六話

 ゼルバスとその女とのごたごたがあってから数時間後、外は夕焼けに染まり、俺は今日の掃除を終え、少し空腹を覚えながら館の一階を歩いていた。広間兼食堂には、部下のために常時食料が置いてあり、飯時には好きに食べてもいいようになっている。だが長く買い置きされているせいか、新鮮さはなく、正直おいしいとは言えない。だからここに来る部下の大半は酒が目当てになっている。食べるのは金がない者か、味にはこだわらない者だけだ。


 俺もここではあまり食事はせず、基本街で食べるか、買ってくるかだった。単にまずいからではなく、食べ時が過ぎ、色あせたものを口にして腹でも壊したら任務に支障をきたしてしまうからだ。今のところ部下の誰かが便所に駆け込んだという話は聞いていないが、不慮の事態を避けるため、ここの食料にはできるだけ手を出さないようにしている。


 今日も街へ夕飯を買いに行こうかと考えていたが、ゼルバスが後で呼びに行かせると言っていたことを思い出し、俺は外へ向かうのを思いとどまった。ここを出ている間に呼びに来られたら、またゼルバスを怒らせてしまうかもしれない。これ以上波風を立たせるわけにはいかない。空腹ではあるが、耐えられないほどではないし、街へ行くのはゼルバスの言った腕試しが終わってからにするか――思い直した俺は踵を返し、廊下を戻ろうとした。


「おい、新入り」


 その時、背後から呼ばれて、俺は再び向きを変える。


「……はい?」


 振り向くと、細身の部下が険しい表情で立っていた。


「ボスが呼んでる。付いてこい」


 手を軽く振り、来いと合図する。ちょうど呼びに来たようだ。俺は男の後に付きながら聞いてみた。


「腕試しですか?」


「……そうだ」


 部下は顔を向けずに答える。その声はなぜか暗く、緊張感が漂っている。まるでこれから説教を受けに行く子供のような感じだ。


「どうか、しましたか?」


「いや……」


 言葉少なな部下は、歩きながら俺にちらと視線だけを向けてきた。


「お前……ボスに何したんだ?」


「え……?」


 その質問の真意がわからず、俺は答えられなかった。部下のほうもしつこく聞いてくることはなく、黙って歩き続けていた。腕試しに行く前に、なぜそんなことを聞いて来たのか。誰かからゼルバスを怒らせたことを聞いて、確かめただけだろうか。……それにしても、この部下の様子が気になる。何かに怯えたようにも見えなくはないが――


「ボスは前庭にいる。行け」


 館の正面玄関に着いた部下は、そこで止まるとそう言った。


「わかりました」


 俺は玄関に向かい、扉に手をかける。と、背後で部下がぼそりと言った。


「せいぜい、頑張れよ」


 振り返ると、部下は背を向け廊下を戻っていった。どこか諦めたような口調の言葉を、俺はやはり気にしつつも、気を取り直して玄関の扉を開けた。


 まだ暖かい風と共に、夕焼けの赤い光が強烈にぶつかってくる。見渡せる広い庭は、今は緑ではなく、炎を思わせる朱や橙色に染まり切っていた。まるで火事場のど真ん中に放り込まれたような景色だ。刺すような西日に目を細めながら、俺は庭の中央へ歩いていった。


 植木をいくつか通り過ぎた先に、その姿はあった。用意された椅子にふんぞり返る姿勢で座るゼルバスは、やってきた俺を不敵な笑みで眺めている。その周りにはいつものように薄着の女達をはべらせ、その女達は媚びた笑顔でゼルバスにすり寄っている。当然ながら俺を誘って来たセオニの姿はない。囲む女の人数は三人に減っていたが、ふと視線をずらした先を見て俺は驚いた。


 女達から距離を取り、その陰に立つ女――エメリーの姿がそこにはあった。ゼルバスに無理矢理連れてこられたのか、あるいは気まぐれなのか知らないが、こうしてゼルバスや女達に付き合っている姿を、俺は初めて目の当たりにした。人と関わろうとせず、いつも独りで部屋にいるエメリーは、俺が知る限り、人が三人以上集まる場所に姿を現したことがない。それほど独りを好むのだ。しかし、今日は少し違うらしい。どういう経緯であれ、俺の腕試しを見に来ている。ただ、ここから見える表情から心境を読み取ると、伏し目がちで覇気のない顔付きからは、ここにいることは本意でないように思える。部下の腕試しを見せられたところで、彼女にとっては、やはり退屈以外の何物でもないのだろう。


 エメリーに気を取られているうちに、気付けば俺の周りには遠巻きに何人もの部下の男達が集まっていた。腕を回したり屈伸をしたりと、準備運動をしている。どうやら彼らが腕試しの相手をするようだ。よく見れば、集まっている部下は皆体格がよく、腕っ節に自信がありそうな者ばかりだ。しかし、少々人数が多すぎないか? 優に二十人はいる。この全員を順番に相手にしろなど無茶なことは言わないだろうな……。


「……よおし、集まったな」


 椅子にふんぞり返るゼルバスは、大きな声で皆の注目を集める。


「これから、そこに立つ新入りの素質を確かめるために、腕試しをする。……新入り、俺を認めさせれば、掃除仕事からは解放だ。張り切ってやれ」


「はい……その前に腕試しの方法は――」


「おいお前ら、新入りだからって手を抜くんじゃねえぞ。何たってこいつは、俺の拳を避けやがった逸材だ。これほど見込みのある部下はいない。一体どれほどの力量があるのか、徹底的に確かめろ。そして自分のほうが上なんだと、骨の髄まで叩き込んでやれ!」


 おおっ、と部下達の気合いの入った返事が一斉に返ってきた。俺を取り囲むその目付きは、気のせいと言えないほどに殺気がありありと見て取れる。明らかに異様な雰囲気に、俺はゼルバスを見た。その顔は俺をあなどるように薄ら笑いを浮かべていた。ああ、そうか――俺はようやく気付いた。ゼルバスは、それほど俺を許せず、激怒していたのか。だから腕試しと称して、俺を部下に痛め付けさせようと……いや、もしかしたら殺させるつもりかもしれない。自分は高みの見物で手を汚さず、じわじわ弱っていく俺を愉快に眺めようと……。


「何か、聞きたいことでもあるか」


 ゼルバスは腹の上で手を組み、歪んだ笑みを見せて聞いてきた。周りの女達も俺がこれからどうなるのか知っているのだろう。真っ赤な唇を左右に引き上げ、小さくせせら笑っている。退屈そうなエメリーを除いては……。


 俺も馬鹿だった。ゼルバスを怒らせた時点で、腕試しがどういうものになるのか、少し考えればわかっただろう。だがわかったところで逃げ出すこともできなかったが。素性がばれていない以上、任務の放棄はできない。たとえ命に危険があろうとも……。とにかくやるしかない。この暴力の制裁を、俺は乗り切るしかなさそうだ。


 覚悟を決め、俺はゼルバスに聞いた。


「どういう方法でやるんですか」


「そいつらがお前の相手をする。来たやつを順番に倒していけばいい。簡単だろう」


「わかりました……」


 つまり、一対多数の殴り合い……俺の嫌な予感通りか。しかも相手は殺す気で来るはずだ。その証拠に、取り囲む部下達の目は獲物を狙うものに変わっている。その殺気立った視線は俺の肌を痛いほどに突き刺してくる。お互い、相手に恨みはないが、殺すつもりで来るなら、こちらも容赦はできそうにない――俺は部下の男達を見回し、命懸けの殴り合いに身構えた。


「始める前に、ただお前らを眺めているのもつまらない。……エメリー、ここは一つ賭けをしようじゃないか」


 ゼルバスは離れて立つエメリーにそう提案した。言われたエメリーは迷惑そうに眉間にしわを寄せて言う。


「そんなものに興味ないわ」


「そう言うな。あの新入りが全員を倒し、最後まで立っているかどうか予想するだけだ」


「くだらない」


「それはどうだろうな。もし賭けが当たれば、俺がやれるものであれば、お前が望むものを何でもやろう」


 これにエメリーの表情がわずかに変わった。ゼルバスはにやりと笑って続ける。


「興味が出てきたか?」


「賭けが外れたら?」


「その時は、今夜から俺の部屋で共に寝てもらおうか。どうだ?」


 ゼルバスの嫌らしい視線がエメリーに返事を求める。もしかしたら俺への制裁は口実で、本当の目的はエメリーとの賭けに勝つことなのでは……というのは考えすぎだろうか。


「エメリーとだけなんてずるい!」


「ねえヴァッシュ、あたし達もやりたいわ」


 囲む女達がゼルバスの肩や腕に身を寄せながら言い始めた。


「もちろんいいぞ。だがお前達が外れたら、明日一日、裸で過ごしてもらうぞ」


「やだあ、ヴァッシュったら!」


「あたし達の裸なんて見慣れてるじゃない。まだ見足りないわけ?」


「ガッハッハッ、美しいものを見たがるのはおかしいか?」


 半ば脱いでいるような格好の女達の裸をまだ見たいとは。呆れるほどの欲望だな。


「さあ、どっちに賭けるんだ?」


 ゼルバスが聞くと、女達はすかさず答えた。


「あの新入りの負けに賭けるわ」


「この人数に勝てるわけないわよ。あたしもそっちに賭ける」


「絶対に新入りの負けね。やる前から見えてるわ」


 当然の見解で女達は揃って俺の負けに賭けた。正直、当人の俺も、この男達全員を倒し切る自信は少ない。最後まで立っていられたら幸運だという状況だ。それほど俺には厳しい対戦になるだろう。負けに賭けるのは、悔しいが正解なのかもしれない。


「ほお、皆同じ負けに賭けるのか。……エメリー、お前はどうする」


「……本当に、何でもくれるの?」


「二言はない」


「それなら、あたしも――」


「しかし、全員が同じほうに賭けては面白みがない。エメリーは新入りが残るほうに賭けろ」


「ちょっ、ちょっと! 何よそれ……」


 あまりの勝手さに、エメリーは慌てて抗議する。


「どっちに賭けるかはあたしが決めることよ」


「早く言わないのが悪い。負けのほうはもう売り切れだ」


 怒りもあらわに、エメリーはゼルバスを睨み据えた。


「決めさせてくれないなら、あたしは賭けなんて――」


「賭けの途中で降りるのなら、それは負けになるが……いいか?」


「あたしはまだ賭けて――」


「賭ける意思は見せた。そこから賭けは始まっている」


 ゼルバスはじろりと見やった。悔しそうにエメリーは唇を噛んでいる。彼女を完全に自分のものにするためなら、ゼルバスはさらに嫌われようとも構わないようだ。とにかく常に側に置き、その肌に触れていたい――そんな裏の声が聞こえてきそうだ。それにしても、強引で露骨すぎるやり方は見ているこちらも胸糞が悪い。


「降りるか、賭けるか、どっちを選ぶんだ?」


 自分のドレスを握り締めながら、しばらくうつむいていたエメリーだが、ゆっくり視線を上げると、西日の赤い光を映した目がゼルバスを見つめて言った。


「いいわよ……賭ければいいんでしょう。勝つほうに賭けるわよ」


「決まりだな」


 ゼルバスは満足そうに喉の奥で笑った。腕を組んだエメリーは悔しげに眉根を寄せて、そんなゼルバスを見ないようにそっぽを向いた。何もせず諦めるよりは、わずかな可能性に賭けてみる、か……。俺に十分な自信はない。現実的にも厳しいことになるのは目に見えている。だが、始めから諦めるつもりはない。どこまでやれるか、持てる力でぶつかっていくつもりだ。本人は何の期待もしていないのだろうが、俺にとってはエメリーというごく小さな期待でも、背中を押してくれる力にはなる。彼女のために――そう思うと、不思議と気分が高揚する気がした。


「お前ら、用意はいいか」


 ゼルバスに部下達は気合いの入った声で返す。


「……新入りも、いいな」


 にやつくゼルバスに俺はうなずいて見せる。


「ここで寝ないよう、せいぜい頑張るんだな。……始めろ」


 開始の合図に、部下の一人が前に出てくる。まだ若いが体は大きい。


「やっちまえ!」


「ぼこぼこにしてやれ!」


 周りの男達が声を上げて煽ってくる。若い男は両手で拳を構え、こちらを睨み付けてくる。俺も一歩前に出ると、同じように拳を構えた。どのくらいの腕前か、まずは様子を見させてもらう――


 俺は左右の拳を素早く振りにいった。すると相手は腕の側面を盾にして上手く攻撃を防いでいく。……これは闘い慣れているようだ。少なくとも喧嘩の経験はありそうだ。だが実力のほうはどうだろうか。


 男の拳が向かってきたのを俺は受け流す。少し体勢を崩しながらも、男は続けて拳を繰り出してくる。防ぎ方は上手かったが、攻撃となるとまだ素人のようだ。力み過ぎて拳の軌道が読めてしまう。体力を消耗する前にさっさと終わらせよう――


 俺は読める攻撃を避け、男の顔面に一発見舞った。うっと小さな声を漏らした男は後ずさりし、鼻を押さえる。指の隙間から赤いものを垂らしながらも、男はこちらに殴りかかってくる。腹ががら空きだ――俺は攻撃を防ぐと、そこに拳をねじ込んだ。男の上半身が下がってきたところで、顔に再び一撃を入れた。ねじれた首が体ごと後ろへ傾き、若い男は地面に倒れる。鼻血で汚れた顔は朱に染まった虚空を見つめ続けていた。……まずは一人。


「けっ、情けねえな」


「無様なやつめ。早くそいつをどけろ」


「次は俺だ。やってやるよ!」


 名乗り出てきた男が俺の前で拳を構えた。若い男のような実力の者ばかりなら、もしかしたらこの人数でも勝ち残れる可能性はあるかもしれない――わずかに湧いた希望を力にし、俺は男達と対戦を繰り返した。


 闘い始めて五、六人目までは順調に勝っていた。体力もさほど減らず、気持ちにも余裕を残していた。辺りを見渡せば、夕焼けに染まっていた庭は暗くなり始め、風と空気はひんやりと俺の拳を冷ましていく。椅子に座って観戦するゼルバスを見れば、顎に手を当て、どこか不満そうな眼差しでこちらを見ていた。思惑の中では、俺はもっと早くに倒される予定だったのかもしれない。だがそんなこと知ったことではない。お前の思い通りにさせるものか。俺には任務があるのだ。そして、彼女の、エメリーの期待も……。


「……次は誰です」


 俺が残っている部下達を見回すと、その中の一人が前に出ようとした。が、ここでゼルバスの声が割って入ってきた。


「待て。ここからは二対一で闘え」


 えっ、と俺が思わず見ると、ゼルバスは口角を上げて言った。


「これは腕試しだ。お前はここまで強さを見せてきた。それがどこまで通用するのか、確かめるのは当然だろう。それとも、相手が二人ではもう無理だと、降参するか?」


 ゼルバスの細められた目が、離れたところに立つエメリーに一瞬向けられた。腕を抱えるように組んでいるエメリーは、ややうつむいた姿勢で真剣な表情をこちらに見せていた。……降参など、誰がするものか。


「……続けます」


 答えると、ゼルバスは鼻を鳴らして言った。


「そうか。だったら始めろ」


 そう言うと、部下の中から二人の男が出てきた。どちらも隆々とした筋肉を付け、いかつい顔をしている。腕力は明らかに俺よりもありそうだ。見かけ倒しならいいが……。


「俺らが終わらせてやる……!」


 唸るように言った男が殴りかかってきた。その動きは速くない。これなら避けられる――と思った時、別の方向からもう一人が殴りかかってきた。そこで一瞬迷ったのが悪かった。一人の拳は避けたものの、鈍った動きのせいでもう一人の拳が俺のこめかみ近くに当たった。ゴンと頭に衝撃が響き、俺は咄嗟に二人から距離を取った。だがそれもすぐに詰められる。


「逃げんなよ!」


 正面から来る男は拳を振りかぶる。大振りになりそうだ。懐に入り込めば――そう考え、一歩前に出ようとした瞬間、横から体をつかまれ、俺は動きを止められた。


「うぐっ……」


 振りかぶった拳が俺の左頬に思い切り振り落とされ、口の外と中に違う種類の痛みが走った。周囲からは部下達の歓声や口笛が聞こえる。


「いいぞ! もっとだ!」


 その声に応えるように、正面に立つ男は次の拳を構える。くそっ、ひとまず逃げないと――俺は体をつかむもう一人の男の手を振り払おうともがいたが、腕力だけはあるその手は俺の腕をつかむと、背後に回って羽交い絞めにしてきた。


「くっ……!」


 この馬鹿力め……全然外れない!


「おらあ!」


 身動きのとれない俺に、正面の男は勢いよく拳を振り下ろしてきた。今度は腹をえぐられるように殴られ、俺の口からはよだれが飛び散った。夕飯を食べていたら、おそらくもっと汚いものが飛び出したに違いない――そんなことを思っている自分に気付き、俺はまだ冷静でいることを確認できた。このまま的の人形になる気など、こっちはないんだよ……!


 周りの歓声に乗せられ、正面の男は笑いながらまた拳を振り上げた。力だけはあるが、速さのない大振りの動きは、反撃するには絶好の機会だ。拳が頂点まで上がった瞬間、俺は体重を背後の男に預けると、唯一自由な足を振り上げ、正面の男の顔目がけて思い切り蹴り上げた。


 横っ面に当てるつもりが、男が寸前に動いたせいで、俺の足は踵だけが男に当たった。だがそれがよかった。避けようとした男はのけぞるように動いたが、その際、男の顎に俺の踵が命中し、そのまま男は地面に崩れて気を失った。


 部下達の歓声が途端にやみ、対戦の場は静まり返った。誰もがぽかんとする隙に、俺は背後の男に後頭部で頭突きを食らわせた。ゴツンと鈍い音がして、羽交い絞めの手から力が抜けた。動ければこちらのものだ――男の手から抜け出した俺は、動揺する男に拳を二発、三発と浴びせ、戦意を喪失させた。ついでに気を取り戻しかけていた男にももう一度蹴りを見舞い、参ったの言葉を引き出した。


 ゼルバスを横目でちらと見てみる。相変わらず不満そうな表情ではあるが、苛立っている様子はない。対戦する部下はまだまだいる。その余裕があるのだろう。こちらとしては、二対一の闘いが続くとなると、正直余裕などないが。


 日が完全に沈み、暗闇に包まれた庭には、いつの間にかかがり火がたかれていた。冷たくなった風に揺れる火が、俺や部下達の影を地面で躍らせる。しかしそれ以上に俺は躍り回り、息を切らせ、血を流していた。二対一の連戦はやはりきつい。武術の経験はあると言っても、俺は戦士ではないし、誰かに弟子入りしたわけでもない。それに身に付けたのは武器を使ったもので、素手での格闘術はほぼ自己流だ。ここまで持ちこたえ、勝てていることは自分でも驚いているくらいだ。


 だが、すでに全身は満身創痍だ。容易に挟み撃ちをしてくる相手の攻撃を俺は防ぎ切ることができない。そこから抜け出そうと動き回るにしても、徐々に体力を削られていく俺の足は思うように動いてはくれない。骨は折れていないだろうが、もしかしたらひびくらいは入っているかもしれない。手足を振るたびにギシギシと音が鳴っているような感覚が続く。俺の拳は相手を殴りすぎて赤く腫れ上がっている。手がこうなのだから、おそらく殴られ続けている俺の顔もこんななのだろう。じんじんとした熱と痛みがもう長いこととどまっている。口の中もずっと鉄の味ばかりが続いている。鼻の奥の息苦しさにフンッと息を吐き出せば、溜まった血の塊が地面に落ちていった。もう自分の血は飽きた。透き通った水で喉をうるおしたい。


 途中までは倒した人数を数えていたが、痛みと疲労でもうろうとする今は、一体何人に勝ったのかわからなくなっていた。だが周囲に目をやれば、歓声を上げて煽る部下の姿はもう見えない。その代わりに離れたところで芝の地面に横たわる男達の数が増えていた。俺が倒してきた相手だ。何人いるのだろうか……。


「ちょっと! あんた達で最後決めてよ!」


「ここで勝ってもらわなきゃ、あたし達負けちゃうじゃない!」


 観戦する女達がきいきいと高い声で自分勝手な檄を飛ばしている。……ということは、闘いはこの二人で最後――終わりが見えて、俺は静かに深呼吸をした。こちらもそうだが、意地で拳を食らわせた相手も、かなり体力を減らしている。まぶたを腫らせた痛々しい顔で俺と対峙している。もう一人も腹を押さえてすぐ側に立ってはいるが、俺が蹴りを入れて、その痛みにまだ動けないらしい。表情は歪んでいるが、目だけはこちらを睨み据えている。一対一の状況……今の内にやらなければ!


 俺はすぐに殴りかかった。自分でも速いとは思えない拳だが、避ける素振りを見せた相手に簡単に当たった。お互いそれだけへろへろだった。向こうからの攻撃も、体力がある状態なら間違いないく避けられただろうが、今の俺にそんな機敏さはない。顔にまともに食らい、足下がふらつく。しかしそれほど痛くはない。拳に力が入っていないのだ。腕力はあっても体力がなくなってしまえば、もう力の差はないも同然だ。持久力で勝るこちらが攻撃を繰り返せば、勝利はいずれ手に入る。


 交互に殴り続けた末、先に倒れたのはやはり相手だった。追い打ちをかけようとした俺に降参し、残るはあと一人だけとなる。我ながらよく闘っている。ここまで立ち続けていられるとは思ってもみなかった。だがそろそろ限界のようだ。視界がかすんで、踏ん張る両足にも力が入らなくなってきている。最後の最後に殴られすぎたか。しかしあと一人なのだ。あと一人……悔しい思いを抱きながら殴り殺されるわけにはいかない。限界を過ぎようと、必ずここに立ち続けてやる……!


 俺が一歩前に出ると、最後の一人の男は押さえていた腹から手を離し、拳を構えた。その目にはしっかりと戦意が宿っている。まだ体力の残る男に弱気はないが、硬い表情からは緊張が見て取れる。それが解ける前に、まずはこちらから一発見せて牽制できれば――


 その時、対峙する男の足下に何かが投げ込まれた。コトンと小さな音を立て、転がって止まる。その側面は金属の光を放ち、かがり火の揺れる赤色をじっと映し出している。俺も男も、それを見て思わず息を呑んだ。なぜナイフなど投げたのかと、問う視線を投げ込んだ本人に向けた。


「……それを使え」


 ゼルバスは口の端で笑って言った。これにエメリーがすかさず怒鳴った。


「これは素手での腕試しでしょう! ナイフなんて――」


「誰がそんなことを言った。俺は武器を使うななど、一言も言った覚えはないが?」


 確かに……確かにそんなことは言っていなかったが、使っていいとも言ってはいなかった。だから皆自分の拳だけで闘っていたのだ。素手での腕試しだと思って……。


「卑怯者……!」


 エメリーはささやくように声を吐き出した。それをゼルバスは聞こえないふりで笑っている。やつはそういう人間なのだ。そしてこの場はやつが支配する場。何を言おうと逆らえず、変えることはできない。


「何をしている。ほら、早く拾え」


 促され、男はおずおずと足下のナイフを握った。構えるものを拳からナイフに変え、男はじりじりと間合いを詰めてくる。限界が近いというのに……ゼルバスめ、俺のしぶとさに我慢ならなくなったか。拳で痛め付けてから殺すのではなく、ナイフで切り付けてさっさと終わらせることにしたのだろう。そんな小さなナイフごときで殺されるものか……!


 男は俺の上半身に狙いを定めると、軽やかな動きでナイフを突き出してきた。連続して、何度も、何度も。時には振り上げ、横薙ぎにし、その切っ先で俺の服の表面をかすっていく。そのたびにかがり火の向こうから、惜しいだのもう少しだのと女達から声が上がるのが聞こえてくる。その側でゼルバスはきっと笑っているのだろう。エメリーは見ていられないと目をそらしてしまっているかもしれない。体力が限界に達しようとしている俺は、誰が見ても絶望的だ。


 ヒュンと耳元で風が鳴った。その直後、首の辺りにちくりとした痛みを感じた。振られたナイフを避けきれず、刃先が首を浅く切り裂いていった。……駄目だ。疲労でもう足が動かない。鉄球でも引きずっているような重さがのしかかってくる。次に攻撃を受けたら、ちくりという痛みでは済まないかもしれない。攻めろ。攻めなければやられるだけだ――


 俺は相手の顔目がけて右拳を振った。が、それをあっさり避けた男は、カウンターのように俺へ拳を返してきた。側頭部でゴツッと鈍い音が鳴り、その衝撃で俺は後ろへよろめく――倒れるな。ここで倒れたら二度と立ち上がれなくなる――どうにか踏ん張り、視線を相手に戻した時だった。


「!」


 体の芯に響く、大きな衝撃が俺の中に走った。男は俺に密着するように身を寄せてくる。……何で抱き付いてくる。不快だ。離れろ――俺は男の肩を押し返し、その腹に蹴りを入れて突き飛ばした。それと同時に、自分の腹にも強烈な痛みを感じ、俺は見下ろした。何だ、この痛み……。


 暗い中、かがり火が照らし出したのは、腹に垂直に突き刺さったナイフだった。


「やったわ!」


 女の歓喜する声が聞こえた。……そうか。やっぱり、駄目だったか。こんな形で負けて、死ぬなんて、あまりに不本意だ。


「決着をつけろ」


 遠くでゼルバスの冷酷な声が指示した。俺に突き飛ばされた男がこちらに近付いてくる。せめて、俺にも武器があれば、あるいは形勢を……いや、待て。武器があればって、俺は今、その武器を持っているのでは……?


 勝手にふらつく足を踏ん張らせながら、俺は自分の腹に刺さるナイフの柄を握った。わずかな振動でも腹の奥に激痛が走る。それを歯を食い縛って耐え、男が間合いに入るのを待つ。もう、逆転するにはこれしか方法がない。近付いてきた一瞬で、勝利をもぎ取る……!


 男の表情には、すでに勝ちの余裕が浮かんでいた。動かない俺を、動けないとでも思っているのだろう。ためらうこともなく、無防備にこちらに歩いてくる。そして、俺の顔を見ながら首に手を伸ばしてきた――隙を見せたな!


 腹のナイフを一気に引き抜いた俺は、体当たりをするように男の腹へ刃を向け、突き刺した。


「ふっ、ごっ……」


 痛みに詰まった声が俺の耳元に降りかかる。力んだ両手が俺を押し離そうとしてくるのを、渾身の力で押してナイフを突き入れる。これに男は後ずさりし、足をもつれさせ地面に倒れた。その衝撃でさらにナイフは突き刺さる。


「や、やめ……ろ……」


 脂汗を流す男が見開いた目で訴えてくる。俺はナイフから手を離さず、その顔を見下ろした。


「一言、言えば終わる」


 口は開けるものの、男は何も言わない。俺はまたナイフに力を込め、突き入れる。


「ぐあああっ……こっ、降参するっ!」


 勝った――俺は男から離れ、もうろうとする意識でゼルバスのほうを見た。だが暗すぎてよく見えない。おかしいな。かがり火の明かりがあるはずだが……。


「ちょっと……あたし達、賭けに負けたの?」


「そんなあ。まだ闘えるでしょ、立ち上がんなさいよ!」


「賭けは終わりよ。腕試しも終わり。負けを認めなさい」


 これは、エメリーの声か……。


「皆に言って、早く手当てをさせて」


「……まだだ。続けさせろ」


「子供染みた態度もいい加減にして! 思い通りにいかないからって、部下をおもちゃにしないで!」


「うるさい! あいつには身をもってわからせないと――」


「いいわ。そんなに続けたいなら、次の対戦はあたしがやる」


「お、おい、待て! 何言ってる」


「だって続けたいんでしょう? 他に闘えそうな人はいないし、あたしが相手をするわ」


「お前には無理だ! その綺麗な顔に傷を付けたいのか」


「……じゃあ、終わりにして。賭けはあたしの勝ち。早く手当ての指示を出して」


「………」


「……早く!」


「……わかった。賭けはお前の勝ちでいい。誰か、負傷者を見てやれ」


 庭のあちこちが急に騒がしくなり始めた。闘いは、本当にもう終わったのだろうな……。


「ねえ、あなた」


 暗い視界の中央に、ふっと女の姿が現れた。褐色の肌、美しい顔……エメリーか。


「あなたも早く傷を――」


 透き通った声に耳を傾けていた俺だが、気付けば体まで傾き、力が入らないまま俺はその場に倒れ込んでいた。


「きゃっ……し、しっかりして!」


 地面に激突するものと思ったが、寸前でエメリーが支えてくれたようで、重そうにしながらもゆっくりと俺の体を芝の上に横たえてくれた。


「お腹から、血が……」


「……構わず、に……」


「しゃべらないで。静かにして」


 俺を見下ろす真剣な顔がかすれていく。耳も何だか遠い……このまま、俺は死ぬのか?


「――メリー、賭けに――った褒美――が欲しい?」


 姿は見えないが、ゼルバスの声がする。


「後で――わ。今――ての手伝いを――」


「今――でないと聞い――いぞ」


 聞き取れない……もう、何も見えない……。


「――しが欲しいのは――」


 かすかなエメリーの声を聞いてから、俺は意識を手放した。

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