rn_12
自分の好きなキャラクターがもしも「ポン酢飲み太郎」なんて名前だったら、本当に好きなままでいられるだろうか。
これは興味深いパラドックスだ。キャラクターのビジュアルや性格で好きになるはずなのに、名前という変え難い要素が選択肢から除外させようとしてくる。このキャラクターは好きになる、けれどポン酢飲み太郎なんて名前の人は好きになれるわけがない。
キャラクターを認識する時、私達は個性から理解するだろうか、あるいは名前からすでにふるいに掛けられるのだろうか。
つまり何が言いたいかというと、私は主人公の名前を決めるのに二時間を費やしていた。放課後の教室で、私と継未ちゃんは黙々と作業をしていた。
文芸部はお休みだけれど、特に予定もないから部活の課題に取り組む。そう聞いて、私の中で突発的に意欲が湧き上がったのだった。
よし、小説を書こう。二時間前に決意した大いなる動機は、今なお一文字も実体化していない。
思えば、私の友人はみなクリエイティブだ。夜鶴ちゃんは言うまでもないし、継未ちゃんも文芸部で執筆や書評に勤しんでいる。プロかアマチュアかという違いはあれど、私のような何の生産性も無いヒヨコと比べれば、二人とも遥か天上の人々だ。
「継未ちゃん、あのさ」
「なっなあに、陽薫ちゃん」
「何も決まらないの」
「何もって、な、何が……?」
「何もかも……エヴリシング……今眼前には白紙のメモアプリが広がっているのだよ……」
スマートデバイスを机に置いて、私はぐぐいっと背筋を伸ばした。ぼきぼきぼき、と破滅的な音が鳴り響く。
「継未ちゃんは凄いよ、すらすら書けちゃうんだもん」
「あ、わ、私なんてまだ全然だよ……雪待さんには、かっ勝てないよ」
「
「そうだね、か、格好良いよね」
私は鞄から文庫本を取り出した。夜鶴ちゃん、もとい藍波鵺宵先生の最新刊だ。
この一冊を作るのに、執筆者はもちろん編集者もいて、表紙絵をデザインした人もいて、ロゴを作った人もいて、印刷やら物流やら広報やら、とにかくたくさんの人が携わった末に私達の元へ届けられる。
それってとても凄いことだ。説明するまでもなく。そしてその大きな渦潮の中心には、夜鶴ちゃんがいる。全ては彼女が書くことで動き出す。
夢見た世界を、きっと彼女はそのまま現実のものにした。
ひとたび夢が歩き出せば、それを支える人々が傍らに集う。気がつけばそれは、巨大な
夢。私は進路希望を提出する時のことを思い出した。将来どんな人間になりたいか、ちゃんと考えなさい。それがいわば問題文だった。
「急に大人になれって強要された気分」
「どっどうしたの、急に」
「ああごめん、ふとそう思ったの。進路希望とか受験とかさ、将来の事を考えないと異常だって雰囲気あるじゃん」
でもさ。私は自販機で買った野菜ジュースを一口飲んだ。にんじんの味しか分からない。
「その割に、壮大な夢とか語るとクスクス笑わなきゃいけないって
夢を否定されたくなければ、夜鶴ちゃんのように誰よりも早く叶えてしまうしかない。私はそんな気がしていた。
現に学校中の誰も、夜鶴ちゃんの活動を笑ったりしなかった。大ベストセラーを連発するような売り方はしていないけれど、見かけの数字以上に誰もが彼女の執念に畏敬の念を抱いていたのだと思う。
「陽薫ちゃんは、その、夢があるんだよね」
「うん、あいはゔぁどりーむ。内容はまだ秘密だけどね!」
「それなら、私は応援するよ。だ、だって、きっと素敵な夢だと、おもっ思うから」
継未ちゃんは誰よりも優しい。誰よりも必要としている言葉を選んでくれる。ぎゅうっと抱きしめたらどこまでも沈み込んでゆくような、それでいて崩れ落ちることのない深い深い海のような、彼女にはそんな大人びた人間性が備わっていた。
もしも継未ちゃんの名前がポン酢飲み太郎だったとしても、私はきっと友達になっていただろうな。
そうしたら何と呼べばいいのだろう。ポン酢ちゃん? 飲みちゃん? 太郎ちゃん?
うーん。悩みながらも、先にお礼を言おうと考えた。
「ありがとう、ポンちゃん」
「ぽ、ぽんちゃん……?」
「あっごめん、思考回路が混線しちゃってた」
退室時間を知らせるカラオケルームよろしく、校舎中にチャイムが鳴り響いた。最終下校時間、平たく言えば「はよ帰れ」。
私達は途中まで同じ道を歩く。公園のある一本道で初めて出会ったのはそのためだ。その通りの途中に継未ちゃんのお家があり、もう少し奥に私のお家がある。
帰り道で言うと、夜鶴ちゃんのマンション、継未ちゃんのお家、私のお家という順番だ。最も遅刻する確率の高い人間が最も遠いという悲劇は、後世にまで語り継ぐ必要がある。
「あ、あのね、さっきの、さっきのお話なんだけど……」
帰り道の途中、ふと継未ちゃんが口を開いた。いつも私がべらべら喋って、継未ちゃんは優しく相槌をしてくれるのが通例だった。もちろん彼女から喋ることだってあるけれど、もっぱら聞き手に回るほうが落ち着くらしい。
「さっきのってどれだあ? ポン酢飲み太郎の話?」
「そ、それは初めて聞くお名前だね……それじゃなくて、将来の夢のお話」
「ああそっちね! どしたの」
「陽薫ちゃん、今はまだ秘密って言っていたけど、いつか教えてくれるのかなって」
ふむ、と顎に手を添えた。継未ちゃんなら間違いなく応援してくれるような夢だと思うんだけれど、しかし考えてしまう。
私はびっくりどっきりエンターテイナーなので、今はそうじゃないと言われても将来的にそういう大人になりたいので、つまりはびっくりさせたい。ええっ、いつの間に! そんな全世界待望の
でも、教えないって言うのは嫌だなあ。継未ちゃんに寂しい思いをさせたくないし。
「うん、いいよ。そうだなあ、いつが良いかな。受験が終わってからとか……あ、継未ちゃんって志望校どこだっけ」
彼女はとある大学の文学部志望と答えた。
文学部は偏差値いくつだっけ。たぶん結構高かった気がする。でも継未ちゃんは成績優秀だから、きっと合格するだろう。
でもそれ以上に重要なのは、
「えっ私と同じじゃん! 学部は違うけどたぶんキャンパス同じだよね」
私は同じ大学の国際学部志望だった。私は英文学科を目指している。偏差値は知らん。キャンパスがお洒落なのとここが一番英語系をしっかり学べそうだから選んだ。
「それじゃあ二人で一緒に合格してさ、入学式の日に話すよ。もし良ければ、その時は継未ちゃんの夢も聞きたいなあ」
「あ、あ、うん! 勿論! ……ありがとう、陽薫ちゃん」
ふふ、と控えめな笑みを浮かべる。
私もつられて、うひひ、と激しめの笑みを浮かべる。
「そうと決まれば勉強しなきゃね! 受験日間違えませんように!」
「た、楽しみ、だねっ」
私達はごく自然に、お互いの手を握った。ぶんぶんと前後に振って、小学生の
途中には公園がある。
夜鶴ちゃんと一緒に、初めて言葉と感情を交わしたあの場所だ。
あの猫はもう土に還っただろうか。
土に還るのと同じように、夜鶴ちゃんもまた記憶の片隅に封印しただろうか。
私はこの道を歩くたびに思い出す。名前のない野良猫のかけがえのない死と、夜鶴ちゃんの横顔を。
隣には継未ちゃんがいる。大切な友人がいる。
けれどそれと同時に、私はたまらなく夜鶴ちゃんの事を考えてしまう。
今はもう、継未ちゃんという温もりがあるのに。時々、どうしようもなく寂しくなるのは何故だろう。
「……陽薫ちゃん、大丈夫?」
はっと我に返り、眉間に寄っていた皺をぐいぐい伸ばした。
「ううん、何でもないの。ポン酢飲み太郎ってやっぱりダサい名前だよなあって考えてただけ!」
「あ、その人、なっ何者なのかな……」
ついお得意のジョークで誤魔化した。
今はまだ考えたくない。
私達には膨大な未来が待っていて、その分ありったけの可能性を未来に預けられる。
だからつい口にする。今はまだ、今はまだ。
そうして考えたくない事を未来の自分に押し付けている内は、まだまだ子供なのだろう。
そう、子供なのだ。私は全然、大人になる気がなかった。
卒業しても、大学生になっても、社会人になっても、よぼよぼのお婆ちゃんになっても。私はずっと子供のように無邪気な世界を歩きたかった。
私は子供のような七色の世界を忘れたくなかった。それだけは疑いようのない本心だった。
あの公園を通り過ぎた時、私はいっそう継未ちゃんの手をきゅうっと握った。彼女は驚きながらも優しく微笑んだ。
それだけで良かった。それだけで十分なのに。
なのに私は、子供の特権かのように何でも独り占めしたくなる。
にゃおん。
強欲な私を嗜めるように、野良猫が私達の前を横切った。
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