち塞がって止めた。


「昼食が……食べ終えてからでも……」


「帰って来てからでいいわ。それより早く描いてもらいたいの」


 俺を避けて行こうとするエメリーだったが、すかさず止めた。


「……アリオン?」


 いぶかしむ視線を受けながら、俺は引き止める言葉を懸命に考えた。


「そんなに、無理に、思い出すことはないと思います……」


 エメリーの目がさらにいぶかしさを増したのがわかった。


「無理なんかしてないわ。どうして? アリオンは思い出すのを手伝ってくれるんでしょう?」


「それは……」


「あたしは記憶を取り戻して、自分の居場所を見つけたいの。こんなところは一日も早く出ていきたい。思い出せるかもしれない手掛かりがあるのに、そのまま放って忘れるわけにはいかないでしょう?」


 正論に言い返す言葉はない。だがエメリーを前に進ませるわけにもいかない……!


「俺は、このままでもいいと思うんです。ボスの下で、あなたは庇護され、俺は世話係として――」


「アリオン……何を言ってるの?」


 眉根を寄せたエメリーが不審なものを見るように俺を見つめていた。自分でも何を言っているのかと思う。このままゼルバスの元にいさせていいわけがない。やつは犯罪者なのだ。記憶を取り戻すために協力すると言っておきながら止めている俺は、エメリーから見れば心変わりでもしたように見えるかもしれない。だが違う。これは本心などではない。俺は先に失った記憶を知ってしまったのだ。エメリーの本当の居場所も、そして、今そこへ帰れば命を奪われるということも。ただあなたを助けたい、死なせたくない……俺は、その一心で――


「アリオンだけは信用してたのに……あなただけはあたしの気持ちを理解してくれたと思ってたのに……すごく、残念だわ……」


 目を伏せたエメリーは悲しげな表情を浮かべると、俺を置いて通り過ぎようとする。


「待って――」


 俺はすぐさま腕をつかんで引き止めた。


「放して!」


 だがエメリーはその手を振りほどく。


「もうアリオンには何も頼まないわ。記憶はあたしだけで――」


 それ以上言わせたくない――俺は言い終えていないエメリーを強引に腕の中へ抱き寄せた。瞬間、はっと驚いた息遣いが聞こえ、俺は抵抗されるものと、さらに強く抱き締めたが、エメリーは暴れることなく、戸惑いの声を漏らした。


「アリオン……あなたの気持ちが、わからないわ……」


 今にも泣き出してしまいそうなか細い声が俺の体に響く。わずかに潮の香りのする黒髪に頬を寄せ、俺は言った。


「俺の気持ちは、何も変わってはいません。ずっと、あなたの元に……」


「それなら――」


「思い出さないでほしい。今は……それしか言えません」


「どういう、こと? 説明してくれないと――」


「これは、あなたのためなんです。どうか、信じてください。どうか……」


 記憶が戻ったところで、エメリーの居場所はすでに失われている。母国ムルリアの惨状、そして、一族の処刑……思い出しても、辛い現実があるだけなのだ。ならば、記憶をなくしたままのほうが、彼女にとって幸せなのではないか。何も知らないことで、新たな人生を始められるのでは……。俺は、勝手だろうか。懸命に記憶を取り戻そうとしているエメリーの意思を阻み、その気持ちを無視している。だが、俺にはこうするしかないのだ。帰る場所を失い、命を狙われているエメリーを助けるためには……。


「アリオン……」


 ゆっくりと顔を上げたエメリーは、そこにまだ戸惑いを残してはいたが、こちらを見上げるその目に笑みを見せて言った。


「あたしは、自分のことが知りたい。どこから来て、何をしてたのか……。でも、あたしを思ってくれるあなたのことも信じたい。記憶を思い出さないことがあたしのためだと言うなら、あたしはアリオンを――」


 その時だった。不意を突くようにガチャと大きな音を立てて、突然部屋の扉が勢いよく開いた。


「エメリー、ちょっと化粧道具貸して……くれ……ない……?」


 そこに立っていたのは、髪がぼさぼさで化粧もしていないゼルバスの女の一人アリピアだった。扉も叩かず急に現れた女は、俺達を見るや目を見開いて動きを止めた。……まずいところを見られたか。抱き締めているのをこうもはっきり見られては、もはやごまかしようがない。


 俺は何事もなかった素振りでエメリーから身を離したが、それを眺める女の目は、すでに強い疑いを見せていた。


「あら、お邪魔しちゃった? でも、昼間から何しようとしてたのかしら?」


「勘違いしないで。ただ……この首飾りを付けてもらってただけよ」


 そう言ってエメリーは首元で光る銀の鎖を示すが、女は到底信じるわけがない。


「抱き合いながら付けるなんて、随分と窮屈な付け方をするのね。あたしはてっきり、あの人のことなんか忘れて、その男といちゃついてたんだと――」


「だから! 違うって言ってるでしょう!」


 エメリーの語気が荒くなる。俺と同じように焦っている……。


「何か用ですか?」


 俺が聞くと、女はこちらをいちべつしただけで、またエメリーに目を向けた。


「ふんっ、下っ端に用なんかないわ。あるのはそっち。……ねえエメリー、あんたあの人に高い化粧道具いっぱい買ってもらってたわよね」


 猫撫で声に変わった女を、エメリーは睨むような目で見ていた。


「それが何なの」


「あたしのはもう古くって使いづらいのよ。だから――」


「使いづらくても使えるのよね? だったらそれを使えばいいじゃない。それか、なくしたってはっきり言ったらどう?」


 これに女の表情が歪んだ。


「……そうよ。この間コリンナとカードで賭けて、化粧道具全部持ってかれたのよ! だからこうして化粧ができないでいるの! わかった?」


「素っぴんのほうが綺麗じゃない。あの人が気に入るかはわからないけど」


 鼻であしらうエメリーだったが、女は不敵な笑みを浮かべ、言った。


「ふーん、冷たいのね。でもそんなこと言っていいのかしら? あんた、自分の立場がわかってないの?」


 女はじろりと俺達を見てくる――やはりこうなるか。


「単なる誤解でよく勝ち誇った気になれるものね」


「誤解? うふっ、嘘が堂に入ってるわね。あの人のこともそんなふうに騙してたんだ。性悪な女。早く教えて、あの人の目を覚まさせなくちゃ」


「ちょっと!」


 踵を返そうとした女をエメリーは呼び止める。それにゆっくりと顔を向けた女は、意地の悪い目付きと声で言った。


「やっと理解したようね……あたしもこんなことしたくないのよ? でもこっちも困ってるの。あんたが化粧道具をくれるって言うなら、ここで見たことは忘れてあげるわ」


 不審な表情を見せながらも、エメリーは強い口調で言った。


「……二度と、この話を蒸し返さないって約束して」


「約束? どうしようかしら……」


 にたにたする女はエメリーを見つめながら思案する素振りを見せる。


「そうだ。前にあの人に褒められてた口紅、あれもくれるなら、約束してもいいかな……」


 ここぞとばかりに要求してくる女だが、こちらが断れる選択肢はない。エメリーは何も言わず、ただ静かにうなずいた。


「……向こうの化粧台に全部置いてあるわ。さっさと持っていって」


「ありがとう! すっごく助かるわ」


 嘘臭い言葉を吐くと、女はそそくさと部屋の奥へ行き、化粧台にある化粧道具一式と口紅を抱え、戻ってくる。


「じゃあこれはいただいていくわね。……でもやっぱり、浮気はよくないわよ。あの人を裏切るんだから。飽きたっていうんなら、あたしから言っておいてあげましょうか?」


「もう構わないで。早く行って!」


「あーこわ……」


 笑いながら女は部屋を出ていった。それを見送ることなく、エメリーはすぐに扉を閉めると、鍵をかけ、大きな溜息を吐いて扉に背を預けた。


「大丈夫、ですか」


 声をかけると、エメリーは力のない笑みを浮かべて俺を見た。


「ごめんなさい。上手くごまかせなかったわ」


「俺が悪いんです。俺が、あなたを抱き締めたりしたから……」


「そう言うなら拒まなかったあたしも悪くなるわ。アリオンのせいじゃない」


 無理に笑って俺を安心させようとしているが、やはりそこに力はない。この状況は、エメリーにとっても深刻なのかもしれない。


「あの女の約束は、信用できるものですか?」


 エメリーは首を横に振る。


「お互いを毎日蹴落とし合ってるような仲なのよ。約束なんて口だけ。いつあの人にしゃべったっておかしくないわ」


 だろうな。ゆすりをしてくるような女が律儀に約束を守るとは到底思えない。


「彼女が話せば、あたしはここを追い出されるかもしれない……でも、それ以上にアリオンはひどい目に遭わされてしまう。前に腕試しと言って殴り合いをした時みたいな……いえ、あれよりもっとひどいことも考えられる」


 俺はゼルバスの機嫌を損ねるという前科をすでに持っている。それであの女が話したとなれば、二度目の俺は無事で済むはずがない。何せゼルバスのエメリーに対する嫉妬心は異常だ。おそらく体はぼろぼろにされ、悲鳴が出なくなるほど痛め付けられ、最後は心臓を一突きにでもされてあの世に送られるのだろう。もちろん俺にそんな死に方をするつもりはない。ないが、もしそんな事態になったら、対処するのはかなり難しいかもしれない。任務のことを考えれば、安易に逃げ出すこともできない。何より、エメリーを残していくことなど――


「心配しないで」


 思考の世界に入っていた俺はエメリーのその言葉で引き戻された。そして、自分がそう言わせてしまうような顔をしていたのだと気付かされた。


「アリオンは、誰にも傷付けさせない。彼女が話したって、あの人が怒ったって、あたしがどうにかしてみせるから。あたしが、絶対に守ってあげるから、だから、心配しないで……」


 満面の笑みを見せるエメリーだったが、その下には懸命に押し隠している不安が見える。ゼルバスの本命とは言え、やつはエメリーの言いなりというわけではない。気に入らないことは強引に押し通す部分もある。完全に制御できないということをエメリーもわかっているのだ。しかしそれでも、やつを抑えられるのは自分だと、俺を守れるのは自分だけだと、健気にも安心させようとしてくれている……。本当は、こちらが守るべきだというのに。俺は、一体どうしたらいい。どうすればエメリーを救えるのか――俺の両手は安らぎを求めるように、自然とエメリーの肩を抱き寄せていた。


「アリオン……また、見つかるわ」


 くすりと笑ったエメリーはわずかに抵抗したが、俺が離さないでいると、観念したように頭をこちらに預けてきた。力を込めれば壊れてしまいそうな柔らかさと温もり。頭を埋め尽くす感情と言葉を今だけは忘れ、俺はもう少しだけ愛しい感触に浸っていたかった。

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