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「ふぉふぉっふぇ、ふふぁふふぁふんふぁっふぇ?」


「えっ、ええっと……ご、ごめんね、一文字も分かんなかった」


 おっとっと一箱分を一口で食べ切れるか、という疑問を解消すべく、いま私の口内には膨大な数のおっとっとが含まれている。必然的に喋れない。というか、口いっぱいに入れたから噛むこともままならない。

 しかし噛まない事にはどうしようもない。ゆっくりと顎を下ろし、おっとっとを噛み潰す。絶え間なく分泌される唾液により、それはふにゃふにゃにふやけていた。なので噛み砕くというより押し潰すという方が適切かもしれない。

 何とか飲み込んで、改めて継未ちゃんに尋ねた。二分くらいかかった。


「今日って、部活あるんだっけ?」


 今日も放課後の教室でしばしの憩いを満喫していたが、継未ちゃんは文芸部の活動がある。毎日あるわけではないけれど、活動日には欠かさず参加しているようだ。


「あ、うん。もうそろそろ、いっ行かなきゃ」


「それじゃあ行こっか」


 席を立って、私達は文芸部の部室まで歩いていった。


「そっそれじゃあ陽薫ちゃん、またっ、また明日……」


「うん。あ、そうだ継未ちゃん」


 扉を開けようとした継未ちゃんを呼び止める。彼女がくるりと振り返ったと同時に、私は彼女の両頬を掌でぷにゅっと押し潰した。

 タコさんみたいに尖った唇と、突然の出来事に呆然とする表情がたまらなくキュートだった。いひひ、と思わず笑みをこぼして、私は彼女の頭をぐしぐしと撫でた。


「私は継未ちゃんなら、何を言われたって怒らないよ。安心してね」


 継未ちゃんにはいつもいつもお世話になっているから、たまには私も彼女のために思いを伝えたかった。それに、何だか今日は継未ちゃんが愛おしくてたまらなかった。

 長期旅行から帰って、久しぶりにペットの猫さんと再会したような。あるいは疲れ果てて死んだように眠る赤ちゃんを見たときのような。

 不意に訪れる、それは心からの慈愛だった。

 継未ちゃんは戸惑いつつも、私の言葉をそのまま受け取ってくれた。


「あっ、あ、ありがとう……」


「うひひ。部活頑張ってね」


「う、うん、そっそれじゃあ」


 バイバイ、とお互いに手を振って別れた。

 継未ちゃんは言葉に詰まる癖がある。それは単なる癖に過ぎないのか、何らかの心理的な要因があるのかは分からない。

 どちらにせよ、もしも彼女が私に対して極度に言葉を選んでいるのなら、別に気にしないで良いんだよと言いたかった。


 例えバカでもアホでもうんちでも、私は継未ちゃんに選ばれた言葉を大切に味わいたい。

 彼女の選ぶバカってどんな声色なのだろう。彼女の選ぶアホってどんな表情なのだろう。彼女は果たしてうんちなんて言葉を発するだろうか。

 継未ちゃんが「うんち」なんて言うことあるかな。想像すると、やっぱりキュートだ。きっと赤面しながら小さな声で言うんだろうな。可愛いやつめ。

 うひひひひ。一人で勝手に妄想し、一人で勝手に笑った。靴箱にたどり着くまで、私はずっとニヤニヤしていた。



 特に用事も無いけれど、このまま真っ直ぐ帰るのも勿体無い気がして、私はセンター街の本屋さんに立ち寄った。建物の上から下まで丸ごと本屋さんで、それはもう古今東西さまざまな書籍がぎゅうぎゅう詰めになっている。

 電子書籍が主流になっても、まだまだ紙の本は現役だ。何と言っても電力を必要としないからだ。

 せっかくだし、面白そうな文庫があったら買ってみようかな。そう考えながら、小説コーナーに足を運んだ。

 コーナーの一番手前、目立つところにドラマ化やら映画化やら、仰々しい帯のついた文庫がずらりと平積みされていた。それぞれバラバラの著者名が並んでいる。小説家ってこんなに沢山存在するのか。


 もし私が小説家になったら、どんなペンネームを使おうか。姓は音峰、名は陽薫、という本名から遥か遠い名前が良いな。例えば……藍上丘樹あいうえおかきとかどうだろう。ヤバいめちゃくちゃ良いじゃん。私、天才なのでは?


 いひひ。思わず笑みがこぼれる。そこへ店員さんがずずいと寄ってきた。


「失礼致します」


 その冷めきった声色には聞き覚えがあった。あれはそう、いつだったか……一年生の春……面倒くさい自己紹介の時間……あっさりクールに終わらせたスマートな喋り方。そう、つまり!


「夜鶴ちゃん?」


 店員さんの顔を覗き込むと、確かに間違いなく夜鶴ちゃんだった。丸眼鏡をかけてはいるけれど、その美しい顔立ちに間違いはない。

 割り込んだ相手が私だと気付いた彼女は、抱えていた文庫の束を危うく落としそうになった。


「ひ、陽薫……どうして此処に」


「あ、いやあ、暇だったから何となく。夜鶴ちゃんのバイト先、ここだったんだね」


 彼女は恥ずかしそうに目をそらす。ぽすん、ぽすん、と優しく丁寧に文庫を補充する。帯の位置はぴったりと底辺部に添わせてあり、僅かな傾きもなくぴっしりと敷き詰められている。

 でも確か、こういう陳列物ってわざと崩して並ばせた方が良いんじゃなかっただろうか。余りにも綺麗にディスプレイされていると、それを壊したくない心理が働き、購買意欲が下がるとか何とか。

 でもまあ小説だし、衝動買いする類でも無いのだからいいのだろう。


「本当は不均等に並べたほうが良い。その方が手に取りやすくなるから。でも私は、整然と並ぶ小説たちの姿が好きなの」


「なるほどお……何かあれだね、開店初日みたいなワクワク感があるね」


 朝っぱらの豊洲市場に、水揚げしたばかりのでっかい魚がずらりと並ぶような、真新しい好奇心。なるほど確かに、理屈よりも感情的にこの景色を好む人は多い気がする。


「にしても夜鶴ちゃん、制服が、かわっ可愛い……!」


 白のシャツに黒のスラックス、黒のハイカットスニーカーにベージュのエプロン。そして丸眼鏡。度が入っていないようだから、伊達眼鏡ファッションなのだろう。あるいは変装ダブルオーセブンなのか。マティーニを、ステイではなくシェイクで。あれ、ステイが正解だっけ。そもそもマティーニって何だよ、ベネズエラ代表の四番バッターにいそうな名前をしおって。


「あっ、あまりじろじろ見ないで」


 彼女はポケットから小型の機器を取り出し、陳列したばかりの平積みスペースにかざした。奥から手前へと赤外線が透過していき、ピピッという音とともに何かが完了した。


「なあにそれ」


「全書籍の表紙の中には、シート状の簡易チップが含まれている。それを有効化させた。万引きしようとしても、出入り口にあるスキャナが反応し、チップから追跡信号を発信させる。要は盗難防止策よ」


「ほええ、今はそんな技術があるんだ」


「紙の本なんて衰退する一方だけれど、万引き被害数は減ることがない。盗難防止用の簡易チップはまだ試験段階だけれど、書店がいち早く導入したのはそれが理由」


「万引きって未だにあるんだね」


「ええ、アナログな世界が続く限りは無くならないと思う」


 それは悲しいお話だ。こんなにも世界は発展して、便利になって、色んな価値観や哲学が受け入れられて、時々極端な理屈に偏りつつも軌道修正してきたのに。万引きなんていう古典的な犯罪行為が無くならないなんて。

 機械は際限なく進化するのに、人間様はいつまでもお馬鹿なままだ。退化しないだけマシだろうか。それとも退化はすでに始まっているのかな。


「あ、あの、喋っているとクレームになるから……」


「それもそうか、ごめんね。これ買って帰る!」


 私は平積みになった一角から本を一つ取った。帯にはこう書いてある。「藍波鵺宵、最新作!」タイトルは『凪色のアネモネ』。


「それ、私の……」


「うん、見つけちゃった。いひひ」


「店長以外は活動のこと知らないから、言いふらさないでよ」


「もちろん。秘密は独占するから甘いんだよ」


「何それ……お買い上げありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる彼女に、


「眼鏡の夜鶴ちゃんもビューティフォーだね!」


 と百パーセントの笑顔で返した。 


 いひひ、うへへ、ぐふふ。皺一つ無いまっさらな書籍を抱えて、私はレジへとスキップしていった。今日は良い日、今日も良い日。そんな言葉を口ずさみながら。そしてお会計で、


「あばふっ!」


 お財布を持ってきていない事が判明した。今日は学校でも自販機や食堂を利用しなかったから気が付かなかった。

 思わず夜鶴ちゃんの方を見ると、彼女は他人のふりをした。私は泣く泣く、そして恥ずかしくて沸騰しそうな体温で、


「すみません、お財布取ってきます……」


 家まで全力で走った。家から全力で戻った。肺が爆発するかと思った。消費した酸素量は往年のガソリン車に匹敵するだろう。


 電子決済が八割になった世の中でも、私は物理的なお金をこよなく愛していた。

 でも例えお馬鹿になっても、便利なものは使ったほうが良い。走らなくて済むから。酸素を節約できるから。

 多分そうした方が地球に優しい。

 よし、エコロジーな人間になろう。次の日から、私は電子決済の奴隷へとジョブチェンジした。

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