五話
床を拭き終えた俺は、体を後ろへそらして腰を伸ばした。館の掃除をする毎日に慣れはしたが、体への負担はやはり辛い。この床を拭くのはもう何度目だろうか。放っておけば少しずつ汚れていくのはわかるが、こう頻繁にやらせなくてもいいような気もする。俺がさぼらず、真面目に掃除をしてきたせいで、目の届く場所は今や塵一つ落ちていない。文句も言わず、ここまで頑張っているのだ。そのうち各部屋の掃除も任されるかもしれない。そうなれば探索の幅もぐっと広がるのだが。
目的の密造現場は、大きな手がかりもなくまだ見つけられていない。見取り図でも館内に不自然な空間は見当たらないし、部下達の立ち話に耳を澄ましたりしてみても、密造酒に関連したことを聞けることはなかった。もしかしたらそれを知るのは部下の中でも一部だけなのかもしれない。たとえば、密造に関わる班と、館の警備をする班に分かれているなど、簡単に情報が漏れないよう別々にされている可能性も考えられる。だが、ボスであるゼルバスがここに住んでいる以上、密造担当者とは少なからず連絡を取っているはずだ。それがどんな形でかはわからないが、どこかに必ず証拠が残されているに違いない。その一番の候補は、やはりゼルバス本人の部屋だが、あの男は神出鬼没なところがあって、朝から出かけたかと思うと、いつの間にか部屋にいたり、今日は一日中酒を飲んでいると思うと、日が暮れた頃に部下とどこかへ行ったりと、とにかく行動がまだ読めない。俺が日程を把握しきれていないからでもあるが、他にも、どうやらゼルバスは気まぐれな性格らしく、思い立てば時間も部下の都合も考えず、いきなり行動を起こす傾向がある。忍び込んで探りたいのはやまやまだが、正当な理由でもない限り、入り込むのは危険だろう。今は廊下から眺めるのが精一杯だ。もう少し信頼を得るまでは細々と探るしかなさそうだ。当面の目標としては新入りからの脱却だな。
汚れた水の入ったバケツに雑巾をかけ、俺は腕や首をほぐしながら窓の外を眺めた。二階からは緑に染まった前庭が見下ろせ、その中を歩いている部下の姿も見える。その先には街へと続くなだらかな道が一望できる。そんな見慣れた景色に目を凝らしながら密造現場のありかを考えていた時だった。
「何してるの?」
後ろから声をかけられ、俺は振り向いた。そこには、胸元の大きく開いた、かなりきわどいドレスを着た女が立っていた。……宴で見た、ゼルバスに媚びていた女の一人だ。それにしても視線のやり場に困る格好だ。恥じらいという感覚はもうないのだろう。色気でゼルバスに気に入られればそれでいいということか。
「……何? あたしの体に何か付いてる?」
女はわざとらしく開いた胸元をちらとめくり、白く膨らんだ谷間を見せてくる――参ったな。何だか面倒な女に声をかけられたようだ。
「俺に、何か用で?」
面倒くさい気持ちを抑え、俺は努めてにこやかに聞いた。
「あんた、時々見かけるけど、新しく来たばかり?」
上目遣いの女の目が品定めをするように俺を見てくる。
「ええ、まあ……」
「じゃあ掃除してたんだ。新入りの仕事は掃除って決まってるから」
瞳に怪しい光をたたえて、女は少しずつ俺に歩み寄ってくる――もう、面倒が起こる予感しかしない。
「疲れてるんじゃない? ほら、腕がパンパンになってる」
そう言いながら女は俺の腕をゆっくり撫でるように触ってきた。やめろと言いたいのこらえ、俺は穏やかに言った。
「大丈夫です。疲れては――」
「無理はよくないわよ。あたしの部屋でマッサージしてあげる。きっと気持ちいいわよ」
女は触れた俺の腕をつかんで絡み付くように身を寄せてくる。こんな見え透いた色仕掛けに、一体誰が引っ掛かるのか。仕事の邪魔はしないでもらいたい――体を寄せてくる女の肩を俺は両手でやんわりと押し返した。
「まだ仕事の途中なので、失礼させて――」
「そんなつれないこと言うの?」
押し離した女はすぐに俺の胸にしがみ付いてきた。……本当に参ったな。
「あたしは、好みじゃない?」
甘えた顔で女は俺を見上げてくる。その視線の餌食にならないよう、俺はすぐに顔をそらした。
「あんたもあたしを見てくれないの? あの人も最近、あたしに構ってくれないし……。ねえ、この寂しさをどうにかして。あたしのこと、慰めて。お願いだから……」
なるほど。ゼルバスに与えられない温もりを、代わりに話したこともない俺で満たそうということか。何とも尻の軽い考え方だ。
「俺でなく、他の男に頼んだら――」
「皆あたしを避けるの。あの人がいるからって」
当然だ。ボスの女に手を出す勇気のある部下はいないだろうな。
「それに、あんたはここの男達の中では一番いい男よ。慰めてもらうなら、やっぱりそういう男がいいじゃない……?」
にやりと艶のある笑みを浮かべた女は、俺の首に両手を回してくる。
「ねえ、あたしの部屋で休んでいってちょうだい。遠慮はしないで」
女は体を完全に俺に預けると、艶めかしい顔で今にも口付けを迫りそうな距離まで近付いてくる。できれば押し退けたいところだが、この女の背後にはゼルバスがいる。あまり乱暴な対応はできないし、こんな些細なことで自分の立場を危うくしたくはない。まったく、頼むから別の相手を探してくれ。
「悪いんですが、早く掃除を終えないと……」
俺は首に巻き付く女の腕をほどこうとしたが、つかんだ瞬間、その腕はさらに強く巻き付いてきた。
「いーや! 来てくれるまで離れないから」
女はぎゅっと抱き付いてきて離れようとしない。……はあ、こっちにも都合と限度があるんだが。こんなところ、誰かに見られでもしたら――
「あんたが掃除さぼってたって、言いふらしてもいいんだけど……?」
勝ち誇ったような笑みが俺を見つめてそう言った。この女、たちが悪いな。
「……俺を、脅すんですか?」
「これのどこが脅しなの? その気にさせるための文句を言っただけじゃない」
「俺には脅しに聞こえますよ」
「そう? じゃあどっちでもいいわ。あたしの部屋に来て。ね?」
「それはできません」
「どうして。ちゃんと二本足で立ってるのに。その足で部屋まで歩いていくだけのことよ」
「そろそろ離してもらわないと……」
「じゃあ来てくれるって言って。じゃないとこのままよ」
「できません」
「だから、遠慮はいらないってば。あたしに、触れたくなあい……?」
女は挑発する目と声で俺に全身を押し付けてくる。その体温から逃れようと後ずされば、背後の窓の縁が腰に当たり、女から逃げることを阻んだ――苛立ちが自分の中で湧いているのがわかる。ああもう、うっとうしい女め。いい加減しつこいんだよ。お前に割く時間なんかないんだ!
俺はしがみ付く女の腕をつかむと、力尽くでほどき、押し退けた。その際、少々力を入れすぎたか、俺に押された女は後ろへ大きくよろめいて、反対側の壁に手を付いて止まった。……少しまずかったか。俺は大丈夫かと声をかけようとしたが、その前に女の口が開いた。
「何、するのさ!」
直前の色仕掛けとは打って変わり、低くなった声は怒りを込めて俺を怒鳴った。艶のあった眼差しも、声と同様に腹を立ててこちらを睨んでくる。
「すみません。ちょっと力が……どこか打っていませんか?」
よろめいただけで怪我をしていないことはわかっていたが、一応気遣いの態度を見せないとまずいと思い、聞いてみたのだが、俺を睨む女の目は、ますます吊り上がってしまった。
「何が、ちょっと力がよ! あんた、思いっきり突き飛ばそうとしたでしょ」
「そんなつもりは――」
「最低ね。か弱い女にそんなことするなんて! あの人に言い付けてやるんだから」
自分のことは棚に上げて、よく言う。だがここで言い争いをするわけにはいかない。ゼルバスに知れたら本当にどうなるかわからない。ここは低姿勢で丸く収めなければ……。
「したことはお詫びします。本当に申し訳あ――」
そこまで言った時、突然俺の手はつかまれた。見れば女が怪しく笑って俺を見ていた。
「言葉で謝られても嬉しくないの。……ねえ、どうやって示してくれる?」
つかんだ俺の手を女は指先で嫌らしくなぞってくる。……このたちの悪さ、救いようがないな。俺を責めて、もう断れないとでも思ったのだろう。こっちは始めからお断りだというのに。
「……あの、何か期待されても、俺には――」
「何をしているんだ」
不意の声に振り向くと、廊下の奥に人影が立っていた。二人の女を引き連れた男……ゼルバス!
そうわかった瞬間、女の動きは早かった。つかんでいた俺の手を離すと、こちらには見向きもせず、一直線にゼルバスの元へ駆けていった。
「やだあ、どこ行ってたの?」
猫撫で声に変わった女は、態度まで猫のようになって、ゼルバスにくねくねと身を寄せ始める。
「セオニ、お前こそどこに行っていた」
ゼルバスは歩きながら横目で女を見て聞く。
「ずっとあなたを捜してたのよ。どこにも姿がなかったから」
「本当かしら。ねえセオニ、今あの男と手をつないでなかった?」
「やっぱりコリンナにもそう見えた? じゃああたしだけの見間違いじゃなかったんだ。セオニ、一体どういうことなの? 説明してもらえるかしら」
ゼルバスが連れた二人の女は、セオニと呼ばれる女に意地悪い視線を向けながらくすくすと笑っている。同じゼルバスの女であっても、その中ではおそらく熾烈な蹴落とし合いがあるのだろう。金と愛を独り占めにするため、追い出す隙を常にうかがっているのかもしれない。そして、セオニは今まさにその隙を見せてしまった。
俺の側まで歩いてきたゼルバスは、そこで足を止めた。その目はこちらを見ることなく、俺とゼルバスの間に立つセオニに向いている。注目されるセオニは、媚びた笑顔を引きつらせ、男二人の顔を困惑したように見ていた。まあ、こういう女はただでは転ばないだろう。寂しさからの浮気心をどうやってごまかすのか、見させてもらおう。
「あ、あたし、手なんかつないでないわよ!」
「やだ、向きになってる。ますます怪しいんじゃない?」
「あたし達は嘘なんか言ってないの。見たままを言ってるだけ。だからセオニにも、ありのままに説明してほしいだけよ。ねえヴァッシュ?」
聞かれたゼルバスはセオニを険しい目で見つめている。
「……言えないのか」
「ち、違う! そんなんじゃない!」
「ならば言ってみろ。なぜ手をつないでいた」
追い詰められたセオニは歯噛みしながら落ち付きなく視線を泳がせると、次の瞬間、俺をきっと睨み、大声で言った。
「あ、あたしは手をつないでたんじゃなくて、こいつに無理矢理握られたのよ!」
俺は唖然として女の顔を見た。その表情には焦りが見える。自分ではなく、俺のせいにする見え見えの言い訳しか思い付かなかったのだろう。それにしても、本当に……同じ感想の繰り返しだ。
「離してって言っても、全然離してくれなくて――」
「あたしにはそんなふうに見えなかったけど。どっちかって言うと、セオニのほうから握ってたみたいに見えたわ」
「あたしもあたしも。ねえセオニ、嘘は駄目なんじゃない? ヴァッシュがそういうの嫌いって知ってるでしょ?」
「う、嘘じゃないってば! この男がしつこく言い寄ってきたのよ。そ、それに、あたしを突き飛ばしたんだから。最低な男よ」
自業自得の責任をすべてなすり付ける女の言葉を、俺は黙って聞いていた。こんな子供でも見抜けるような見苦しい嘘で切り抜けられると思っているのか。しかし、これでも彼女はゼルバスの女には違いない。わかりやすい嘘でも、ゼルバスは承知で信じることも考えられる。新入りの部下より、自分の女に味方をするのが自然というものだ。そうなれば俺の立場はかなりまずいものになる。任務にも大きな影響を受けるが……ゼルバスはどういう判断を下すのか。
俺を女好きの軽率な男に仕立て上げたい女は、ゼルバスに必死にすがって訴え続けていた。
「あたしはあなたを捜してただけよ。その途中でこいつにつかまったの。本当よ、あたしは何も悪くないんだから。お願い、信じて!」
「どう思う? アリピア」
「悪いけど、見苦しいわ」
「同感。セオニ、素直に謝ったほうが楽よ?」
「その男に手を出しましたって、ほら、言ってみなさいよ」
「お前達、少し黙れ」
ゼルバスは言葉でちくちくと責める女達を一睨みで黙らせると、その視線を俺に向けてきた。黄色い瞳はどこか猛獣を思わせる鋭さがあり、やはり大勢を率いるボスなのだと感じる。これほど距離が近いと、自然と身構えそうになってしまう。
「おい、セオニの言ったことは、本当なのか」
すごみの利いた声が聞いてきた。その横ではセオニが恐ろしい目付きで俺を睨んでいた。そう睨みたいのは俺のほうだ。誰のせいでこんな面倒に巻き込まれたと思っている……。俺はゼルバスを真っすぐに見据えて答えた。
「俺は何も……掃除の手を休めていたら、声をかけられて」
嘘をつく必要のない俺は正直に答えた。これにセオニの表情は焦りで紅潮し始めた。
「それで? 何て言われたんだ」
「疲れているだろうと。一緒に部屋へ行こうと誘われました。そして、慰めてほしいと――」
「何言ってんのよ! 全部嘘よ! あたしを悪者にするための出任せばっかり……許せない! ヴァッシュ、こんなやつのこと信じないで。あたしはあなたのことしか考えてないんだから!」
ゼルバスの腕にしがみ付き、セオニは懸命に訴える。だがゼルバスはそんな彼女を冷めた眼差しで見下ろしていた。
「そうか……お前とは最近、一緒に酒を飲んでいなかったが、もう俺には興味がなくなったか」
「違う! そんなことない! あたしはずっと――」
ゼルバスは腕を振ると、しがみ付くセオニを振りほどいた。
「ちょうどよかったよ。俺もな、お前には飽きていたところだ」
「えっ……ま、待ってよ」
「もう好きなところに行っていいぞ。荷物をまとめて、今日中にここから出ていけ」
突き放すゼルバスに、セオニは呆然自失になっている。それを女二人は声を殺し笑って眺めていた。
すると、ゼルバスが再び俺に顔を向けた。鋭さのあった表情は少し緩んでいる。
「悪かったな。代わりに俺が謝ろう」
意外な態度に俺は面食らって、口を開くのが若干遅れた。
「……や、やめてください。ボスが謝る必要は……」
「俺の女が迷惑をかけたんだ。謝るのは当然だろう。詫びと言っては何だが、この女、お前にやろう。他の男に色目を使うどうしようもないやつでもいいならだがな」
ゼルバスはセオニをいちべつする。目を見開き、悲しそうな視線を送るセオニを、女達はやはりさげすむように笑っている。ゼルバスにとって、女は自分の所有物という感覚のようだ。手に入れれば常に側に置き可愛がるが、飽きればさっさと追い出し捨てる。ゼルバスは実に勝手なやつだ。自分さえ満足できればそれでいいのだろう。しかし、だからと言って俺を嘘つきに仕立て上げようとした女に同情する気はないが。
「どうだ。それとも今は女に不自由はないか」
ゼルバスの本当の部下なら、ありがたく受けるべきなのかもしれないが、俺はこれ以上、この女に構ってはいられない。まあ、そもそも浮気をする女が好きだという者がいるのかどうか疑問だが。
「不自由はないというか、こういう節操のない女は、俺はちょっと……」
そう答えると、ゼルバスは破顔した。
「節操がないか。確かにな。ではお前はどんな女が好みだ」
どんな女――俺は頭にすぐに浮かんだ姿を口に出した。
「褐色の肌を持つ、あの彼女のような――」
その瞬間、急に空気が凍り、辺りに緊張が走ったのがわかり、俺は言葉を止めた。ゼルバスを見れば、にこやかに笑っていた顔は消え、無表情ながらもどこか感情をこらえた目が俺を凝視していた。その後ろに立つ女達の様子も何か落ち付きなく、顔を伏せて大人しくなっていた。この豹変に無言でいた俺に、ゼルバスはゆっくりと、確かめるように聞いてきた。
「お前、それは、エメリーのことを言っているのか」
俺は軽くうなずく。
「はい、彼女の美しさは――」
「あれは俺の女で、一番気に入っているやつだ。知っていたか?」
ゼルバスの表情が次第に不快感を表していく。
「聞かれたことに、正直に答えただけですが……」
俺は困惑していた。何がゼルバスを怒らせているのか。エメリーの話をしたからか、その美しさを褒めようとしたからか? そんなことがゼルバスの逆鱗なのだろうか。
「俺は、知っていたかと聞いている。答えろ」
猛獣のような目が、狙いを定めるように俺を見据えてくる。
「はい、ボスにとって彼女がそういう存在だと知って――」
「……呼ぶな」
地を這うような低い声が聞こえて、俺は瞬時に口を閉じた。すると、こちらを向くぎらついたゼルバスの双眸が見る見るうちに怒りの色で満たされていくのがわかった。そして、その感情を大声にして吐き出した。
「エメリーは俺だけのものだ。お前ごときが彼女など、軽々しく呼ぶんじゃねえ!」
張り倒されそうな怒声を受け止めながら、俺ははっと思い出した。潜入した当初の宴の最中、俺は何気なくその光景を眺めていた。エメリーはどこだと聞くゼルバスに、一人の部下が、彼女は部屋にいると教えた。それにゼルバスは激怒し、その部下を殴った。エメリーのことを彼女と呼んだ、それだけの理由で。俺はゼルバスが酒に酔っていたからそんなことをしたのだと思っていたが、どうやら酒は関係なく、本気で怒っていたのだ。この状況のように。俺は彼女と何回呼んでしまったのか。こんな些細なことでも腹を立てるほど独占欲が強いと知っていれば、もう少し気を付けて話していたのだが――
そう俺が気付いたのと、ゼルバスの右腕が動き始めたのは同時だった。拳を握った手は風を切り、一直線に俺の顔に向かってくる。宴で親切に教えた部下はこの拳を食らった。当然、俺も同じ目に遭うということか……!
ヒュッと鼻先に風がかすめた。眼前に迫る拳を俺は反射的に避けていた。大振りになった右腕の勢いに引っ張られ、ゼルバスは前に数歩つんのめる。その背後で女達が息を呑む音が聞こえた。その瞬間、俺は自分の失敗に気付いた。……しまった。ここは避けるべきではなかった。正面から綺麗に拳を受けなければいけなかったのだ。そうすればこの面倒は終わるはずだった。なのに俺は……ああ、まったく馬鹿なことをした――猛烈な後悔をするも、後の祭りでしかなかった。すでに凍っていた空気は冷気を吹き散らし、俺や女達の緊張をさらに増幅させていく。脳裏には任務失敗の文字も浮かび始める。何か言うべきだろうか。しかし下手に言えばもっとこじれる可能性もある。一体どうすれば……。
迷い、口を開けずにいた俺だったが、突然低い笑い声が響いて、ゼルバスに目を向けた。肩を小刻みに震わせ、うつむいて笑っている。喉の奥を絞ったような暗く、不気味な声。それが愉快でも自嘲でもない笑いだということは誰にもわかっていた。……俺への怒りだ。笑い声には、ただそれだけしか感じられない。
やがてそれが収まると、ゼルバスは顔を上げ、立ち尽くす俺を見た。
「いい動き、するじゃねえか」
口の端に笑みを浮かべ、そう言った。だがその目は微塵も笑っていない。できればもう一度殴りかかってきてほしかった。その時は頑として動かない心積もりでいた。一発殴ってゼルバスの気が晴れるのなら、こちらとしても楽だし、そんな簡単な方法もない。一時の痛みに耐えるくらい、俺にはどうということでもないのだから――内心で身構えながら、俺は再び拳が飛んでくるのを待ち構えた。だがゼルバスはそんな俺の意に反し、腰に手を置くと、笑っていない笑みを見せて言った。
「お前のその動き、何人にまで通用するのか、見てみたいものだな。そう思わないか?」
「え、そ、そうね。見てみたいかも……」
急に聞かれた女はぎこちなく答えた。
「だそうだ。お前、腕試しをしてみろ。結果によっては、掃除仕事から外してやろう。どうだ、やるだろう?」
聞いてはいるが、ゼルバスの鋭い視線はただ一つの返事だけを強要してくる。俺に断る選択肢などまったくないと言われているようなものだ。
「……はい。ボスが言うのなら、ぜひ」
「よし、決まりだ! 後でお前を呼びに行かせるから、待っていろ。ではな」
満面の笑みを残し、ゼルバスは廊下の奥へゆっくりと消えていった。女二人も顔に戸惑いを見せつつ、その後を静かに追っていく。どうにか切り抜けたか――俺は胸の中で安堵した。ゼルバスの言った腕試しがどういうものかはわからないが、一般的なものなら、まあどうにかなるだろう。誰の反感も買わないよう、ほどほどの力加減でこなさなければ。
「もう、最悪……」
ゼルバスに捨てられた女セオニが隣でぼそりと呟いた。俺が見ると、向こうもちょうどこちらを見てきて目が合った。
「もっといたかったのに……全部あんたのせいよ! どうしてくれんのよ!」
犬が牙をむくように女は俺を怒鳴ってきた。誰のせいかもわからないような女とは話したくもない。そうしたところで時間の無駄だ。俺はだんまりを決め込み、一方的な非難の声に無反応で通した。
「――何よ、何か言いなさいよ! あたしがあの人に捨てられたから、もう相手にする価値もないってわけ? ええ?」
顔を赤くして恨みをぶつけてくる女を俺は黙って眺め続ける。すると、打っても響かないこの態度に、とうとう諦めたのか、女はくるりと向きを変えると、天を仰ぎ、大きな溜息を吐いた。
「……あたし、どうすればいいのよ。ずっとあの人に頼ってたのに……もう、終わりね――」
そう言うと女は顔だけを俺に振り向かせ、言った。
「あたしも、あんたも、もう終わり」
寂しげな、だが俺を哀れむような微笑を浮かべ、女はゼルバスの消えた方向とは逆の廊下に歩いていった。その足取りに力はない。これは女自身が作った結果だ。同情心など欠片もないし、勝手に俺を終わらせないでほしい。
やっと面倒が去り、俺は掃除の続きを始めた。ゼルバスを怒らせはしてしまったが、それほど深刻なものではないと、この時の俺は考えていた。しかし、女が残した言葉の意味を、俺はこの後知ることになる。
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