十四話

 太陽は沈んだ。窓の外は暗闇が覆う。館の廊下にはろうそくの明かりが点々とともり、生ぬるい風がそれを揺らして吹き抜けていく。それに運ばれてきたかすかな波の音に俺は耳を傾けた。小さく、穏やかな音……風の影響はない。これなら大丈夫だ。


 夜番の部下数人とすれ違うが、こちらを怪しむ様子はない。俺の姿など見慣れてしまっているようだ。今日は普段よりも遅い時間まで館にいるのだが、気にしている者は誰一人いない。このまま、上手くいくはずだ……。


 二階のエメリーの部屋の前まで来た俺は、一息吐いてから扉を軽く叩いた。


「……誰?」


 中からやや警戒した声が聞く。


「俺です」


 答えると、ぱたぱたと足音が聞こえ、扉は勢いよく開いた。


「一体どうしたの? 帰ったんじゃ……」


 驚いた顔が俺を見つめる。まだ寝支度はしていないようだ。エメリーは昼間と同じ青紫色の細身のドレスを着ていた。


「話があります。いいですか」


 俺の様子でわかったのか、エメリーは無言でうなずくと、俺を部屋に招き入れた。扉を閉め、鍵をかけると、抑えた声で聞いてきた。


「仕事は終わったのに、どうしてまだここに……何かあったの?」


 不安げな表情を浮かべるエメリーを見据え、俺は言った。


「今からここを、一緒に出るんだ」


「え、待って、それは明日のはずじゃ――」


「すまない。突然こんなことを……だが日を待っている状況ではなくなってしまったんだ」


「どういうこと? 何かまずいことでも起きたの?」


「それは……後で話そう。とにかく今は早く逃げるんだ。荷物はまとめたか?」


「え、ええ、それなら大丈夫よ」


 そう言うとエメリーは机に置いてあった横笛を取り、それを腰帯に差し込んだ。


「……それだけでいいのか?」


「楽譜は暗譜したし、この笛以外、あたしに必要なものはないわ。……それより、どうやって館を出るの? 外には夜番がたくさんいるのよ?」


「大勢でぐるりと取り囲んでいるわけじゃない。どうしたって手薄になるところはある」


 俺は抱えていた布の包みを出し、それを開いてエメリーに見せた。


「……縄梯子? って、まさか……」


「その窓からこれを使って出る」


 閉められた窓に歩み寄り、俺は全開に押し開いた。景色は黒一色だ。今夜は曇り空なのか、照らしてくれるものが何もない。ぬるい風が潮の香りを運んでくるだけだ。だが身を隠すにはちょうどいい。リントンの目を出し抜けるかはわからないが……。


 俺は縄梯子を取り出し、窓の外に垂らした。手元に付いている金属のフックを窓の縁にかけ、固定させる。


「さあ、エメリーから下りて」


「でも、外には夜番が……」


「心配いらない。いても人数は少ない。その時は俺が教える」


 館の裏側は草むらと海しかないせいか、部下達の警戒は薄い。それでも一応見回りには来るが、三十分に一回来る程度で、それさえやり過ごせば、もう誰にも見つかることはないはずだ。


「手を」


 差し出した俺の手を、エメリーは恐る恐るつかむと、窓の縁をまたぎ、外にかかる縄梯子に足をかけた。


「下が……何も見えない」


 足下を見下ろしたエメリーの表情がこわばっていた。


「握る手に力を入れていれば、何てことはない」


「やっぱり、怖いわ……」


 すくみかけているエメリーの顔をこちらに向けさせ、俺は言った。


「俺が付いている。俺が、あなたを必ず助けるから、怖がらないで」


 見つめた黒い瞳の怯えが、わずかに薄れて力を取り戻した。


「そうね……あたしには、アリオンが付いてる……」


 俺の手をぎゅっと握り、勇気を奮い立たせたエメリーは、引き締めた表情で縄梯子を下り始めようとする――その時だった。


 ドンドンと激しく扉を叩く音に、俺とエメリーは動きを止めた。


「おーい、エメリー、開けろお!」


 酒に酔った大声が扉を叩きながらエメリーを呼んでいた――ゼルバスか! こんな時に来るなんてっ……。


「エメリー、早く開けろお! いるのはわかってるぞお」


 叩く音が次第に大きくなり、扉が震えるように揺らされている。


「駄目だわ。逃げられない……一旦戻ってあたしが――」


 部屋に戻ろうとするエメリーを俺は制した。


「行くんだ。ここは俺がどうにかする」


「どうにかって、アリオンだけじゃあの人は――」


「あなたがやつに捕まったら何をされるかわからない。大丈夫だ。ここは任せて、先に行くんだ」


「でもっ……」


「おい、早く開けねえか! 何してる。ぶち破るぞ!」


 ゼルバスの口調が苛立ち始めている。扉を叩く音も、ガンッと何度も蹴っているような音に変わっている。鍵のおかげでまだ開く気配はないが、扉は音が鳴るたび、きしんだ悲鳴を上げている。本当にぶち破るつもりなのかもしれない――俺はエメリーを見つめ、言った。


「よく聞いてくれ。エメリーは一人で、この先の浜へ行くんだ」


「一人? そんな……アリオンを置いてなんかいけないわ!」


 こちらに手を伸ばそうとするエメリーの肩を押さえ、俺は続けた。


「そこに小舟を用意してある。船は漕げるね? それに乗って――」


「嫌よ! 海は怖いの。一緒じゃないと――」


「それに乗って、港まで行くんだ。俺も後から行くから、それまで人目に付かない物陰に隠れていてくれ。だがもし、一時間経っても俺が現れなければ、エメリー一人で船に――」


「アリオン、やめて……そんなこと言わないで……」


 悲愴な表情で見つめてくるエメリーに、俺は微笑みかけて言った。


「大丈夫だ。一時間であなたの元へ行けなくても、別の船で必ず追い付く。離れるのはほんの少しの間だけだ」


「本当、ね? 信じていいのね? 嘘だったらあたし、絶対に……」


 震える声が、不安に押し潰されそうなエメリーの心情を物語っていた。それでも、今は一人で行ってもらうしかないのだ。ここで時間を稼ぐ間に――俺はエメリーの顎に手を添え、赤く柔らかな唇に口付けた。


「嘘ではないと、この口付けに誓う。さあ……早く」


 一瞬瞠目するも、エメリーはすぐに表情を引き締めて言った。


「わかったわ……先に、行ってる。港で待ってるから……必ず、来て!」


 強くうなずいた俺の手を一度握り締めると、エメリーは呼吸を整えてから、意を決したように縄梯子を下りていった。俺は揺れないようにそれを押さえながら、夜番がいないか辺りを見回す。背後では依然とゼルバスががなっていた。


「エメリー! エメリー! いい加減鍵を開けろ!」


 ガタガタと取っ手をいじる音と、ガンガンと蹴飛ばす音が部屋中に響き渡る。その中にミシッと木が折れるような音が混じり始めてきた。振り向くと、扉の表面は歪み、そこに小さなひび割れが現れていた。馬鹿力め。もうすぐ穴が開きそうだ……。


 窓の下に目を戻すと、エメリーは足下を見ながら慎重に梯子を下りていっている。左右を確認するが、見回る夜番の持つ明かりは見えない。外では何も問題はなさそうだ。やがて黒い影となったエメリーが地面に着き、こちらを見上げる仕草をしているのがぼんやりと見えた。俺は身ぶりで浜へ行くよう言うと、少しためらいながらも、エメリーの影は館を離れ、草むらのあるほうへと走り出した。それを見送ってから、俺は縄梯子を窓の外に落とした。これでエメリーが逃げた証拠はなくなった。あとは――


「俺をこれ以上怒らせるな! 今すぐ開けないとただじゃ済まさねえぞ!」


 脅してどうにかしようなど、最低なやつめ。さっさとあしらって、早くエメリーの元へ行かなければ――俺は壊されそうな扉に近付き、その鍵を開けた。


「エメリー! 開け――」


 途端、不意に開いた扉のせいで、ゼルバスはつんのめるように部屋に入ってきた。


「やだあ、大丈夫? ヴァッシュ」


 廊下を見ると、そこにはいつもの女達がいて、俺とエメリーが抱き合うのを見たアリピアの姿もあった。嫌な雰囲気だ――そんな気持ちを隠し、俺は何食わぬ顔でゼルバスに声をかけた。


「ボス、こんな時間にどうしたんですか?」


 体勢を戻したゼルバスは酒で顔を少々赤くしていたが、それでも目だけは鋭く俺を睨み付けてきた。


「……てめえ、どうしてエメリーの部屋にいるんだ」


 当然の質問に俺は落ち着いて答えた。


「俺は世話係なので、その仕事で」


「ふーん、わざわざ鍵をかけて?」


 アリピアが含みのある言い方で俺を見てくる。この女……。


「エメリーはどこだ」


 俺を押し退け、ゼルバスは部屋を見回す。


「俺が掃除をしていたので、どこかへ行きましたが」


「掃除?」


「はい。持ってきた水を全部こぼしてしまって、ずっと床を拭いていたんです。邪魔になるからと少し前に出て行きました」


 するとゼルバスは俺に近付き、低い声で言った。


「おい、嘘を言うな」


「嘘では――」


「部下達は、エメリーは部屋にいると言った。他じゃ見てないんだよ」


「ボスが聞いた者が、たまたま見ていなかったんじゃ……」


「ではどうしてすぐに鍵を開けなかったんだ、え?」


「それは、言い付けられていたからです」


「何をだ」


「他の者に、部屋に入られたくないからと、自分が出ても鍵はかけておくようにと……」


「無愛想なエメリーが言いそうなことね」


 女の一人が呟いた。だがゼルバスの詰問は続く。


「扉が壊れる寸前まで開けなかったのはどうしてだ。まさか俺だと気付かなかったと言う気じゃないだろうな」


「掃除を終えてから開けようと思い……待たせたことは申し訳ありません」


「ふっ、なるほどな。俺に不快な思いをさせないために、綺麗にしてから開けようと思ったわけか……言い訳は以上か?」


 俺に不敵な笑みを見せたゼルバスは、背後の女達を見た。


「部下を呼んで来い。あと、エメリーを捜させろ」


 女二人が廊下を去っていく。残ったアリピアはにやついた表情でこちらを眺めていた。この雰囲気、やはりまずいかもしれない……。


 詰め寄ってきたゼルバスは、俺を射るように睨み付けながら言った。


「てめえの言うことが事実か嘘かはどうでもいい。今はそのつもりはなかったが、いけ好かねえとぼけたその顔を見たら、はらわたが煮え繰り返ってきた」


 酒臭い息がかかる距離までゼルバスは顔を近付けてくる。


「俺に、言うことがあるだろう?」


「何の、ことで――」


 ゼルバスの右手が俺の胸元を強く乱暴に締め上げてきた。


「エメリーに免じて、てめえを放っておいたのが間違いだったようだ。まさか陰でこそこそと手を出すゴキブリ野郎だったとは」


 俺は横目で廊下にいるアリピアを見た。口元を手で隠したその顔は、愉快な気持ちを押し殺すように笑いをこらえていた。……やはり、約束など守らなかったか。あの時のことを、女はすべて話したのだろう。よりにもよってここから逃げようとしている直前に。


「エメリーにも仕置きが必要だが、その前にてめえからだ」


「ボス、話を聞いてくだ――」


 ドンと突き飛ばされた俺は、背後の衝立に背中を打ち付けた。こちらの話に耳を貸さないほど、頭のてっぺんまで血が上ってしまったか。


「ゴキブリの話など、誰が聞くと思うんだ。それとも、得意の言い訳を披露したいか?」


 ……駄目だ。誤解だとごまかしたところで、この様子では火に油を注ぐ結果になるだろう。この怒りは、そう簡単に静められそうにない……。


「ボス、何でしょうか」


 その時、廊下から数人の部下達が入ってきた。


「来たか」


 ゼルバスはその部下達に向くと言った。


「こいつを一階の広間へ連れて行け。俺のものを奪おうとした愚かさを、身をもってわからせてやる」


 事情がまだわかっていないようだったが、それでも部下達はゼルバスの言葉に従い、俺に歩み寄ってくる。俺への制裁はこれで二度目。前回の腕試しでもやつは俺を殺すつもりだったのだろうが、エメリーのおかげもあってどうにか助かることができた。だが今回は味方になってくれそうな者は一人もいない。しかも二度目だ。前回仕留められなかった鬱憤を、ゼルバスは思う存分晴らしてくるに違いない。凄絶な苦しみを俺に与えながら……。捕まれば、俺は完全に殺されるだろう。しかし、そうなるわけにはいかないのだ。エメリーは今も逃げている。そんな彼女を独りきりにはさせられない。俺は守り、共に行くと決め、誓ったばかりなのだから。こんなところで、足留めされる暇など……!


「ほら、来い」


 部下の一人が俺の肩に触れようとした瞬間、その手を弾いて俺は廊下へ駆けた。


「なっ……捕まえろ!」


 部下達が一斉にこちらへ手を伸ばしてくる。腕や服をつかまれるが、振りほどき、廊下に飛び出た。


「行かせないわ!」


 アリピアが立ち塞がったかと思うと、俺の腰にしがみ付き、動きを止めようとしてきた。この女は、どこまでも邪魔を――強引に押し退け、走り出そうとしたが、その時にはもうすでに部下達に取り囲まれていた。


「よくやったぞアリピア。……さっさとそいつを連れて行け」


 部屋の入り口に立つゼルバスが指示する。部下の男達は俺にじりじりと近付いてくる。人数は六人。一度に相手をするには多いが、取り囲まれている状況なら、一人を倒せば道は開ける。ここは、やるしかない……。


 俺は廊下に立ち塞がる正面の男を見据えた。お互いが警戒して間合いをはかる。だが最初の動きは横から来た。


「ふんっ」


 俺の右側にいた男が殴りかかってきたのを難なく避けるも、それを合図のように四方から拳が飛んでくる。六人の目まぐるしい攻撃を連続で避けることはさすがにできなかった。何発も食らいながら、それでも反撃の隙を狙い、捕まえようとする手を振り払った。


「むぐっ……」


 振り抜いた拳がようやく男の顔面に当たった。小さな声を漏らして男は床に倒れ込む。その先には視界の広がった廊下が見えた。道はできた。今なら――俺は追いすがる男を蹴飛ばし、一直線に逃げ出そうとした。


「……!」


 駆け出した足を何かが引っかけ、俺はあっさりと床に転んだ。膝をしたたかに打ち付け、じんとした痛みが響く。四つん這いになり、すぐさま立ち上がろうとしたが、すぐ横に気配が現れ、俺は見上げた。


「逃げられると思うのか? 馬鹿め」


 視線の先にはこちらを冷酷に見下ろすゼルバスと、振り上げられた燭台が見えた。殴られる――そう思った時には、もう遅かった。

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