十話

「……やっぱり、この音楽はちょっと難しいわね」


 一通り吹き終えたエメリーは、草の上にある楽譜を睨むように見ながら言った。


「上手く吹けていたと思いますが」


「全然よ。この、速くなるところなんて、毎回指が絡まりそうになるもの」


「じゃあ、まずは前半部分だけを集中して練習しては――」


「それじゃあ腕が上がらないわ。難しいのは後半なんだから。間違えずに意地でも吹き切ってみせるんだから」


 気合いを入れた力強い表情で、エメリーは俺に微笑みかけた。


 あの夜から数日が経ち、その間エメリーは午後になると、こうして俺と共に、決まって丘へやってきては笛の練習をしている。ようやく新しい音楽を手に入れ、やる気も十分なエメリーは、俺が写してきた楽譜を真剣に見ながら、真面目に練習を繰り返していた。酒場で演奏されていたものだけあって、その音楽は軽やかで明るい曲調だ。この丘からの景色や青空によく合っていて、聞いているだけでも楽しい気分にさせてくれる。そんな俺とエメリーの間に、あの夜の雰囲気は微塵もない。


 別にどちらかが避けているわけではなく、これは俺の感覚だが、ただお互いがお互いに気を遣っているだけなのだと思う。俺は嫉妬するゼルバスに、エメリーはそんなゼルバスに俺が目を付けられないために、相手への気持ちを秘めて普段通りの距離を保ち続けているに過ぎない。ふと彼女と視線が合うと、一瞬時が止まったように見つめ合うが、それはすぐに解けて日常へと戻る。そんなことが今日まで何度もあったが、俺はそれでも十分だ。エメリーに触れられないのは確かに切なくもあるが、一瞬でも見つめ合えば、お互いの気持ちを確かめ合えた。その場では口に出せない気持ちを……。今はそれでいいのだと思って、俺は世話係を務めている。何しろまだ俺には任務があるのだ。果たすべき任務が。それさえ終えれば――


「――ねえ、アリオン?」


 呼ばれているのに気付いて、俺は我に返った。


「あ……何ですか?」


「ぼーっとして、どうしたの?」


「いや、あなたの笛の音に聞き惚れていました」


 咄嗟にごまかして言うと、エメリーは白い目を向けながらも笑って言った。


「下手な冗談。お世辞を言われるなんて、あたしの笛はやっぱりまだまだなのね」


「お世辞ではありませんよ。あなたの笛の音は心地いい。こんな時間がずっと続けば……」


 思わず本音が出そうになって、俺は慌てて言い直した。


「ずっと……練習を続ければ、もっといい音色になるでしょうね」


 ちらとエメリーを見ると、黒い瞳がじっとこちらを見つめていたが、すぐににこりと微笑んだ。


「そうね。心地よすぎて、アリオンが寝ちゃうくらい、上手くなってみせるわ」


「それは楽しみです。あなたの笛の音を聞きながら寝られる日が待ち遠しい……でも、今日はもう戻らないと。日が傾いてきました」


 頭上を見ると、雲の浮かぶ青空は徐々に暗い紫色に塗り変わってきている。もう夕方だ。エメリーとこの丘にいると、時間が早く流れているようだ。


「もうちょっとだけ練習したいわ」


「また明日にしましょう。さあ」


 立ち上がった俺はエメリーに手を差し伸べた。その手をつかんだエメリーをぐいっと引き上げ、立ち上がらせる。その瞬間、視線がぶつかり、俺達は自然と見つめ合っていた。


「……ありがとう」


 それを先に解いたのはエメリーだった。戸惑う表情でうつむき、つかんだ手を離した。


「帰りましょう……」


 顔を上げたエメリーはそう言うと、丘を下る道を歩いていった。その背中を追いながら、俺は溜息が漏れそうだった。これでいいとは思うものの、やはり心はもどかしかった。目の前にいるのに、言葉にも態度にも出せないなんて……。だが、任務を考えれば今は耐えるしかない。


 そんな気持ちの一方で、わずかな不安もくすぶっている。ビオンの手紙のことだ。一体どういう事情で諜報員がこちらに来るのか。エメリーに関係しているのは間違いないが、その諜報員が暗殺担当というのが不安の大きな原因だ。悪くは考えたくない。が、そう考えざるを得ない人間が来てしまうのだ。この不安は拭うにも拭い去れない。できれば、俺の想像とはまったく違うものならいいのだが……。


 丘を下り、緑に囲まれた細い道を歩いていると、前方に人影が見えた。白いシャツに茶のズボンと、ごく普通の格好をした男性だったが、こんなところに自分達以外の者がいるのは初めてのことだ。この道を行っても、丘や木々があるだけで特に何もなく、街の住人も館の男達もわざわざ来ることはない。海に出るにしても、違う道を通るはずだ。この男性は何をしに行くんだ……?


 不思議に思いながら歩いてくる男性を何気なく眺め、その顔がはっきりと見える距離まで近付いた時、俺は思わず息を呑んだ。静かな足取りで歩き進む男性は、先を行くエメリーの横を通り過ぎる。そしてややくせのある金髪の頭を上げると、見えた緑の目はとらえるように俺を見た。だが足は止めず、男性は俺とすれ違おうとする。その瞬間だった。


「部屋で待つ」


 ぼそりと呟かれ、俺は止まって振り返った。しかし向こうは見向きもせず、そのまま歩いていってしまった。


「アリオン?」


 止まっていた俺にエメリーが声をかけてきた。


「今、行きます……」


 俺は小走りでエメリーに追い付いてから、もう一度後ろを振り返ってみた。だが向こうの姿はすでに見えなくなっていた。……まさか、あいつが来るとは――俺の中の不安は、わずかどころか大きくなり始めていた。


 世話係の仕事を終え、家に帰ったのは星の見える夜だった。体にほどよい疲れを感じながら、しかし心には緊張を感じながら、ぼろい家の階段を上り、扉に手をかける。と、キイときしんだ音を立てて扉は勝手に開いた。鍵が開いている……あいつは部屋で待つと言ったが、本当に部屋の中で待っているようだ。俺は出しかけた鍵をしまい、中へ入る。


 部屋に明かりはついておらず、暗いままだった。椅子にもベッドにも人影はない。視線を奥にやると、窓が半分開いているのが見えて、俺はそちらへ近付いてみた。


「……何しているんだ」


 顔をベランダに出してみると、そこには昼間に見たあいつが鳩小屋の扉を開けて、中の鳩に餌をあげていた。


「腹が減っているようだったから、勝手にあげさせてもらっているよ。……そう言えば、私も腹が減ったな」


 そう言って俺が抱える、街で買ってきたパンと酒をじっと見てくる。


「……一緒に食べるか?」


「悪いね」


 そう言う顔は、ちっとも悪びれていない。こいつには愛想というものがないのだ。ライゾス・リントン――俺と同じ諜報部所属の諜報員。俺より一歳上の二十八歳だが、諜報員としては彼のほうが大分長い。というのも、リントンは若い時から知能も身体能力も高かったらしく、早くから諜報部に引き入れられていた。運動神経と冷静さを評価されている俺ではあるが、彼を相手にしたら、おそらくそれはまったく歯が立たないことだろう。仕事ぶりを直接見たわけではないが、国内外に潜む密偵を始末するという、同業者を相手にした危険な任務も、彼はこれまで一度もしくじったことはない。他の諜報員が匙を投げるような困難なことでも、リントンならさらりとやり遂げてしまうのだ。そんな実績から、彼は諜報部では第一人者であり、暗殺任務の切り札でもある。


「適当に座ってくれ」


 促すと、リントンは椅子に座り、足を組む。その横で俺は、机にあるコップに酒を注いだ。


「私の分はいらないから」


「飲めないのか?」


「いや、飲めるが弱くてね。話をする前に酔うわけにはいかないだろう?」


「酒以外に飲めるものはないんだが……」


「構わないよ。今は腹を満たしたい」


 感情も抑揚も少ない声に言われ、俺は持っていた包みからパンを一つ渡した。受け取ったリントンはその香ばしい匂いを一嗅ぎすると、大きな口を開けて豪快にかぶり付く。


「……魚とスモークチーズか。なかなかおいしいな」


 食べるリントンを横目に見ながら、俺は机を挟んだ向かいの壁に寄りかかり、もう一つの同じパンにかじり付いた。おいしいと言う表情は、やはり少しもおいしそうには見えない。


 俺はリントンと同僚ではあるが、ビオンほど話す仲ではない。挨拶や必要な報告などをする程度で、仕事上の知り合いという意識が強い。俺はそんなリントンが声を上げて笑ったのを見たことがない。見かける顔は常に落ち着き払い、無表情なのだ。諜報部内で信頼されてはいるものの、彼の内面や私的な時間を知る者は少なく、少々謎めいた存在でもある。だが、そんな彼がわずかに感情を見せた瞬間を俺は目撃したことがある。ある諜報員が任務を終え、無事に戻れたことをリントンを交えた数人で喜んでいた時だ。その内の一人が任務に絡めた冗談を言ったのだ。皆が笑う中、彼もうっすらと笑っていた。それを偶然見た俺は、正直意外に思った。よく見ないとわからないほどの笑みだったが、感情を失ったかのような彼も、面白いことがあれば皆と同じように笑うのかと、小さな発見をした気分だった。何事も冷静にこなしていく彼は、暗殺担当ということもあり、近寄りがたく、冷酷な印象を与えるが、冗談で笑った姿から、その内側は俺達と変わらないのだと俺は思った……のだが、パンをおいしいと言いながら無表情で頬張る姿を見ていると、そう思ったことが我ながら疑わしくも思えてくる。この男は本当に感情を見せないから、考えていることもさっぱりわからない……。


「女の顔を確認したよ」


 パンをかじろうとしたところで急に言われ、俺はリントンを見た。


「……確認?」


「お前と歩いていた女だ。調べてほしかったのはあの女だろう?」


 そう言うとリントンは最後の一口のパンを口に入れる。……そうか。あの時すれ違ったのは、エメリーの顔を間近で確認するためだったのか。


「ああ、そうだ。それで、彼女のことはわかったのか」


 リントンはゆっくりと咀嚼すると、それを飲み込んでから言った。


「やはりあれは、ナディネ王女に間違いない」


「何……?」


 思いも寄らない言葉を言われて、俺は思わず聞き返した。


「知っているだろう。ロアニス王子の元婚約者だ」


 王子の、婚約者――そう聞いた瞬間、俺の記憶を長く曇らせていたもやが一気に吹き飛んでいった。俺が見たエメリーの眩しい笑顔……あれは、偶然通りかかった俺が見かけた光景だ。婚約を結んでから、初めてエメリー……いや、ナディネ王女が、我が王国の宮殿へやってきた姿。俺は確か諜報部へ戻る途中だったのだ。暗い廊下を歩きながら、やけに人が多いなと目を向けた先にいたのがナディネ王女だった。晴れ渡った青空の下、異国のドレスで着飾った王女は幸せそうな笑顔を浮かべ、大勢の臣下に囲まれて歩いていた。遠目からもわかる、その輝くような美しさに、俺はしばし目を奪われた。だがすぐに我に返ると、それ以降、王女を気に留めることはなかった。自分には無縁の世界だったから……。


「パンが落ちたぞ」


 はっとして足下を見れば、床に食べかけのパンが具をはみ出させて落ちていた。


「あ、ああ……」


 俺は慌ててそれを包みに戻す。


「随分と驚いたようだね。そんなに意外だったか?」


「まあ、ね。こんなところに王女がいるとは誰も思わないからな」


 俺は笑い、自分を落ち着かせた。エメリーは王女だった――その事実を、俺は冷静に考えた。


「だが、なぜ王女はここに? 自国にいるはずじゃないのか?」


 ナディネ王女は自国で蔓延する感染症の薬を持って帰国したと聞いていたが。


「お前はその後のことを知らないのか?」


「王女に関して知っているのはそこまでだ。その後俺は長期の潜入任務に就いて、長く諜報部には戻れなかったのでな」


「そうだったのか……それなら知らないのも無理はないね。それじゃあその後の王女と、私の任務について話そうか」


 リントンは足を組み直すと、その膝に手を乗せて俺を見据えた。


「その前に聞くが、王女がなぜ我が王国へ来たのか、それはさすがに知っているか?」


「確か、表向きは音楽留学と言っていたか……」


「そう、表向きはね。だが王女側の目的は二つあった。一つはロアニス王子との仲を深めることだ。この時はまだ婚約の事実を公にしていなかったからね。国王陛下同士で取り決めた政略結婚で、王女もロアニス王子も、この時初めて顔を合わせた。もう一つは薬の購入で――」


「感染症だろう? 王女の国はムルリア王国……だったか。熱帯病が発生して、その薬が必要だった」


「特効薬となる材料は北方にしか生えない植物だから、南国のムルリアでは作れず、購入するしかない。王女にはそんな使命もあった」


 ここまでは俺も何となく把握している。その後だ。その後、王女の身に一体何があったのか……。


「宮殿での滞在は当初、一ヶ月を予定していたらしい。でも感染症の広がりが早いという情報を聞いて、王女は薬だけを送るつもりだった船に自分も乗り、滞在予定を切り上げて帰国した。評判では、ナディネ王女は心優しい女性だったようだ。苦しんでいる国民を放って、宮殿でお茶など飲んでいられなかったのだろうね」


 この話に、俺はエメリーが看病してくれた時の姿を思い出した。喉は乾いていないかと聞き、血の染みたガーゼを取り替えてくれたり……。あのかいがいしさは元から持ち合わせているものだったのだ。苦しむ者を放っておかず、寄り添う優しさ――記憶を失っていても、エメリーは何も変わっていない。


「でも、帰国を急いだのが仇となった。王女と薬を乗せた船はその途中、嵐に遭い、船は積み荷、船員と共に沈み、王女も行方が知れなくなってしまった」


「嵐……そうか……」


 俺は合点が行った。エメリーを苦しめ、怖がらせるあの夢は、ただの悪夢ではなかった。脳裏に体験として残った、実際の出来事だったのだ。雨や海を見ると不安を感じるというのも、難破した船から放り出され、荒れる海を必死に泳ぐしかなかった恐怖から来ているのだろう。エメリーはきっと、その恐怖に耐えられなかったのだ。もしくは死に直面するほどの状況がその身に起こっていたのかもしれない。自分を守るために、頭はそれまでの記憶をすべて消去した。恐怖から遠ざけるために……。それがおそらく、エメリーを記憶喪失にさせた理由だ。


「そのほぼ同時期、王女のムルリア王国では反乱が起きていた。それは知っているね?」


「ああ。今はその反乱勢力が王国を仕切っているからな」


「もともとムルリアの国王は強権的な政治をしていて、自分の意思を強引に推し進める傾向があった。臣下の助言は無視され、国民の声となれば耳にも届かない状況だったようだ。それが長年続いていて、仕える者達は少なからず不満を溜めていた。しかし、感染症がきっかけとなり、薬が手に入らない国民はその不満を爆発させた。王国側は間もなく行き渡ると落ち着かせようとしたみたいだが、薬を積んだ船は嵐で海の底だ。待てど暮らせど手に入らず、感染症も広がるばかりで、国民は限界を迎えた。怒りが国王を始めとする王族に向けられているのを機と見た城内の臣下達は、密かに結託して反乱を起こし、国王を玉座から引きずり下ろした。国王、王妃は処刑。王子、王女も、確認は取れていないが、おそらく処刑されているだろうね。他の王族は他国へ逃げたとか幽閉されたとか聞いている。何にせよ、国王一族はことごとく排除されたわけだ」


 ふう、と一息入れたリントンは、首を傾けて俺に聞いてきた。


「現在のムルリアの状況は知っているか?」


「かなり不安定だ。反乱は成功させたものの、指揮をとれる人物がいないのか、内政も外交も傍から見ていておぼつかないのがわかる」


「以前より治安は悪化し、感染症も薬は入手できたようだが、終息に向かっているとは言えない。さらには近隣諸国も動き出している。ムルリアは南国の中では農業に秀でた国だ。その理由は農作に向いた土地と受け継がれた技術が挙げられる。限られた作物しか作れない他国にしてみれば、ムルリアのそれはかなり魅力的なのだろう。不安定なことに乗じて、国境付近では小競り合いが頻繁に起きているようだ。感染症のような大きなきっかけがまた起これば、あちらではムルリアを巡る戦争が確実に起こるだろうね」


「ムルリアが持ち直す気配はないのか」


 リントンは静かに首を横に振った。


「ないね。反乱は半ば不満の感情に流されて起こしたようなものだ。そこに成功後の計画はほとんどなかった。今の状況がその証拠だ。これから誰かが指揮を執ろうにも、近隣諸国がそれを許さないだろう。ムルリアにはすでに、見えない火種がいくつもばらまかれてしまっている。それが燃え上がるかどうかは、ムルリアの意思ではどうにもできない段階にまで来ている」


 戦争は、避けられない状況なのか……。


「……国王陛下は? 陛下は何かなさるおつもりはないのか。まったく関係のない国ではないのだし」


「お前もわかっているだろう。国王陛下は他国の争いにご関心はない。あるのは民を豊かにする経済のみだ。そのために農業国のムルリアとの政略結婚を受け入れたのだから」


 陛下が争いごとを好まれないのは俺も知っている。民を潤すことこそが王国の繁栄につながるのだと、そんな持論をお持ちなのも。現に我が王国は北方諸国では大国と呼ばれるほど豊かな王国だ。それもひとえに陛下が争いを避けてきたおかげなのだろう。だが、しかし――


「政略結婚とは言え、王子の婚約者の国だ。陰から助けることもできるのでは……」


 そう言うと、リントンは冷めた眼差しで俺を見てきた。


「言っておくが、王女の船が沈んだと知らされた時点で、ロアニス王子との婚約は解消されている。さらに言えば、ムルリアで反乱が起こる前から陛下は婚約を考え直されるおつもりだったようだ。あちらの情勢があまりに不穏で、我が王国によからぬ影響をもたらすのではと警戒なさっていたらしい。そしてそのお考えは正しかった。反乱勢力が実権を握ったことで、ムルリアには一気にきな臭さが充満してしまった。もしその時点で婚約を続けていたら、逃げてきた王族に頼られ、反乱勢力の打倒を頼まれていたかもしれない。それは国王陛下が一番避けたいことで、進んではいけない道でもある。争いに巻き込まれることは絶対にあってはならない――そこで、私に任務が与えられた」


 リントンの口調が心なしか変わったように感じて、俺は黙ってその目を見つめた。向こうも目をそらさず、静かに口を開いた。


「ムルリアとの関係を完全に断つため、行方知れずのナディネ王女を見つけ、暗殺するよう命じられている」


「あ……暗殺、って……」


 陛下は、エメリーを殺すつもり、なのか……!


「こちらから婚約をすんなり解消できたのは嵐のおかげだ。船は沈み、王女も海へ消えた。当然、誰もが王女は死んでいると思っている。だが国王陛下は遺体が確認されていない状況に万一があってはならないと、私に捜索と暗殺をご命じになられた。これが二年前の話だ」


 エメリーがこの島に、記憶をなくしてたどり着いたのが、二年前……。


「捜し、回ったのか?」


「沿岸地域はすべてね。住民に海から流れ着いた人間はいないかと聞いて回った。この島にも来たのだが……お前のボスのゼルバス一味を見逃していたらしい。まあ、私も任務とは言え、当時は王女が生きている可能性は限りなく低いと考えていたからね。他に生存者でもいればもっと長く捜していたかもしれないが……今となっては言い訳にしか過ぎない。別の任務を与えられたことで、私は王女を死亡したものと判断し、捜索を終わらせた」


 足を組み替えたリントンは、小さな溜息を吐いた。


「……しかし、二年が経って、まさかその王女の生存を確認するとはね。これは偶然の産物か、お前の手柄なのか……」


 リントンとしてはそう思えるだろうが、俺はこんなことになるとは想像もしていなかった。エメリーが、命を狙われていたなんて……。


「彼女を、殺すのか?」


「見つけた以上はそうなる」


「だが二年前の任務だ。お前は王女死亡で完了したんじゃないのか?」


「形としてはね。しかし死んだ証拠を示せなかったことは私もずっと引っ掛かっていてね。判断はしたものの、死亡の証拠捜索は続けると報告書に書いたのだ。だから諜報部の私の部屋には今も王女の似顔絵が貼られている」


 似顔絵……そうか。俺が諜報部内でエメリーを見た気がしていたのはこれだったのだ。誰なのか意識して見ることはなかったが、おそらく、リントンの仕事部屋に用事で立ち寄った時などに、その光景の一部として記憶がぼんやりと残っていたのだろう。そして、似顔絵もリントンのことも弾かれ、エメリーによく似た顔を見た記憶として書き換えられ、今に至ったのだ。彼女が、暗殺対象だと知りもせず……。


「今回、お前がビオンを通じて王女の特徴を伝えてくれたことで、私はそれを本人だと確信し、すぐに部長にうかがいを立てた。その結果、再度の任務を受けている。お前の仕事場と重なってしまうが、あそこにたむろしているのは軍の兵士ではないし、そう難しいものではない。明日中には終わらせ――」


「待ってくれ」


 俺は淡々と話すリントンを慌てて止めた。


「……何だ」


 リントンは真っすぐ俺を見てくる。


「それは、困る。エメ……ナディネ王女はゼルバスが大事にしている女なんだ。いきなりそんな人間が殺されては、ゼルバスがどう動くかわからない。そうなればこちらの任務に影響が出る」


「ふむ、それもそうだね……」


 しばし思案する素振りを見せると、リントンは聞いてきた。


「じゃあ、お前の仕事はいつ終えられそうだ」


「いつとは、断言できないが……」


「確か半年近くこの任務を続けているのだったか。終えるめどくらいは付けているのだろう?」


「付けたところで、目的の密造場所を見つけられなければ、日にちはどんどん延びるだけだ」


「まだ見つけられそうにないのか?」


 俺は何も答えなかった。これにリントンは一度天井を仰ぐと、視線を俺に戻して言った。


「それでは仕方ないね……そちらの仕事が終わるまで、私は待つしかないようだ。でもできることなら急いでほしい。本土ならともかく、ここは島だ。別の任務を下された場合、並行して果たすこともできないのでね。その間、私は暇だ。もし助けが必要なら力を貸してもいいが?」


「結構だ」


 俺は即答した。


「……何をつんけんしている? 何か気に入らないことでもあったか」


 そう指摘されて、俺は自分が不機嫌になっていることに気付かされた。


「悪い。疲れているんだ。きっと……」


 疲労で機嫌が悪いのではないとわかっていたが、俺はそうごまかした。


「じゃあ私は帰ったほうがよさそうだね。そちらの任務のためにも」


 リントンは椅子から立ち上がると、玄関へ向かう。


「そのうち、また様子を見に来させてもらう。ゆっくり休んでくれ。……パン、ごちそうさま」


 扉を開け、リントンは夜の闇に消えていった。外の階段を下る足音が遠ざかり、聞こえなくなったのを確認すると、俺の体からは一気に力が抜けたようだった。ふらふらとベッドに歩み寄り、吸い込まれるように腰を下ろす。手を組み合わせ、色あせた床を見下ろしながら、俺は自分の中の動揺と焦りを強く感じた。


 理由は明白だ。エメリーはムルリアの王女だった……しかしそれは驚くべき事実でも、俺の中ではもはや大したことではなくなっている。何よりも、そのエメリーが暗殺対象になっていることが、俺の心をひどく動揺させ、焦らせているのだ。しかもその命令を受けているのは同じ諜報部の同僚――つまり、エメリーを守ろうとすれば、俺は身内を敵に回すことになってしまう。そんなこと、もちろん望むはずがない。だがリントンの行動に黙っていれば、エメリーは確実に殺されてしまう。俺は、それを眺めていられるほど神経は図太くないし、彼女を愛してしまった以上、冷酷にもなれない。助けない選択肢など、俺には考えられないものだ。


 だが現実として、リントン、ひいては諜報部を相手に、俺独りで何かできるとは思えない。エメリーを助けた瞬間から俺は任務を妨害した者として追われ、捕まれば最悪、死罪もあり得るだろう。何せ国王陛下が命じられた任務を妨害するのだ。王国に背いたと見る者がいてもおかしくはない。反逆行為は重罪だ。監獄から出られる可能性はまずない。だが、そうなる覚悟もしなければ、エメリーを守ることなどできない。この身がどうなろうと、彼女さえ無事ならば……しかし、俺が捕まったらエメリーは、やはり……。


 額をわしづかみながら俺は考え直した。焦るな。冷静になれ。リントンは俺の仕事が終わるまでは待つと言っていた。時間はまだあるんだ。それにエメリーの記憶も戻ってはいない。彼女から動き出すこともまだないんだ。ゆっくり考えればいい。焦ることはない――ベッドに倒れ込んだ俺は、頭の中をぐるぐる回る自分の言葉をさえぎって、静かにまぶたを閉じた。

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