七話

 薄く目を開けて、俺はまずここがどこなのかを確かめてみた。薄暗い。少なくともここは天国ではなさそうだ。天国というところはまばゆいほどに輝きに満ちている場所だと聞いている。では地獄だろうかと思って、目線の先を見つめてみれば、格子状の模様の綺麗な天井が見えた。地獄にこんな天井があるとは思えない。それとも、あれは吊り天井で、縛り付けた俺を上から圧殺する器具だったりするのだろうか。そうならば逃げなければ……。


 両手を動かして、胸の辺りまでかかっていた毛布に引っ掛かって、俺はベッドに寝かされているのだと気付いた。馬鹿な想像は終わりにして、現実と向き合うか……どうやら俺は、まだ生きているようだ。そうわかると、急に全身から痛みが悲鳴のように上がり始めた。筋肉痛のような痛みから切り裂かれるような痛みまで、大小様々な痛みが勢ぞろいしている感じだ。節々はまるで錆びてしまったかのようにきしむ。寝返りを打とうと手足や首を動かそうとすると、今まで痛みを感じたことのないような箇所に痛みが走った。……ううっ、自分で思うより重傷なのだろうか。指一本動かすだけでも呼吸が乱れそうだ。しかし、このまま誰のものか知らないベッドで寝続けるわけにもいかない。とりあえず、自分の部屋に戻って、それから――


 その時、薄暗い奥から人の気配を感じて、俺は寝ながら目を凝らした。静かな足音がこちらに近付いてくる。と、ベッドの足下にある衝立の向こうから人影が現れた。


「……あ、目が覚めたのね」


 穏やかな声とその姿に、俺は思わず瞠目した。長い黒髪に褐色の肌、そして目が離せなくなるような美しい微笑み――目の前には紛れもなくエメリーが立っていた。


 俺は急いで上体を起こそうとしたが、その途端、腹を中心に槍で貫かれたような痛みが走り、力が抜けてベッドに沈み込んだ。


「何してるの。まだ動いちゃ駄目よ。お腹の傷が塞がってないんだから」


 そう言いながらエメリーは俺に毛布をかけ直した。そうか。この痛みは腹の傷のものか。そう言えば闘いで俺は腹にナイフを入れられたのだったな……。いや、今はそんなことより、なぜ彼女がここにいるのか、俺にはわけがわからなかった。単なる部下の、しかも新入りの体を気遣うなど、ゼルバスの女がすることでは到底ない。


「もう少し休んでたほうがいいわ」


 心配そうな目が俺を見つめて言った。それを見返して聞いてみた。


「どうして、あなたがここに……?」


「どうしてって、ここはあたしの部屋だし、他に行くところもないから……」


 それを聞いて俺は驚いた。ここがエメリーの部屋? 確かに部屋内は綺麗で広く、ベッドも柔らかくて寝心地がいい。この館に病室と呼べる部屋はないから、それを考えると部下以外の部屋だと予想できたが……まさか、エメリー本人の部屋だったとは。しかしそうなると、また疑問が生まれる。


「俺は、なぜあなたの部屋に寝かされているんですか?」


 これにエメリーは微笑を浮かべた。


「あたしが賭けに勝ったから」


 首をかしげたかったが、痛みで曲げられず、俺は視線で彼女に問うた。


「賭けに勝ったら、あの人が何でも好きなものをくれるって約束してたの。だからあたしは、あなたを貰ったというわけよ」


「俺を……?」


 その意味をそのまま取っていいのか、それとも比喩的に解釈するべきか、わからない俺は唖然とするばかりだった。こんな俺を見て、エメリーはすぐに言い足した。


「貰ったって、そういうことじゃないわよ。あなたを、あたしの世話係にしたってだけのことだから」


「世話係、ですか……」


 そういう意味か――心の端で少し気を落とす自分に気付いて、俺は苦笑した。


「気に入らない?」


「そんなことは……」


「たとえ気に入らないと言われても、あなたにはやってもらうから。その代わり、いままでやっていた仕事はもうやる必要はないわ。それならいいでしょう?」


 つまり、彼女の世話だけをやればいいということか。館中を掃除する毎日よりは楽かもしれないが、どうにも腑に落ちない……。


「そう決めたのなら、世話係はやりますが……なぜ俺なんですか?」


「何かおかしい?」


「あなたの世話をする人間は、これまでにも大勢いたでしょう。新入りの俺なんかより、もっと信頼できる者はいるはずだと思いますが」


「そうね。あなたより何年も先にここにいる者ならたくさんいるわ。でも話が合ったのはあなただけだった。皆、酒や遊ぶことばかりに興味があって、ほとんど物を知らない人達ばかりで。だけどあなたとは音楽の話もできたわ。短い時間だったけど、またいつかできればと思っていたの。あなたが世話係になってくれれば、そんな話もまたできるでしょう?」


 微笑んだ表情は、どこか少女のようにあどけなくも見えた。彼女はここでは孤独だ。落ち付く居場所もなく、会話を楽しむ相手もいない。その中でようやく話が合ったのが俺だったということか。俺も特段音楽に詳しいわけではないが、何も知らない者よりは話し相手になると思ったのだろう。こんなに美しい姿を間近で見られるなら、世話係への鞍替えもやぶさかではないが、そうなると一つ気がかりなことがある。


「ボスは、了承しているんですか?」


「もちろん。賭けに勝った褒美なんだから」


「俺があなたの世話をすることも?」


「しかめっ面だったけど、最後にはうなずいてくれたわ」


 嫌々ながらの了承だったようだ。当然だ。そもそも俺がこんな痛みを抱えているのは、ゼルバスの持つエメリーへの異様な独占欲のせいだ。彼女と普通に呼んだだけで、俺はこんな目に遭わされた。向こうにしてみれば、殺し損ねた上に、大事なエメリーの世話係として近付かれることは、気持ちとしてまったく納得していないに違いない。了承したとは言うが、表向きだけではまた目の敵にされそうだ。任務に響くほどだとまずいが……。


 そんな心の声が顔に出ていたのか、エメリーは笑みを見せて言った。


「心配しないで。あの人は無理矢理あたしに賭けをやらせたんだから、それに勝ったあたしの言うことは絶対に聞いてもらうわ。あなたのことはあたしが責任を持つから、安心して」


 こんな武器も持ったことのないような華奢な女性に、ゼルバスから守ってもらえるとは思えないが、それでも言われれば、少しは心強くもある。まあ、ほどほどに期待しておこう。


「そういうことだから、あなたは傷が治るまで、ゆっくり休んでて。ガーゼの取り替えや食事はあたしがやるから――」


「えっ! それは――」


 驚いた俺は思わず上体を起こそうとして、体を走り抜けた痛みに一時言葉を呑んだ。


「だから、まだ動いちゃ駄目よ」


 エメリーは俺の肩を支え、ゆっくりとベッドに戻してくれる。


「ありがたいことですが、世話係は俺なんですから、自分のことは自分でやります」


「言ったでしょう。あなたのことに責任を持つって。それともあたしじゃ不安かしら?」


 片眉を上げたエメリーにじっと見られ、俺はすかさず言う。


「とんでもない! その気持ちはすごく嬉しいですけど、あなたの手を借りるわけには……俺は今すぐ自分の家へ帰りますから」


 俺はきしむ両腕を立てて、刃で切り刻まれているような痛みをこらえて起き上がろうとした。だがあまりの痛さに呼吸が乱れ、俺は断念して枕に頭を戻した。……はあ、情けない。腹をナイフで刺されたくらいで、こんなにも動けなくなるとは。


「家へ帰りたいなら、せめてお腹の傷が塞がるまでここにいて。あたしに迷惑がかかるなんて考えることないわ」


「申し訳ない……」


「何で謝るの? あなたはあたしを賭けで勝たせてくれたのに。むしろこっちがお礼を言わないとね。本当にありがとう」


 薄暗い中でも、笑顔を浮かべたエメリーは煌々と輝いて見える。それは俺の中の何かを不意にざわめかせてくる。埋もれた記憶か、もっと別のものか、これは、一体何だろう……。


「喉は乾いてない? 食欲もあるなら何か持ってくるけど」


 聞かれて俺は我に返った。


「……今は、大丈夫です」


「そう。必要なものがあれば遠慮なく言って。あたしは向こうにいるから」


 俺にかかる毛布を軽く直し、エメリーはベッドから離れていく。


「あ、一つ……」


 去っていく背中に声をかけると、エメリーはすぐに振り向いた。


「何?」


 首をかしげた彼女に俺は聞いた。


「世話係というのは、具体的に何をすれば……?」


 これにエメリーは呆れた眼差しを向けてくる。


「傷が治ってもいないのに、もう仕事の話? それは立ち上がれるようになってからでも――」


「前もって聞いておきたいので……」


 その合間を縫って、任務のほうも進めないといけない都合もある。


 エメリーは再び俺の横に来ると、腰に手を置いて言った。


「初めてだわ。あたしのためにここまで真面目な人は。やっぱりあなたを世話係に選んで正解だった。……そうね。基本的にはあたしの身の回りのことかしら。部屋の掃除に衣類の洗濯、食事の配膳も。あなたの場合は話に付き合ってもらうこともあるわね。あとは、お使いを頼んだり、そんなところね」


 仕事内容は下男と同じようなものだ。


「お使いは街まで行くんですか?」


「ええ。わざわざ船に乗って行かせるようなものは頼まないから、心配しないで」


「すでに何か、頼みたいことでも?」


「まあ、いくつかあるけど、それは傷が治ってからね」


「言ってみてください。どんなことです?」


 エメリーはためらいつつも、にこりと笑んで言った。


「……実は、お使いで頼みたいことを、紙に書いてあるの」


「じゃあそれを見せてください」


「ちょっと待ってて」


 小走りで部屋の奥へ行ったエメリーは、机の辺りでがさごそと探ると、すぐにこちらへ戻ってきた。


「暗くて見えにくいかしら……窓を開けていい?」


「ああ、お願いします」


 くるりと向きを変えると、エメリーはベッドの横の窓を静かに開け放った。その途端、潮の香りの混じる風と共に眩しい陽光が差し込んできて、俺は思わず目を閉じた。てっきりまだ夜かと思っていたが、すでに夜が明けていたのか。気を失っていたせいでまったく気付かなかった……。


「あの、俺はどのくらいここにいるんですか?」


「ここに運び込んでから一晩よ。時間で言うと半日くらいね」


 腹を刺されてから半日、俺は眠り続けていたということか。これでは傷は全然塞がっていないな。早いところ、歩けるまでには回復したいところだ。いつまでもエメリーの世話になるのは何だか気が引ける。


「見える? これよ」


 十分に腕を動かせない俺を気遣ってか、エメリーは俺の顔の前に長方形の小さな紙を出して見せた。そこには黒いインクで頼みごとが横書きされている。


「音楽家の伝記……誰の伝記ですか?」


「誰でもいいわ。とにかく音楽家なら読んでみたくて」


「ラーロック・ソルなど、有名な音楽家のほうがいいですか?」


「ラー……誰?」


「ラーロック・ソル。彼は世界を回りながら作曲していて、確か南国にも立ち寄って、名は知られていると思ったんですが……」


 大して音楽の知識がない者でも、この名は大人から子供まで幅広く知っている。耳に残る数々の名曲で歴史に名を残す、偉大で有名な音楽家なのだが、南方の国では知られていないのだろうか。エメリーはぴんと来ていない様子だ。


「わからないけど……それはあなたに任せるわ」


 指定がないならすぐに済みそうな案件だ。俺は次の頼みごとに目を移した。


「楽譜……というのは?」


 そこにはただ楽譜とだけ書かれていた。その意味を問うと、エメリーは笑って言った。


「これも伝記と同じよ。手に入れてほしいの」


「楽譜なら、何でもいいと?」


 エメリーはうなずく。


「一曲まるまる吹けるものを知らなくて。楽譜があれば最後まで吹けるでしょう?」


 彼女の笛の音には問題はないから、一曲を最後まで吹けるようになれば、仮眠する部下達のいい子守歌になるかもしれない。そう言えば、その迷惑がられていた笛の音を、最近耳にしていない気がする。俺が指摘したせいで控えてしまったのだろうか――そう思いながら最後の頼みごとを読んで、その理由が判明した。


「横笛の修理……あの笛、壊れてしまったんですか?」


 聞くと、エメリーは沈んだ表情に変わった。


「前に、あの人が酔っ払ってこの部屋に入ってきた時、机に置いてた横笛を落として、誤って踏み付けていったの。慌てて拾って見たら、大きなひびが入ってて……。もう以前のような音色が出せないの。すーすーと空気が抜けちゃって」


 だから笛の音が消えていた、と。それにしても迷惑な酔っ払いだ。エメリーに嫌われるのも当然だな。


「早く直して練習を再開したいの。あたしの大事な時間だから……」


 そう言った声には切望する感情がこもっていたが、表情にどこか影を感じるのは俺の気のせいだろうか。苦悩というか寂しさというか、はっきりはしないが暗いものをわずかに感じる。練習ができないという単なる不安のせいか?


「それなら、修理よりも、買ったほうが早いのでは? 街には笛くらい売っているでしょう」


 練習の再開を急ぎたいのなら、俺はそのほうが手っ取り早いと思って言ったのだが、エメリーは緩く首を横に振った。


「できれば、吹き慣れたもので練習したいの。直せないなら仕方ないけど……」


 吹くほうには、いろいろとこだわりがあるようだ。


「そうですか。わかりました。でも、俺は今こんな状態です。早く練習をしたいなら、ボスに頼めば――」


「それは嫌。何も理解してくれない人なんかに頼みたくないわ」


 表情をしかめたエメリーは即答した。


「あなたの頼みごとなら、ボスはすべて聞いてくれるのでは?」


「そういうことじゃなくて……あたしにとって音楽は、すごく個人的なもので、重要なものだから、何の理解もない人には触れてほしくないの」


「俺も、音楽には詳しいとは言えませんが?」


「ううん、あなたは違う。少なくともここにいる人達よりは知ってるし、あたしにちょっとだけ手掛かりをくれたもの」


「手掛かり?」


 視線で問うたが、エメリーは微笑むだけだった。手掛かり……そう言えば、夜の庭でそんなことを話したような記憶があるな。


「とりあえず、頼みたいことは今はこれだけよ。でもそんなことより、あなたは傷を治すほうに集中して。仕事はそれからよ。用があれば呼んでちょうだい」


「痛みが引いたら、すぐに出ていきます。それまでは迷惑をかけますが……」


「迷惑じゃないわ。あなたはあたしの世話係なんだから。ゆっくり休んで。……そうだ、替えのガーゼと消毒薬を持って来ないと……」


 思い出したように言うと、エメリーはぱたぱたとベッドから離れ、そのまま部屋を出ていったようだった。辺りが一気に静まり返る中、窓からの陽光だけがうるさく俺の横顔を照らしてくる。エメリーがこんなにかいがいしいとは思わなかった。やはり傍からの印象だけでは人の内面などわからないものだ。彼女にとっては、とにかく音楽が重要らしい。精神的に支えられているようでもある。素人の範ちゅうだが、そんな音楽の話が俺とできたことで、少しは心を許してくれたのかもしれない。いや、賭けで勝たせてくれた俺への感謝だろうか? まあどちらにせよ、俺がまず専念するのは傷の回復だ。ゼルバスが了承済みとはいえ、長くこの部屋にいるのはまずい気がする。俺を殺そうとするほどの独占欲がいつ暴走するともわからない。早く仕事のできる状態に戻らなければ。エメリーも、厄介なやつに拾われたものだ。できることならどうにかしてやりたいが、任務に関係ないことをやる暇など、今の俺にはないだろうし。……はあ、全身が痛みの塊だ。しばし夢の中へ逃げ込むとするか――俺は目を閉じ、もう一眠りすることにした。窓の外からは、寄せては返す波音が風に乗って心地よく聞こえてくる。

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