第3話
***
春の訪れを待たずして、一本の電話がかかってきた。それはこの半年、必死に頑張ってきてようやく手に入れた未来の切符だった。
本当は光莉にも一緒に喜んで欲しかった。でも。
『別れたいって言ったの』
光莉からそう言われたとき、僅かにではあったけれどホッとした自分がいた。これでもう就活の邪魔をされずにすむ。そんなふうに思ってしまった自分が許せなかった。
握りしめたままのスマホが鳴り響く。一瞬、光莉からかと思った。そんなことあるわけないのに。
「……はい。何、櫻井」
『今、内定の連絡が入ったから、朝人くんにも来たかなって思って』
「来てなかったらどうするつもりだったんだよ」
『私に来て朝人くんに来ないなんてあるわけないでしょ』
どんな自信だよ、と笑ってしまう。ゼミが一緒の櫻井は同じ業界を希望していて、たまたま第一志望の企業が同じだった。
「まあこれで、ひと安心だな」
『そうだね。……あの子もきっと安心するわね』
「あの子?」
櫻井の言葉に違和感を覚えた。
「あの子って誰だよ」
『あ……』
「まさかと思うけど、お前光莉に何か言ったのか?」
しばらくの沈黙のあと、櫻井は「ええ」と頷いた。
『一度、会いに行ったことがあるの。あなたの就活の邪魔をしないでほしいって。離れてほしいって言った』
「なんでそんなこと! 誰がそんなことしてくれって頼んだんだよ! お前がそんなこと言わなければ、光莉は……!」
まさか、だから光莉はあんなことを……? いや、でもそれでも――。
「違う、か。きっと俺が光莉のことを負担に思っていることに気づいたから、だから俺から離れることを選んだんだ」
櫻井の言葉はきっときっかけにしか過ぎなかった。あのまま続けていても、きっといつか関係に綻びが生じていたはずだ。
『ごめんなさい……』
「いや……。櫻井のせいじゃないよ。……じゃあ、またゼミで」
『あ……』
何か言いたそうな櫻井の声が聞こえた気がしたけれど、気づかなかったフリをしてスマホの電源を切った。
「……安心、してくれるかな」
自分のせいで、朝人の就活に支障は出ていたのでは、と光莉が心配しているのなら、無事内定が取れたよと、そう報告することで少しでも朝人に対する光莉の中の蟠りを解消できるかもしれない。会いたいからじゃない。安心させたいから。それだけ伝えたら、帰るから。
何度も何度も自分に言い訳をしながら、朝人は自宅を飛び出した。
三月の中旬だというのに、外は雪が降っていて、地面にも少し積もっている。滑らないように気をつけながら、何度も何度も通った光莉の自宅へと向かった。
「どういう、ことだよ」
たった三ヶ月来なかっただけなのに、光莉の自宅は酷く様変わりしていた。綺麗に揃えられていたはずの庭の草木は生い茂り、人の住んでいる気配が全くと言っていいほどなかった。
「なんで……」
「……今さら、何しにきたんだよ」
「純也……」
呆然と立ち尽くす朝人に声をかけたのは、隣の家の門から顔を出した純也だった。
「なあ、純也。何か知らないか? どうしてこんな……」
「もうそこには誰もいないよ」
「え……?」
「引っ越したんだ」
「引っ越し……」
そんな連絡、来ていない。そう思って――来るわけないと思い直す。朝人のために身を引いたなんて思い上がりもいいところだ。光莉は朝人に愛想を尽かして――。
「って、お前が来たら言えって言われてたんだけど!」
「え?」
怒ったように純也は言う。その言葉の真意がわからず、思わず間の抜けた声を出してしまう。
「ホントは……少し前に、息を引き取ったんだ」
「誰、が」
「……光莉が。三ヶ月前に、再発して、もう手の打ちようがなくて……」
「嘘、だろ……?」
「お前には言わないでくれって光莉に言われてたんだ。心配をかけたくないからって。自分は本当は六年前のあの時、死ぬ運命だったのに、こうやって生き長らえることができたって。……大好きな人の、大人になった姿を見ることができて幸せだったって」
「……っ!」
いても立ってもいられず走り出した朝人を純也が呼び止めた。
「三丁目の霊園! 今日、納骨だって言ってた!」
「……さんきゅ」
「あ、ちなみに手前の公園抜けると近道だから!」
純也の言葉に頷くと、朝人は一目散に駆け出した。
「……これぐらいの嘘、許されるよな」
一人残された純也の呟いた言葉は、誰の耳にも届かず真っ白な雪に溶けるように消えた、
「はぁ……はぁ……」
光莉が死んだなんて信じたくなかった。どうして一本の連絡も入れなかったのだろう。どうしてあの時、光莉を引き留めなかったのだろう。どうして、どうして、どうして……。後悔ばかりが朝人を襲った。
もうすぐ純也の言っていた公園だ。ここを抜ければ――。
「……え?」
公園のベンチに座っている人の姿を見た朝人は、思わず自分の目を疑った。そこには――。
「ひか、り……?」
「え? 朝人、くん……っ」
「待って、逃げないで!」
朝人の姿を見るなり、ベンチから立ち上がり走り出そうとした光莉の手を掴むと、朝人は必死に引き留めた。何がどうなっているのか全くわからない。けれど、もう後悔はしたくなかった。この手を話したくはなかった。たとえ幽霊だったとしてもいい。こうやってもう一度会えたのだから。
「光莉……」
「…………」
「久しぶり、だね」
「……うん」
掴んだ光莉の腕は、げっそりと痩せ細っていた。頬も痩け、どこか元気もない。
「……どうして、ここに?」
「純也に聞いたんだ。その、光莉が再発してそれで……」
「死んだって?」
「……っ」
「たちの悪い嘘をつくなぁ」
乾いた笑い声を上げる光莉に、朝人は恐る恐る尋ねた。
「生きて、るの?」
「まあ、一応」
「よか……った……。純也が、光莉の病気が再発して亡くなったなんて言うから――」
「再発したのはホントだよ」
あまりにあっけらかんと言うから、一瞬言われたことの意味が理解できなかった。
「嘘、だよね……?」
「さすがにこんな嘘、吐かないよ」
光莉は寂しそうに笑うと「座ろっか」と先程まで座っていたベンチに座り、それから口を開いた。
「三ヶ月ぐらい前にね、頭が痛くて倒れちゃって。たいしたことないと思ったのに、病院で検査したら再発したって言うんだもん。ビックリしちゃった……」
「どうして言ってくれなかったの……」
「重荷になりたくなかったから」
「重荷だなんて……!」
全くなかったと、言えるだろうか。あの頃の自分が、光莉の再発を聴いたとして、ショックを受けると同時に「またか」という想いを抱かなかったと、自信を持って言えるだろうか。
そんな朝人の気持ちが伝わってしまったのか、光莉は繋いだままだった手をそっと解いた。
「今回は手術をしてなんとかなった。でも、またいつ再発するかもわからない状態で、朝人のそばにいられないってそう思った。……私のことなんか忘れて、幸せに生きて欲しいって、そう思った」
「そんなの嫌だ!」
あの頃の朝人ならそう言われたら、ほんの少しだけ安堵したかもしれない。けれど、今の朝人は違う。解かれた手を繋ぎ直すと、隣に座る光莉を見つめた。
「一度は、もう会えないんだと覚悟した。でも、こうやってもう一度会えたんだ。俺はもう二度と、光莉のことを諦めたくなんてない」
「朝人くん……でも、私は……」
「たしかに他の人よりも一緒にいられる時間は短いのかもしれない。でも、そんなのみんな一緒だ。喧嘩して別れるかもしれない、意見が、価値観が合わなくて一緒にいたくないって思う日が来るかもしれない。俺の方が交通事故とかで死ぬことがあるかもしれない。未来なんてどうなるかわかんないんだ、だから、別れの日が来るその日まで、俺は光莉と一緒にいたい。二人で一緒に歩いて行きたい。もう二度と離れたくないんだ」
「……っ、あさ、と……く、ん……」
光莉の頬を大粒の涙がいくつも、いくつも伝い落ちていく。それを手で拭いながら、朝人は少しの不安を抱えながら、それでも光莉に尋ねた。
「答えは、くれないの?」
朝人の問いかけに光莉は「はい」と頷いてその腕の中に飛び込んだ。
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