九話

「……どうかしら?」


 横笛で一節吹いて見せたエメリーは俺に聞いてきた。


「時々、小さく濁った音が混ざりますが、気になるほどじゃないですから、大丈夫だと思いますよ」


「そう? 本当に? アリオンが言うなら、買い替えなくてもいいかしら」


 手元の横笛をじっと見つめながら、エメリーは安堵の表情で言った。


 三日が経ち、修理を終えた笛を取りに行った俺達は、その帰りに例の丘へ立ち寄り、早速試し吹きをしていた。横一直線に入っていたひびは見事直され、一見すれば壊れる前の状態に戻っているようだった。しかし音を聞いてみると、鳥の声のような中に若干雑音が混ざっていて、修理職人が言っていたように、元の音色にまでは戻せなかったようだ。それでも以前の澄んだ音には近く、聞いていて不快に感じるほどではない。エメリーは練習のために吹くのであって、音楽の評論家に聞かせるのではないのだから、この程度の雑音なら吹き続けても大丈夫だと俺は判断した。


「ここなら気兼ねなく練習ができます。思う存分練習してください」


「気兼ねなく? じゃあアリオンはあたしの笛の音に文句は言わないのね?」


「もちろん。めちゃくちゃな旋律でなければの話ですが」


 これにエメリーはふっと笑う。


「わからないわよ。しばらく吹いてなかったから、ひどいことになってるかも」


「今の音色を聞く限り、下手になったとは思えません」


「じゃあ、確かめてみて。その耳で」


 そう言うとエメリーは横笛を構え、そこに赤い唇を近付ける。そして静かに息を吸い込むと、伸びやかな音を奏で始めた。丘の周囲から上空へと、見えない波紋が立ち上がっていくようだ。耳から体の奥へ、心地いい音の振動が伝わっていく。その揺らぐ音色は、旋律を細やかに作り上げ、異国情緒のある音楽の世界をしっかりと表現している。どこにも下手という要素は感じられない。彼女は本当に横笛奏者なのかもしれないな……。


 集中して聞いていると、その音がふと途切れてやんだ。口元から笛を離したエメリーは俺に微笑んで言った。


「吹けるのはここまで。どう? 前よりひどかった?」


「全然。綺麗な演奏でした。最後まで聞いていたいくらいに」


「そう言ってくれるなんて、嬉しいわ。あたしもできれば最後まで吹きたいんだけど、憶えてるのは途中までだから……」


 そうか。確かこの曲は最後まで知らない上に、曲名も知らないのだったか。記憶にはないが、笛を通して体が憶えていることの一つなのだろう。


「他に憶えている曲はないのですか?」


「あったらとっくに吹いてるわ。あたしが吹けるのは、この中途半端に知ってる曲だけ。だからアリオンに楽譜が欲しいって頼んだんだけど……そう言えば、その楽譜はどう? 手に入りそう?」


「いろいろ探してはみたんですが、街の店ではどこにも……」


 笛の修理が終わる三日の間にも、俺は時間を見て街へ楽譜を探しに行っていたのだが、置いてありそうな店をすべて見て回っても、楽譜はどこにも売っていなかった。やはりこの島には楽譜など入ってきていないのだろう。


「楽譜ってどこでも売ってるものじゃないのね。残念だわ……」


 エメリーは言葉通りの表情を浮かべ、小さな溜息を吐いた。


「どこへ行けば手に入るかしら」


「そうですね……本土へ行くか、あとは船便で取り寄せるとか……」


「あの人の目がある限り、本土へなんか行けないわ。取り寄せも、楽譜を売ってる店を知らないし、それを送ってくれる知り合いもいないんじゃどうしようもないわね」


 俺とエメリーは揃って考えあぐねていた。お互い、思い立って即行動ができるほど自由の身ではない。エメリーにはやつが、俺には部下の立場と任務がある。できることなら今すぐ本土へ行き、楽譜を持って彼女に手渡し、満面の笑みで喜んでもらいたいが、現実はそうもいかない。


「音楽そのものに詳しい者でもいれば、楽譜を書いてくれたりしたのでしょうが……」


 あいにく、そういう人間を俺は知らない。館には絶対にいないだろうし、今度街で聞き込んでみようか。


「ああっ!」


 突然、エメリーの大声が響き渡って、俺はぎょっとして目を向けた。


「……どうしました?」


 何か起きたのかと声をかけると、エメリーはらんらんとした目でこちらを見据えてきた。


「思い付いたのよ。楽譜を手に入れる方法を」


「本当ですか。それは、どんな……?」


 息を呑んで見つめる俺に、エメリーは笑顔で言った。


「楽団よ! いろんな音楽を演奏する彼らなら、楽譜は必需品でしょう? 絶対に持ってるはずよ!」


 俺は内心で思わず感嘆した。なるほど。その通りだ。毎日演奏する楽団の人間なら、楽譜など当然持っているに違いない。万が一なかったとしても、音楽を演奏し続けていれば、楽譜の一枚くらい書くことはできるかもしれない。


「よく思い付きましたね。さすがです」


「アリオンの言葉のおかげよ。音楽に詳しい者って聞いて、ふと思い付いたの。館で宴を開く時に楽団が来て演奏してたことを。彼らからどんな音楽でもいいから、楽譜を買い取ることはできないかしら」


「楽団は普段、酒場で演奏しているんですよね。じゃあ今夜、俺が会いに行ってきます」


「ええ、お願いするわ。楽しみに待ってるから」


 期待の眼差しを受けた俺は、ようやく見えた楽譜入手の道筋に、密かにやる気をみなぎらせた。


 それから館へ戻った俺は、エメリーの世話係としての仕事をこなし、日が暮れかけた夕方、彼女の計らいでいつもより早い時間に仕事を切り上げ、その足で街の酒場へと向かった。


 薄暗い通りを、窓から漏れる煌々とした明かりが照らしている。島で一番大きい酒場には、まだ日が落ち切っていない時間にもかかわらず、すでに多くの客でにぎわっているようだった。一歩中に入ると、島の住人や水夫と見られる男性達が笑い混じりに会話を楽しんでいる。この時間帯では、まだ赤ら顔の客はおらず、酔っ払ってふらつく者もいないようだ。皆、正常な酒を飲んでいる。今のところは。


 客で埋まった席を縫いながら、俺は店の奥へと向かう。そこには楽団用の小さな舞台があり、その上では四人の演奏者がそれぞれの楽器の準備をしていた。間もなく演奏を始めるようだ。聞くなら今か――俺は舞台に近付き、楽団の四人に声をかけた。


「少しいいか」


 これに一番手前にいた口ひげの男性が俺をじろりと見てきた。


「準備中で忙しいんだ」


「すぐに終わる。頼みたいことがあるのだが――」


「後にしろ」


「いいじゃない。聞いてあげましょうよ」


 隣にいたそばかす顔の女性が横から言った。


「何? 頼みたいことって。あ、手短にお願いね」


 女性は弦楽器の調律をしながら俺をちらちらと見てくる。


「もし持っていれば、楽譜を譲ってもらいたいのだが」


 そう言うと、四人は一瞬準備の手を止め、俺を丸い目で見た。


「楽譜だと? そんなものが何で要る」


 口ひげの男性が怪訝そうに聞いてくる。


「ある人に頼まれたのだが、この島では手に入らないようでね。もちろん、謝礼はする」


「謝礼ったってなあ、楽譜は俺達の商売道具でもあるんだ。金を払うと言われても……」


「笛で吹けそうな楽譜だけでいい。どうか頼む」


「笛? 僕の楽譜が欲しいってことかい?」


 端に立つ若い男性が驚いた声で言った。その手には年季の入った縦笛が握られている。


「一曲分の楽譜でいいんだ。譲ってくれないか」


 縦笛の若者は難しい表情を浮かべている。


「譲ってあげたいのはやまやまだけど、まだ暗譜してない箇所があるし、それにこの笛と楽譜は先生から貰った大事なものだからなあ……」


 完全な拒否ではない。謝礼を増やしてもう少し押せばうなずいてくれるかも――そう思い、再び口を開こうとした時だった。


「おいコスタス、早く音楽を鳴らしてくれないか。客が待ってる」


 注文の酒を注ぎながら、この酒場の店主らしき男性が楽団に向かって言った。


「わかってる。今やるよ。……こっちは今から仕事なんだ。話をするならまた後でな。ほらどいたどいた」


 口ひげの男性に追い払われた俺は、仕方なく舞台から離れた。準備を終えた四人はそれぞれの楽器を構え、息を合わせて演奏を始めた。酒場によく合う陽気で明るい旋律が客達の足と心を自然に踊らせていく。男女で手を取り、酒場の一画は舞踏場に変わっていった。そんな光景を俺はカウンター席の隅に座って眺めるしかなかった。


「あんた、注文は?」


 カウンターの向こうから店主が聞いてきた。


「飲みに来たわけではないんだ。用があってね」


「そうかい。じゃあその用とやらを早く済ませて注文してくれ。ここは酒を飲むところなんでな」


 金を落とさない俺を迷惑そうに見ながら店主は遠ざかっていった。俺もできれば飲んでいきたいが、一応今も仕事中だからな。


 楽団による演奏は一時間以上続いた。曲と曲の間に短い休憩を挟むものの、俺と話をするほどの時間はなく、四人はまたすぐに次の音楽を演奏し始めてしまう。そんなことを幾度か繰り返し、気付けば周りに酔客がちらほら現れ始める時間帯となっていた。窓の外は何も見えない暗闇に変わっていたが、酒場内は皆を踊らせる音楽もあってか、より騒がしく盛り上がっていた。ほろ酔いの街の女性に踊りを誘われるのを断りながら、俺は楽団の音楽がやむのを辛抱強く待ち続けた。そして、ここに来てどのくらいが経ったのか、響き続けていた音楽はようやく鳴りやんだ。


 騒ぎ疲れたのか、もう踊る客はいなかった。代わりに机で突っ伏す者や、コップ片手に千鳥足で歩き回る者が増えただろうか。彼らが音楽に耳を傾けているとは思えない。そう見て楽団も演奏を休止したのかもしれない。さて、やっと交渉を再開できるか――俺は座り疲れた腰を上げ、舞台へ歩み寄った。


「……何だ、お前まだいたのか」


 口ひげの男性は太鼓を床に置きながら驚いた目で俺を見てきた。


「まだ用は済んでいないからな。今なら話はできるな」


「しつこい男だな……アキレウス、どうするんだ。こいつが欲しがってるのはお前の楽譜なんだろ」


 水を飲んでいた縦笛奏者の若者は、先ほどと同じように難しい表情で言った。


「あげるっていうのは、ちょっとなあ……」


「謝礼を増やす。どうだ、譲ってくれないか」


「増やすと言われても……うーん……」


「あのさ、譲る必要はないんじゃない?」


 横からそばかす顔の女性が入ってきて言った。


「大事なものを他人に譲るなってことか?」


「違う違う。そういうことじゃなくて、この人は笛の楽譜が欲しいわけで、アキレウスの楽譜そのものが欲しいんじゃないんでしょ? だったらさ、楽譜を写させてあげたら?」


 俺と若者は目から鱗が落ちたように、同じ顔になっていた。


「そりゃいい方法だ。それなら僕も先生の楽譜を手放さずに済む」


「写させてもらえるか」


「ああ、いいよ。好きなだけ写してくれ」


「紙とインクとペンは私が持ってるから、貸してあげるわ。ちょっと待ってて」


 舞台袖に消えた女性は、しばらくして戻ってくると、両手に持った筆記用具を俺に手渡した。


「紙はこれで足りると思うけど……私達はこの後も演奏があるから、その間に写し終えてくれると助かるわ」


「わかった。本当にありがとう。謝礼は――」


「いいよ。あげたんじゃないし、珍しい楽譜ってわけでもないからね。せいぜい頑張って写してくれ」


 借りたものを手に、俺はカウンター席へ戻ると、そこで早速写譜を始めた。楽譜に書いてあるものが音階を示すものだということはわかるが、どれがどんな音なのかはさっぱりわからない。他にも文字やら記号やらが細かく書かれているが……とにかく、位置も形も、そっくりそのまま書き写すしかない。エメリーに間違った音を奏でさせるわけにはいかないからな……。


 元の楽譜と睨み合いながら、俺は一心不乱に写していった。楽団が演奏を始めていたことにも気付かず、人生初めての写譜という作業に没頭した。正直、上手く書けているのかがわからない。正確に写しているつもりだが、音楽に詳しくない俺は余計に神経を使うし、出来も不安だ。これなら長文を書き写すほうがよっぽど楽かもしれない。


 紙四枚分の楽譜を写し終えた頃には、酒場の騒がしさも落ち着いていた。女性客は皆帰ったようで、残っているのは酔った男性ばかりだ。誰も聞いていそうにないが、それでも楽団は演奏を続けている。まあ、それが彼らの仕事だからな。俺はペンを握り続けていた右手に重い疲労を感じながら演奏中の四人の元へ向かい、そっと楽譜を返した。


「……写し終えたの?」


 気付いた女性が弦楽器を爪弾きながら俺に言った。


「ああ。助かったよ」


「次はお酒を飲みながら私達の音楽を聞いてよね。待ってるわよ」


 片目を瞑って見せた女性に俺は笑顔で答え、彼らの音楽を背に酒場を後にした。


 街中の人影は数えるほどしか見当たらない。もっと早くに済む予定だったが、写譜にてこずりすぎたか。しかし、まだ日付は変わっていないはずだ。エメリーが起きているといいが――喜んでくれることを想像しながら、俺は暗い道を館へ向かって歩いた。


 夜番の部下達に見られながら館に入った俺は、二階のエメリーの部屋へ向かう前に、廊下を歩いていた部下に声をかけた。


「あの、ボスはもう休みましたか?」


「ボス? 一時間くらい前に本命の部屋にいたけど……女の怒鳴る声が聞こえないから、もう自室に戻ったんだろ」


 今日もゼルバスはエメリーと強引に酒を飲んだようだ。やつがすでに部屋に戻っているなら、楽譜は渡せそうだな。寝ていなければだが――俺は二階へ上がると、彼女の部屋の前に立ち、静まり返った中でその扉を軽く叩いた。


「……起きていますか。渡したいものが……」


 小さな声で呼びかけ、再び扉を叩く。が、中から反応はない。もう寝てしまったようだ。ゼルバスに付き合わされて疲れたのかもしれない。また明日に出直すか……。


「……?」


 踵を返そうとした時、部屋から何か聞こえた気がして、俺は足を止めた。こちらに気付いて起きたのだろうか――そう思って俺は扉越しにまた声をかけてみた。


「起きましたか? 俺です……」


 反応を待つが、何もなかった。おかしいな。何か聞こえたと思ったのだが……。俺は廊下に誰もいないのを確認してから、扉に身を寄せ、そこに耳を当ててみた。


「――うう――ううん――」


 引き絞るような、随分と苦しげな声のようなものが聞こえる――うめき声か?


「どうしました? 大丈夫ですか?」


 聞いてみるが、うめき声は途絶えず、扉が開く気配もない。……まさか、ゼルバスに何かひどいことでもされて、苦しんでいるわけではないだろうな。動けないほど傷付けられたとか――そんなことを考え始めたら、俺はいても立ってもいられなくなった。エメリーが無事なのかどうか、一目確認しておかないと帰れない。


「開けてください。動けますか?」


 少し声量を上げて呼びかけてみるが、やはり反応がない。一刻を争う事態だったらまずいぞ――俺は扉の取っ手を握り、勢いよく押し開けるつもりで力を込めた。だが、意外にも扉はわずかな力で開いた。どうやら鍵はかかっていなかったようだ。手間が省けた。


「……入りますよ」


 一言断っても、部屋の奥からはうめき声しか聞こえてこない。俺は明かりのない暗い中へ踏み込むと、その声のするベッドのほうへ進んだ。


「ううん……はああ……」


 そこには、寝巻姿のエメリーが細い手足を投げ出して横たわっている姿があった。目は閉じられ、眠っているようではあるが、苦しそうな表情を浮かべながら首を左右に緩く振り続け、うめいている。体にかけられていたはずの毛布は、手や足で押し退けてしまったのか、ベッドから半分ずり落ちて何の役にも立っていなかった。……おそらく、悪夢を見ているのだ。


 俺は側の机に楽譜を置き、そこにあったろうそくに火を付けると、柔らかい明かりの中に浮かび上がったエメリーの顔をのぞき込み、声をかけた。


「起きてください。目を覚まして」


 しかしエメリーはうなされ続けている。もがくように首を振る顔には、玉の汗が滲んでいた。相当苦しんでいる。これは無理にでも起こしてやらないと――俺はエメリーの両肩をつかみ、揺り動かした。


「起きて。悪夢から覚めるんだ」


 頭はがくがくと揺れるが、歪んだ表情とその目は夢を見続けている。手強い悪夢め……それならもっと力尽くで!


「目を開けろエメリー!」


 大声で呼び、俺は彼女の上半身を抱えるように強く揺らした。


「ああ、う、ん……」


 すると、俺の腕の中でやっとその目が薄く開いた。よく見れば、黒い瞳と長いまつげは潤んで濡れていた。それほど怖い夢だったのだろう。しばらくぼんやりとこちらを見上げていたエメリーだったが、意識がはっきりしてくると、濡れた目は驚きに見開いた。


「……アリオン?」


 なぜここに? という眼差しを受けて俺は答えた。


「勝手に部屋に入ってすみません。うなされた声が聞こえたもので、心配になって……。あと、あなたに渡し――」


 机に置いた楽譜に手を伸ばそうとした時、俺の胸にエメリーがふわりと抱き付いてきて、今度は俺が驚いた。


「………」


 どうすべきかわからず、言葉も出ない。俺はただ黙って彼女の体温を感じ続けた。すると、俺の胸に顔を埋めたまま、エメリーは言った。


「また、あの嵐の夢を見てたの。これを見るたび、もうあたしは死ぬんだって、毎回恐怖を感じさせられる……夢でもあたしは、独りなの。でも、今日は違った。アリオン……あなたの声が聞こえたわ。海で溺れる悪夢からあたしを助けようとする声……そのおかげで、初めてこの夢で希望を見たわ。助けてくれる人が……アリオンがいるんだってわかって……」


 ゆっくりと顔を上げたエメリーは、微笑みを浮かべて俺を見つめる。


「すごく、心強いの。あなたが側にいてくれるだけで、あたしは……あたしは……」


「あなたにそう言ってもらえるだけで光栄です。とても……」


 彼女の息遣いが聞こえる。まばたきをする音すら聞こえてきそうだ……そんな近い距離で俺はエメリーを見つめている。お互いの感情が、手に取るようにわかってしまうくらい……。


「あたしに、他人行儀な言葉は使わないで。エメリーと、普通に呼んでほしい……」


 はにかんだ表情が俺に言った。普段は見ることのないその顔に、俺は自然と目を奪われていた。


「夢から覚ましてくれたみたいに、呼んでほしい……」


 まなじりに残る涙の跡が、ろうそくの明かりで光を放っていた。小さな宝石をちりばめたような瞳の輝きは美しく、どれだけ見ていても飽きそうにない。いつまでも見ていたい――溜息が漏れそうな心地で、俺は言った。


「エメリーという名前より、俺は、あなたの本当の名前を呼びたい」


 本当の名前、生まれ故郷、好物や苦手なもの――彼女のあらゆるものを、俺は知りたがっている。


「あたしも、できればアリオンに本当の名前を呼んでほしい。記憶が戻った、本当のあたしを……」


 まるで、時が止まったようだった。抱き合い、見つめ合い、静止した無音の空間にただ二人きりでいるような感じた。左手を動かすと、そこには背中を流れるエメリーのしなやかな黒髪の感触がある。優しく撫でると、俺を見つめるエメリーはわずかに表情をほころばせた。なぜこんなにも愛おしく感じるのだろう――そう自問しながら、俺はすでに答えをわかっていた。彼女に、心を奪われてしまったのだ。間近で接するうちに、どうしようもなく愛してしまった。これが片想いや報われない恋なら、俺はさっさとこの部屋を出ただろう。だが、こうして見つめ合うお互いは、共に相手が何を望んでいるのかを知っている。そして引き合うように、お互いが求めるものも……。


 感情のままに、彼女をさらに抱き寄せられたらどれほど幸せなことか。だが俺は理性に動きを止められた。任務中に恋愛にかまけている場合ではないと、もう一人の自分が引き止めてくる。エメリーはゼルバスの女なのだ。気を取られすぎては任務に支障をもたらすことだってあり得る。後ろ髪を引かれる思いでも、今は、彼女を抱くこの手を離さなければならない。心が抵抗しようとも……。


「あなたの記憶が戻るなら、俺はできる限り力になります。その時は、世話係の俺に何でも言ってください」


 そう言って俺はエメリーからゆっくりと身を離した。俺は彼女の男ではない。世話係なのだ。その役目を果たすことが任務遂行に結び付く……。


 一瞬、困惑の目で俺を見たエメリーだったが、その顔はすぐに微笑みを見せた。


「……ええ。そうするわ、アリオン」


 俺は机の楽譜を示して言った。


「それから、楽譜を持ってきました。明日にでも、あの丘へ行って練習しましょう」


「手に入ったのね。ありがとう。明日が楽しみ」


 エメリーはにこりと笑った。


「じゃあ、俺は行きます。また明日に……」


 触れて見つめ合った余韻を引きずり、俺は扉へ向かう。


「待って、アリオン」


 呼び止められ、俺は振り返った。


「……何か?」


 うつむいたエメリーはもじもじしながら、小さな声で言った。


「また、あの夢を見たくないの。だから……あたしがちゃんと眠るまで、側に……いてくれないかしら……?」


 俺は思わず笑っていた。幽霊を怖がる子供のような頼みごとに呆れつつも、俺の心は愛しさで満ち溢れる。これが、惚れてしまった弱みなのかもしれないな。


「わかりました。眠るまで、側に付いています。だから安心してください」


 ベッドに戻り、俺はその端に腰をかけた。横たわったエメリーに毛布をかけてやり、眠りにつくその顔を見つめた。明かりに照らされた褐色の肌に汗はもう見えない。


「俺は、ここにいます……」


 新たな夢が悪夢に変わらないよう、彼女の無意識に声を届けるつもりで呟いた時、ベッドに置いていた右手に温かい何かが触れてきた。ふと見れば、それはエメリーの細い指だった。毛布の下から伸ばされた手は、控え目にその指だけを俺の手の甲に触れさせている。


「しばらくこうさせて。落ち付くの……」


 目を閉じたままだったが、エメリーはそう言って微笑んだ。これで安眠できるのなら、好きなだけどうぞ――胸の中でそう返事をし、俺は彼女を見守り続けた。それから一時間も経たないうちにエメリーは平穏な熟睡に入り、それを確認した俺はろうそくの火を消して、そっと館を後にした。


 我が家へ帰り着いたのは、空が白み始める前の深夜だった。月明かりが差し込むだけの薄暗い部屋に入ると、気が緩んだせいか空腹を感じ始めた。そう言えば、街へ行った夕方から何も口にしていなかったな。何か買ってあるものはあっただろうか……。


 机の上に視線を移しかけて、俺はふと窓を見た。……そうだ。食べて眠くなる前に鳩小屋を見ておくか。帰ってきたら本部から手紙が届いていないかを確認するのがここでの日課で、働いてくれる鳩に餌もやらなければならない。


 引き出しにしまっていた餌を持ち、俺はベランダに出た。すると、正方形の鳩小屋の上に一羽の鳩が留まっていた。その足には金具で手紙が付けられている。本部からだ。


 餌やりは後にし、俺はその鳩から金具を取り、小さな手紙を広げて読んだ。


『そちらにからくり人形を送る 説明書をしっかり読むように』


 文章の最後には頭文字が書かれており、それでこの手紙がビオンの送ったものだとわかった。つまりこれは、以前エメリーについて調べてくれると言った件の報告なわけだが、彼女については何一つ書かれていない。からくり人形というのは諜報部内での暗号で、諜報員、中でも暗殺などを担当する者を指す暗号の一つだ。それを送るということは、暗殺担当の諜報員がこちらへ来るということ……どういうことだ? 事情がさっぱりわからないが。


 さらに、説明書を読めというのは、人形を送るという暗号と合わせて読めば、こちらへ来る諜報員に詳しくは聞けという意味になる。ビオンはエメリーについて何かわかったわけだから、こうして手紙を送ってきたのだろうが……それにしても、なぜ諜報員を送る必要がある? しかも暗殺担当の諜報員などを。エメリーの失った記憶に、一体何があるというのか――俺の中に思いがけず生まれた不安は、エメリーを慕う気持ちを、わずかながら揺さぶっていた。

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