八話

 エメリーが介抱してくれたおかげもあって、俺は数日でベッドから出ることができた。傷はどうにか塞がりはしたが、まだ完全に治ったわけでなく、腹を中心に鈍い痛みは残っていたので、あとは自分の家で養生した。その間、エメリーの世話係として負担の少ない仕事をしながら回復に努め、半月が経った現在、ようやく走れる状態にまで戻ることができていた。ここまで治ればもう問題はないだろう。よほどの重労働でない限り、エメリーの世話に専念できる――ということで、俺は早速、街へ出かけた。目的はもちろん、エメリーの使いだ。紙に書いていたあの三つの頼みごとを済ませるべく、俺はそれらしい店を探して街中を歩いていく。


 この島唯一の街は決して大きくはないが、様々な国の船が立ち寄るせいか、他では見ないような個性的な商店が多く見られる。異国の食料、衣類店や、前を通るだけでむせるほどの香りを放つ香辛料専門店など、本土ではまず見られない商品がこの街には溢れている。だが俺が探しているのはそういった生活用品ではない。人の姿の多い街の中心からそれて、俺は一歩路地を入った通りを見て回った。


 普段、この辺りにはまったく用事がないので、こうして見て回るのは島に来て以来だ。街の建物の大半は石造りで、白や灰色の壁に囲まれた道が続く。坂の上などから街を眺めると、赤や青といった鮮やかな色の屋根が入り混ざり、壁の色に映えてなかなかの景色でもある。まあ、ここの観光情報はいいとして……記憶ではこの通りに本屋があったと思うのだが……。


 歩きながら探していると、頭上に四角い看板を見つけた。本とペンの絵の上に『パラマスの本屋』と書かれている。見つけた。ここだ。


 扉を押して中に入る。狭く薄暗い空間は少々カビ臭く、そこにインクの臭いが漂っている。奥にはカウンターがあり、ろうそくの明かりの向こうで中年の店主が睨むような目で俺をいちべつしてきた。無愛想な視線は無視し、俺は店内の棚に並ぶ本に目を移した。


 小さな店だが、品揃えは意外に豊富だ。小説、哲学書、心理学、レシピ本なんてものもある。郷土資料に動物図鑑……ふむ、なかなか興味深い。店主の趣味だろうか。他にもどんな本があるのか見てみたいが、目的を忘れるわけにはいかない。欲しいのは音楽家の伝記だ。無数の本の背表紙を流し見て、それらしきものを探した。


「……フュラルコス――音に彩られた軌跡……」


 聞き覚えのある名に、俺は本を手に取った。誰もが知っている音楽家ではないが、確か彼も歴史に残る作曲家だったと思う。俺は曲も出身地も知らないが。他に音楽家の伝記は見当たらず、一応中を確認してからこれを買うことにした。ちなみに、代金はゼルバスに付けておけばいいらしい。エメリーはもちろん、女達は皆それが当たり前なのだという。やつに群がるのもわかるな。


 次は楽譜か――そう思って俺ははたと気付く。楽譜はどこで売っているのだろうか。俺は本土でもここでも、楽譜が売られているのをまだ見たことがない。ただそういう店に訪れていないだけかもしれないが。少なくとも、この本屋には置いていない。となると、他に心当たりのある場所は思い付かないのだが……。


「あの、たずねたいのだが……」


 ゼルバスの名で付けた俺は、無愛想な店主に聞いてみた。


「楽譜はどこで手に入るだろうか?」


 店主はわずらわしそうな目をこちらに向けてくる。


「作曲者本人から買うか、それを扱う店へ行けばいいだろ」


 なるほど。本人か。だがここに音楽家などいるだろうか。


「この島で買える店は知っているか?」


「知らないね。他の店で扱ってるなんて、聞いたことない。楽譜なんざ大体、本土の金持ちにしか売れないもんだ。辺境の島に入ってくることはまずないよ」


「そうなのか……わかった。ありがとう」


 楽譜の売られている場所を知り、俺は本屋を出た。参ったな。どうやらこの島にはなさそうだ。エメリーは船に乗るようなことは頼まないと言っていたが、楽譜はそうしないと入手できそうにない。彼女も俺のように知らなかったのだろうか。


 しばらく入手方法を考えていたが、俺の頭に妙案は浮かばず、仕方なく楽譜のことは後回しにして、まずは笛の修理から済ませることにした。別の通りに、確か楽器を扱う店があったはずだ。そこで修理を引き受けてくれればいいのだが。


 俺は記憶をたどって楽器店を探し歩いた。五分ほど探して、その店は難なく見つけられた。中へ入ると、先ほどの本屋とは打って変わり、店内はたくさんの照明で明るく照らされていて、壁にはいくつもの弦楽器が吊るされ、その下には無造作に大小の打楽器が置かれている。見たことのあるものもあるが、明らかに異国の楽器とわかる、珍しいものも多くある。


「いらっしゃい! 何を探してるの?」


 結った頭に布を巻いた若い女性が笑顔で声をかけてきた。


「聞きたいのだが、ここでは笛を――」


「ああ、管楽器ならこっちよ。いろいろあるから好きなのを選んで」


 俺が言い終えないうちに、女性は笛の置かれた棚に案内しようと歩き出す。


「いや、俺は――」


「予算はいくら? 安いのでもそれなりにいい音が出るのもあるのよ。試しに吹いてみる?」


 女性は上機嫌に棚から小ぶりの笛を取ろうとする。……接客をするなら、人の話くらい聞いてほしいものだ。


「笛を買いに来たのではなくて、俺は修理を頼みに来たんだ」


「……修理?」


 手を止めた女性は目を丸くして俺を見た。


「そう。ここでは笛の修理をできるだろうか」


「なあんだ、お客さん、それならそうと早く言ってよ」


 女性は大口を開けて笑い出す。俺も一言目には言うつもりだったのだが。


「ちょっと待ってて。今呼ぶから」


 どうやら修理ができるらしい。一安心だ。女性は俺を置いて店の奥の部屋へ行くと、そこで大声を張り上げた。


「父さーん! 修理のお客さーん!」


 奥に父親がいるようだ。しかし、姿は現れない。


「すぐ来るから」


 戻ってきた女性はにこにこしながら言った。するとその言葉通り、奥の部屋から一人の男性がぬっと出てきた。


「……何だ、呼んだか」


 短髪にひげを生やした男性が、前掛け姿でこちらにやってくる。深いしわの刻まれた険しい表情、太い腕に筋張った手などを見ると、いかにも職人的な容姿だ。


「このお客さんが修理を頼みたいって」


「久々の客だな」


「そうよ。だからなまった仕事はしないでよ」


 父親の肩をぽんっと叩くと、娘は俺達から離れていった。


「……で、何を修理すればいい」


 太い腕を組んで男性は俺を見据えた。


「笛の修理を頼みたい」


「笛か。見せてみろ」


 片手を出した男性を見て、俺ははっとした。肝心の笛を持ってきていなかった……。仕事の合間に来たものだから、エメリーに会って笛を預かることをすっかり忘れていた。間抜けもいいところだな……。


「……今は手元にない。すぐに持ってくるから、待っていてもらえるか」


「笛の修理に来て、その笛を忘れたのか? おかしなやつだな。半分寝てたのか? ……まあいい。早く持って来い」


 楽器店を出た俺は慌てて館へ走り戻った。病み上がりの体ではまだ全力では走れず、暖かな太陽の日差しもあってか、妙な汗が噴き出てくる。任務に関わる失敗でなくてよかったと心底思う。


 三十分ほどかかって館に着いた俺は、すぐさまエメリーの部屋へ向かい、その扉を叩いた。


「……アリオン? どこに行ってたのよ」


 開いた扉の向こうから眉をしかめたエメリーの顔がのぞいた。


「話でもしようと思って、ずっと捜してたんだから」


 俺が身の回りの世話を粗方終える頃になると、最近の彼女は決まって俺に話し相手を求めてくるようになっていた。音楽の話はもちろんだが、日々の不満、特にゼルバスへの愚痴などを俺は黙って聞いている。あわよくば、酒の密造場所がわかる話が出ないかと注意しているのだが、残念ながらそれに関係した話は聞けていない。俺をアリオンと呼ぶようになったのも、話し相手を務めるようになった最近のことだ。


「すみません。じゃあ、これで喜んでもらえますか?」


 俺は手に入れた伝記をエメリーに差し出した。


「これは……まさか、音楽家の伝記? 街へ行ってたの?」


 驚いた目が俺を見つめてくる。


「楽譜はまだですが、笛の修理をできる人間は見つけました。なので、また街へ行って――」


「あたしも行くわ」


 えっ、と驚いた俺には構わず、エメリーは本を持って部屋の中へ戻った。


「わざわざ一緒に行かなくても、俺が――」


「これは大事にしてるものなの。ちゃんと修理できるのか、自分の目で確かめないと」


 こちらに背を向けていたエメリーは、壊れた笛を手に取ると、また扉のほうへ戻ってきた。


「さあ、行きましょう」


 外出する気満々の彼女を、俺は両手で制し、止めた。


「い、いいんですか? ボスに言っておいたほうが……」


「何で? あの人にあたしの行動をいちいち伝える義務はないわ。それに、一人で外へ行くなとは言われてるけど、二人で行くなとは言われてないもの。部下のあなたが一緒なんだから問題ないでしょう?」


「そうかもしれませんが……」


 目の敵にされている俺には、大いに問題があるのだが。世話係とはいえ、並んで外出する姿を見られたら、やつはどう思うか……。


「あの人が何か言ってきたら、すぐに言い返してやるんだから。ほら、行くわよ」


 俺の不安には気付かず、エメリーは廊下を歩いていく。これでゼルバスの嫉妬が向かなければいいのだが――制止を振り切られた俺は、仕方なくエメリーの後を付いていくしかなかった。


 館の門を出る時、警備で立つ部下は不審なものでも見るように俺達を凝視してきた。敷地の外へ出て行くエメリーなど見たことがないのだろう。俺だってそうだ。変な誤解をされないよう、一言説明を言い置いて、俺は門を出た。


 街に着いても俺達は奇異な目で見られた。俺というよりはエメリーのほうだが。ここでは珍しい褐色の肌がやはり注目を集めてしまうらしい。その上この美貌だ。振り向かない者などまずいないだろう。見られているエメリーも困惑を隠せないようだったので、俺は人気のない道を選び、楽器店へと案内した。


「……おう、来たか」


 入ると、修理担当の男性が待っていた。


「今度は随分な美人とのご来店だな。……直したいのはその笛か?」


 エメリーの持つ笛を見て、男性は貸してみろと分厚い手を出す。


「これ、直せるかしら」


 エメリーが手渡した笛を男性は真剣な表情でまじまじと見つめ始める。


「……これは異国で作られたものだな。どこで手に入れた」


「前に、旅の古物商から買ったの」


「古めかしいと思ったが、どうりで……」


「異国って言ったけど、どこだかわかるの?」


「形状や材質、木の彫り方からすると、南方の国で作られたものだろうな」


「南方……そうだったのね。だから吹きやすく感じたんだわ」


 南国人である自分の地域で作られた笛。だがそうとは知らずに吹いていたエメリーは、感覚的にその吹きやすさや相性を実感していたようだ。買い替えたくなかったのはそういうことも関係していたのかもしれない。


「それにしても大きなひびだな。癇癪でも起こして壁に叩き付けたか」


 笛には横に走るように、長いひびが入っている。確かに大きなひびだ。


「違うわ。酔っ払いに踏まれたのよ」


「それは災難だったな。……こう大きいと、完全に直すのは正直難しい。しかも年代物だからな。ひびを埋める材料を探してはみるが、元の音色に戻る保証はできない。それでもいいならやってみるが、どうする」


 聞かれたエメリーは不安そうな表情を一瞬浮かべたが、すぐに答えた。


「いいわ。お願いする。やってみて上手くいかなかったら、その時は諦めるわ」


「よし、わかった。じゃあそうだな……三日後にまた来てくれ。それくらいには終わらせておく」


「三日後ね。期待しすぎずに待ってるわ。アリオン、日が経ったらまた来ましょう」


 笑顔を見せながらエメリーは店を後にする。笛の受け取りにも一緒に来る気のようだ。まあ、本人がそうしたいのなら、俺は従うしかないが。ゼルバスに対する嫉妬の不安は彼女には関係のないことだ。外出自体は悪いことではないのだから。こちらの都合を押し付けるのはよくないな。あんな笑顔を見せられたら余計にそう思えてくる。


 楽器店を出て、俺達は街を離れた。館への道を黙々と歩いていたが、ふと気付くと、エメリーの足が遅れ、俺の背後をとぼとぼと歩いている。その表情はどこか浮かない。


「どうかしましたか」


 足を止めて聞くと、エメリーは視線を上げた。


「どうもしないけど……何か、戻りたくなくて」


 そう言った口の端には、力のないわずかな笑みが浮かぶ。一人での外出を禁じられていた彼女の気持ちは俺にも何となくわかる。こうして久しぶりに外の空気を吸って、まだまだ解放感に浸っていたいのだろう。館に戻ればまたゼルバスの相手をしなければならないのだ。そう思うと戻りたくないのもよくわかる。しかし、夜まで戻らないわけにもいかない。そんなことをすれば今度こそ俺は殺されるかもしれない。だが、心の一部ではそれに抵抗したい自分もいた。彼女を、エメリーをやつから引き離したい。もっと笑顔を見せてほしい――そんなことを、俺はいつから思うようになったのか。戻りたくないというエメリーを見ていると、口からは自然とこんな言葉が漏れていた。


「じゃあ、少し寄り道をしましょうか」


 部下という立場でできる、これがやつへのささやかな抵抗の限界だった。


「そうね。それもいいかも」


 エメリーの力のない笑みに、少しだけ明るさが戻った。


「あたし、誰の目もないところへ行きたい。街では嫌ってほど見られたから」


「そうですね……海沿いの道へ行きましょうか。きっと風が気持ちよくて――」


「海は! 海は、やめとくわ……」


 急に声を上げたエメリーは怯えたような目を向けて言ってきた。何だ? 突然様子が変わった。彼女は海が嫌いだっただろうか……。


「……あっ、あっちの丘へ行かない? 見晴らしがいいと思うし」


 海とは違う方向をエメリーは指差す。その先にはこんもりとした丘に点々と木々が立つ景色がある。確かに見晴らしはよさそうだ。


「わかりました。じゃあ、あの丘へ行きましょう」


 俺達は緑の丘を目指して歩いていった。


 ほどなくして着いた丘の上からは、予想通りいい景色が眺められた。鮮やかな屋根が並ぶ街並みから、地平線まで続く真っ青な海原まで、四方にそれぞれ美しい景色があった。視線を落とすと、木立越しに館の屋根が見えたが、エメリーは当然そんなものは見ていない。だが街や海を見ているわけでもない。両手を広げ、深呼吸をしながら、綿のような雲が漂う水色の空を見上げていた。


「はあ……これがすがすがしいって言うのかしら」


 太陽の光に目を細め、エメリーは空に微笑んだ。陽光を幸せそうに浴びる姿は、眩しいほどに美麗で、ともすれば幻想を見ているような心地にもなる。思わず手を伸ばして確かめたくなるが、彼女は現実に、目の前に立ち、俺の目にしっかりと映っている。向こうの目にも俺が映るように……。


 短い雑草の生える地面にゆっくりと腰を下ろしたエメリーは、こちらを見上げて言った。


「誰もいないし、静かだし、いい場所ね。アリオンも座ったら?」


 言われて、俺もその場にあぐらをかいて座った。確かにいい場所だ。考えをまとめたり、仕事をさぼって昼寝をするには打って付けかもしれない。


「笛の練習、今度からはここでしようかしら。それなら誰にも迷惑にならないでしょう?」


「いい案ですけど、一人でここに来るのはどうかと……」


「何言ってるの? その時はアリオンも一緒に来るに決まってるじゃない。世話係なんだから」


「……そう、ですね……」


 つまり、笛の練習にも付き合うことになるのか。信頼してくれるのは嬉しいが、反面、不安も増えそうだ。


 足を放り出した格好で天を仰ぐエメリーは本当に気持ちよさそうだが、俺はふと先ほどの彼女の様子を思い出した。海沿いの道はやめておくと、急に声を上げた表情は怯えているようにも見えた。気のせいではないはず――気になった俺は思い切って聞いてみた。


「あの、さっき海沿いへ行かなかったのはなぜですか? よければ理由を聞きたいのですが」


 これにエメリーは俺をいちべつすると、笑顔はそのままに、目を伏せて言った。


「ああ、それは、単に海が怖いの」


「怖い?」


 嫌いではなく、怖い、か……。


「なぜです?」


 するとエメリーは俺に顔を向けて笑った。


「笑わないでね。子供みたいな理由なんだけど……あたし、頻繁に夢を見るの。雨と風が吹き荒れる嵐の海で、あたしは必死にもがいて泳いでるんだけど、だんだん力がなくなって、最後には暗い海の中に沈んでって……っていうところでその夢はいつも終わるの。それを見て起きた朝は決まって汗びっしょりで……。だから、海と雨は見てると落ち付かなくて、どうしようもなく不安になるの」


 同じ夢を何度も見ることはあっても、現実で不安を覚えるほどの夢というのはあまり聞いたことがない。たとえひどい悪夢だったとしても、恐怖感は目が覚めれば薄らいでいくと思うのだが。それが消えていないというのは、溺れた夢だけが原因ではないのかもしれない。たとえば過去にそれと似た経験をしたとか……。


「……やっぱり笑って。そんな真面目な顔にさせるつもりはなかったんだけど」


 苦笑いを見せられて、俺は自分が考え込んでいたことに気付き、すぐに表情を緩めた。


「すみません、そういう理由だったのかと思って……でも、海が怖いのなら、この島にいるのは苦痛じゃありませんか?」


 海が囲むクローラ島は、視線を伸ばせば大半の場所で海を見ることができてしまう。エメリーにとっては常に落ち付かない状況だと思うのだが。


「あたしは行くところがないのよ。だから居場所を借りるしかないの……これ、前にアリオンに話したかしら?」


 俺はうなずいた。以前、夜の庭でエメリーは同じことを話していた。独りで生きられず、ゼルバスを利用し、居場所を借りているのだと。


「海の側でも、今のあたしはここにいるしかない。あの人に捨てられるまではね……」


 笑顔の表情に、ふっと影が差し込んだ気がした。暗く、苦悩する顔――初めて見る表情ではない。彼女は前にも俺にこんな顔を見せていた。確かあの時も今と同じ話をしていたはずだ。自分はここにいるしかないのだと……。エメリーは館という檻に心まで閉じ込められているようだ。ゼルバスの勝手気ままに引きずられることはないというのに。居場所など、他にたくさんあるはずだ。たとえば――


「故郷へ帰るべきです。ここはあなたに安らぎを与えてはくれない」


 ゼルバスが引き止め、許さないとしても、それでも強引に帰るべきだ。ここは、あの館は、エメリーの居場所などではない。


 これに目を丸くして俺を見たエメリーだったが、その表情をすぐに微笑みで消した。


「あの人がこれを聞いたら、アリオンは無事では済まないでしょうね」


「あ、いや……」


 自分がやつの部下だということをすっかり忘れていた……。


「大丈夫。言ったりなんかしないから。あたしのために言ってくれたことだもの。ありがとう。でも……」


 伏せた顔にまたあの影が浮かんだ。


「やっぱり、ここにいるしかないの」


「なぜですか。故郷へ帰ればもっと――」


「あたしの故郷について、アリオンは前に聞いてきたけど、憶えてる?」


「え、はい。南国の国名をいくつか挙げた時ですよね」


 結局、故郷は明かしてくれなかったが。


「あの時、あたしは故郷を教えなかったけど、本当は違うの。本当は……わからないの」


 俺は首をかしげた。


「わからない? というのは、生まれがわからないということですか?」


 そう聞いたが、エメリーは顔を伏せたまま、しばらく黙り込んでしまった。その表情には悩む色が滲んでいる。何か事情があるようだ。彼女を苦しめるつもりはなかったのだが……。


「立ち入ったことを聞いたのなら、もう――」


「待って、そうじゃないの!」


 話を終わらせようとした俺を、エメリーは顔を跳ね上げて見つめてきた。太陽の光を映す黒い瞳には、迷いも見えるが力強さも見える。何度も口を開こうとする素振り見せつつ、エメリーは決心した様子でようやく声を発した。


「あたしの話を真剣に聞いてくれるアリオンだから……だから、あなたには打ち明けるわ」


 やけに真っすぐな眼差しが俺を見据えてくる。こちらも居住まいを正して見つめ返した。


 一呼吸置き、エメリーは抑えた声で言った。


「あたし、記憶がないの」


「え……?」


 想像しなかった言葉に、俺は一瞬理解が遅れた。


「この島にも、どうやって来たのかわからなくて……それより前の記憶は、ほとんど憶えてないの。故郷も、家族も、あたし自身のことも……」


 エメリーは暗い表情で語る。そこには深刻さが漂い、彼女の苦悩も見える。決して嘘や冗談などではなさそうだ。そもそも、いきなりこんな嘘を彼女がつくとも思ってはいないが。エメリーは記憶喪失……文献でそういう病があることは知っていたが、こうして実際に記憶を失った本人を見るのは初めてだ。


「一番古い記憶は?」


「島の浜を、濡れた格好で歩いてる記憶……。その時は、寒いのと同時に、なぜだかわからないけど、すごく怖かったのを憶えてる」


 ゼルバスに拾われた時の状況と同じだ。そして、浜辺で濡れた格好――海が怖いのはこれと関係がありそうだが。


「でも、自分の名前はさすがに忘れなかったようですね」


 これにエメリーは首を横に振った。


「あたしの名前じゃないの。エメリーはあの人が付けた名前。何も答えられないあたしを呼ぶために付けた、あの人のための名前なの」


 本名ではなかった――俺には少し驚きだった。名前までゼルバスに与えられたものだったとは。


「記憶をなくして、あたしは居場所を見失ったの。何をしてたのか、どこへ行こうとしてたのかもわからない。完全に独りになったの。何も持たないあたしはあの人に拾われて、そこを居場所にするしかなかった。いつか、何か思い出すまで、あの部屋を借りて、あの人を利用しようって、そう決めた。それしか、できなかったから……」


 静かに話すエメリーを見て、俺は納得していた。彼女が部屋から出ず、人とも話さず、孤独を好んでいたのには、失った記憶と懸命に向き合っていた事情があったからなのだろう。ゼルバスと距離を取ろうとするのも、望んで側にいるのではないからだ。記憶をなくし、仕方なく彼女はやつの館にとどまっているに過ぎない。帰るべき場所を見失ったせいで……。


「本当に、何も憶えていないのですか?」


 聞くとエメリーは肩をすくめた。


「ええ。何か思い出せそうな瞬間もあるんだけど、すぐに壊れてばらばらになっちゃう。……でも、音楽だけは、不思議と心が安らぐの。あの横笛、吹き方を教わったわけじゃないのに、あたし最初から吹けたのよ。きっと昔、同じように奏でていたんだと思うの」


 音楽――エメリーはそれに、ただ興味があるだけだと思っていたが、それは違ったようだ。頭の記憶にはないが、どうやら体はあの音色の吹き方を記憶しているらしい。彼女はこれが思い出す手掛かりの一つになると考えているのだろう。


「じゃあ、あなたの職業は横笛奏者かもしれませんね」


「もしそうだったら、記憶が戻るまでにもっと練習しておかないと。今の腕じゃ職業としてはやっていけそうにないもの」


 冗談めかしてエメリーは笑顔を見せた。それに合わせて俺も笑った。記憶をなくすということが一体どれだけの不安を抱かせるのか。おそらく本人以外には想像のできないことなのだと思う。どこで生まれ、育ち、どうやってここに来て、自分は何者なのか……そんな基本的なことがある時からわからなくなる怖さ、苦しみを、彼女は二年近く一人で抱えているのだ。だが、俺はそんな彼女を確かに見たことがある。そう断言できる記憶はあるのに、誰なのかを一向に思い出せないでいる。俺なら、エメリーの記憶を呼び起こす手助けができるはずなのだ。もっと、あの時の光景が鮮明にさえなれば……。影のある笑顔を見せるエメリーを見ていると、自分へのはがゆさと共に、どうにかして彼女を助けたいという気持ちが強く湧き上がるのを、俺は胸の内で自覚していた。

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