太陽のアイスバイン (abridged version)

西野ゆう

第1話

 音楽に取り憑かれてしまった者なら、憧れを持つ場所のひとつだ。古くはバロック音楽の直筆譜が保管されている。また、映画好きで「ベルリン・天使の詩」を観たものなら、その建築物としてだけでも美しい館内で、本のページを捲ってみたいと思うだろう。

 ポツダム通りのベルリン州立図書館。

 術後の説明に時間がかかってしまい、夜九時を回ってようやく仕事から開放された私は、閉館間際の図書館に向かった。

 速足で歩きながら、きつく纏め上げていた髪を解く。髪を降ろした瞬間、壊死した組織や電気メスで焼かれた筋組織の匂いを感じた。

 雪がちらつく日で良かった。寒さは匂いも、そこに付随する記憶も隠してくれる。

 図書館のドアノブに横たわるライオンも、寒さに凍えているようだ。

 利用者証を提示して、私はいつものように閲覧机が並ぶスペースをすり抜けて奥の書架へと向かった。

 少し暖房が効いている。私は匂いと記憶を封印するように髪を雑にひとつに縛った。

 その時、背後からの視線を感じた。まるで天使からの視線のようだった。遠くから見られているはずなのに、気配は直ぐ傍、頬の横に感じる。

 まさかと思いながらも、私は振り返った。

 すると、二階の観覧席から劇場の舞台を見下ろすように、二階の閲覧エリアの手すりに両肘をつき、両手で小さな顔を支えている少女と目が合った。

「こっちきて」

 聞えたわけではない。だが、少女の口は確かにそう動いていたし、手招きもしていた。私は周囲を見渡し、少女が確かに私に向けて言ったのか確認した。周りには誰もいない。少なくとも二階に目を向けている者は。

 確かに私を呼んでいるのだと認識した後、もう一度少女がいた場所を見ると、そこにはもう人の姿はなかった。私は視線を二階から降りてくる階段へ動かした。

 閉館間際とあって、利用者たちは降りてくる者の方が多い。だが、少女が降りてくる様子はなかった。

 私は今日の資料閲覧は諦め、少女がいた二階へと足を向けた。

 少しずつ気温の上昇を感じる。胸にもやもやとした嫌な記憶が渦を作る。やはり二階へ行くのは馬鹿げているのではないか。そんな言い訳をして、浮かんでくる過去の苦しいイメージから逃げようとした。

 天井からぶら下がっているいくつもの丸いランプが、私の視線と同じ高さで踊り始めた。

「じ、地震?」

 思わず階段の途中でしゃがみ込み、すれ違う淑女から「貴女、大丈夫?」と声を掛けられた。地面は揺れていない。ここはほとんど地震のないドイツだ。地震酔いなんて久しぶり起こした。

「ありがとう、大丈夫です」

 私が笑顔で答えると、淑女は安心したように私に笑顔を返した。その淑女に、声を掛けられたついでに聞いてみた。

「あの、二階に六歳くらいの女の子は居ませんでしたか?」

「六歳くらい? いいえ、もうこんな時間だしね、私は見ていませんよ」

 たしかに夜の十時前。親が付いていたとしても不自然な時間だ。

「そうですか。ありがとうございました」

 私はそのまま引き返そうかとも考えたが、地震酔いは神の啓示ではなく、悪魔の妨害ととらえて二階に向かった。

 結果はどちらだったのだろうか。少女はどこにもいなかった。ただ、彼女がいた場所に一冊の本が出されたままになっていた。

 その本を手に取る。少女には縁のない本だ。だが、私にとってはそうではない。私はその本をカウンターに持っていき、貸し出しの手続きをした。そうすべきだと思わされる本だったからだ。

「でも、どうしようか」

 あんな小さな少女が読んでいたとも思えない本。しかし、彼女が私をこの本と繋いだのは疑いようがない。

 図書館を出ると、その少女がまたしても現れた。今度は目の前だ。私の、すぐ目の前。

「一緒に帰ろ」

「え?」

「私のお家。美味しいご飯もあるから」

「あなた、天使なの?」

 私がそう少女に聞いたのは、彼女の背中に羽があったから。カウチンヤーンで編まれた赤いセーターの背中に、真っ白な羽の模様。「天使」と言われて、少女は軽く飛び跳ねた。

「これだけしか飛べないから、きっと人間だと思う」

 少女はそう言って少し笑っただけで、私の前を急ぎ足で進みだした。大人の私でもなんとかついて歩いていける速さだ。

「このアパートだよ」

 五分も歩いただろうか。私はそのアパートの住人を一人知っている。

 つい最近私が勤める病院を退院した男性の住むアパートだ。

「お嬢ちゃんって、ダミエルさんの娘さん?」

「違うよ」

 少女はそう言ったが、向かった部屋はその男性の部屋だ。

「ただいま!」

 少女がダミエルさんの部屋をノックして言うと「開いとるからどうぞ」と声がした。その声を聞いて、すぐに少女はドアを開けた。中の住人が「おかえり」と言わないのが不自然な気がした。

「あの、こんばんは。夜分遅くに……」

「ん? おや、先生か」

 住人はやはりダミエルさんだった。病院内では見たことのないダミエルさんの晴れやかな顔を見て、私は正直驚いた。

 彼の病気は現代の医学ではどうしようもできないものだった。できることは対処療法だけ。痛みが出たときに鎮痛剤を打つくらいしかない。激しい痛みと、筋肉の萎縮。四肢が彼の意思通りに動く時間もごく短くなっている。

 そして、少女が言っていた通り、美味しい食事もあるようで、さっきから空腹だった私の胃がいつ雄叫びを上げるか緊張していた。

「先生も食べていかれますか? 天使エンゲルにそう言われたんでしょう?」

「エンゲル?」

 私は隣で微笑む少女を見て目を丸くした。まさか本当に天使とは。

「名前を教えてくれんでな。仕方なくそう呼んどる」

 ダミエルさんは電動車椅子を操り、鍋から煮込んでいた塩漬けした豚スネ肉アイスバインを取り出して、一緒に煮込んでいた野菜とスープも器に盛った。アイスバインのポトフだ。

「仕方なく、エンゲルですか……」

 何やら思わせぶりな物言いだが、とりあえず今は目の前に出されたポトフで頭も心も一杯になっている。

「じゃあ、いただくか」

 テーブルの上には、二人分の食事が並んだ。どう見ても、家主と私の分だ。少女の前には何も置かれていない。

「あの、彼女の分は?」

 私がおずおずと聞くと、ダミエルさんはほんの少し肩を上げて答えた。

「エンゲルは何も食わん。だからエンゲルと呼ぶことにしたのさ」

 なるほど、と納得していいのか。私はまじまじと少女を見たが、ただ彼女は微笑むだけだった。

「ほれ先生、冷めないうちに食え」

「あ、じゃあ、遠慮なく」

 ダミエルさんはイタリア系らしい。その家系からなのか、この国で食べるアイスバインには珍しくトマトが多く合わせられている。私も初めての組み合わせだったが、アイスバインの塩気と、トマトの酸味の奥にある甘味が引き立って、ほろほろと崩れる肉に爽やかなうまみを与えていた。

「美味しいです、とても」

「でしょ!」

 なぜか少女が誇らしげにしている。ダミエルさんもそんな彼女につられて、今日一番の笑顔になった。

「トマトは太陽の分身だからな。色々なものに恵みを与える」

「へえ、そうなんですね。イタリアではそう言われているんですか?」

「いいや、儂のオヤジが言っとっただけだ」

 そういうと、ダミエルさんは少し目を細めた。その目をしたまま、しばらく時間が流れる。最初に退院を申し出た時のダミエルさんも同じ目をしていた。

 彼が退院を、いや、転院を望んだ理由を思い出し、私はつい涙を溢していた。

 そして、図書館から借りてきた本を、食器を片付けたテーブルに置いた。

 ――死を選ぶ権利と自殺ほう助のあり方

 スイスの自殺ほう助団体が出版した本だ。

 ドイツでも近年、死を選ぶ権利も一般的人格権に含まれると判決が出された。だが、私の勤める病院では、患者の自殺を援助することはない。拒否する権利も当然あるはずであり、それが病院の方針なのだ。

 事実、ダミエルさんは死を選び、私の勤める病院を去った。

 だが、それは偽りの真実。医師の中には、ビジネスとしての自殺ほう助をする医師もいる。

 私もその一人だ。そして、つい数時間前もその仕事を終えてきたところだ。

「先生、巻き込んですまんかったなあ……」

 ダミエルさんが苦痛に表情を歪めた。少女が彼の手を取る。そして私の手も。

「いや、良いんです。私も疲れていましたから」

 こうなる運命だったのだ。私は毒の存在に気付いても、私は燃える太陽の分身を身体の中に入れ続けた。

 もう世界一美しい図書館で聖書を手に取ることもない。

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太陽のアイスバイン (abridged version) 西野ゆう @ukizm

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