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 ――天国の在り処は誰にも見えない。しかし間違いなく、彼女は夢のように白い花を抱いて眠っていた。夜明け色に染められるダチュラから、融けるほどに透き通った影が差していた。


 最後の一行を読み終えて、ほああ、と息を吐いた。夜鶴ちゃんのデビュー作、『夜明け色のダチュラ』をたった今読み終えた。

 放課後の教室。私と継未ちゃんは残って、お互いに本を読んでいた。今日は文芸部がお休みなのだ。

 顔を上げると、継未ちゃんが微笑んだ。


「あ……面白かった?」


「うん、すっごく面白かった! 他のお話も読まなきゃ」


 そういえば、と継未ちゃんに問いかける。


「継未ちゃんはこの本、もう読んだの?」


「あ、うん。あの、もう全部読んじゃった」


「凄いなあ、早いなあ。これが文芸部の力って奴か」


「そ、それはあんまり関係ないんじゃないかな……」


「それにしても凄いよね、夜鶴ちゃん」


 私は栞を挟んで本を閉じた。色とりどりの花が描かれた表紙を見ながら、私はうっすらと笑った。


「こんなに楽しいお話をいくつも書けるなんて、素敵だよね」


「楽しい、っていうよりかは……あの、哀しいお話が多い、かも」


「あ、それは確かに。この終わり方は切ないよね」


 『夜明け色のダチュラ』。

 ある日、見知らぬ花園に迷い込んだ「私」は、その最奥のベンチに座る少女と出会う。少女の周囲には、彼女を祝福するように沢山の花が咲いていた。

 いくつもの会話を重ねて、二人は心が通じ合うようになる。来る日も来る日もその花園へ訪れた。出会うたび、少女の周囲には違う種類の花が咲いていた。まるで夢の中のように時間は瞬く間に過ぎ去り、気がつけば朝のように私は花園の外で目を覚ます。


 そんな日々が続いていたが、ある日私は気づいてしまう。彼女の周囲にある花が、徐々に枯れてきているのだ。それに呼応するように、少女の生命力もまた弱りつつあった。思えばこの花園に来てから、雨が一度も降っていない。

 私は水を汲んで土に撒いたり、少女に林檎や蜜柑を食べさせたりと努力を重ねた。しかし、数日のうちにその命と花々は消えかけていた。

 私は意を決して、海の見える崖へと向かった。

 神様、どうか私の命を以って、あの花園をお救い下さい。

 私は海へと身を投げた。

 しかし、雨は降らなかった。


 花園は私の死と同時に枯れ果て、少女の身体も土へと倒れ込んだ。しかし、その手には一輪の花が握られていた。天国への手向けのように、決してその手は離さなかった。


 天国の在り処は誰にも見えない。しかし間違いなく、彼女は夢のように白い花を抱いて眠っていた。夜明け色に染められるダチュラから、融けるほどに透き通った影が差していた。



 ――という物語だ。

 百ページに満たない物語だけれど、一つの人生を追体験したような濃密な時間がそこにあった。そして二人の人物の喪失、物語の終わりという喪失、それらが急に襲いかかってきて、私はぎゅっと切なくなった。


「ああー、何かすっごく切ない! 辛い! お口直しにコボちゃんでも読もうかな……」


「ふふ、陽薫ちゃん、何だかたのっ、楽しそう」


「うん、何かねえ、映画館を出る時のふわふわした感じ? あれと似てるんだよねえ。悲しいお話でもさ、私の心にはあの子達は残り続けるんだろうなあって思うと読んで良かったなって思うの」


 この感情を、本人に直接伝えたい。貴方の物語は素晴らしいですって、冬の朝の水溜まりみたいに綺麗な世界だったって、過剰包装した「ありがとう」を伝えたい。けれど。


「夜鶴ちゃん、明日は来てくれるかなあ」


 彼女の机を見た。夜鶴ちゃんは小説の発売以降、学校を休む回数が増えた。次の執筆があるからなのか、別の理由があるからかは分からない。けれど夜鶴ちゃんの作家活動は何となく噂となって、学校中に広がっていた。図書室にもそれとなく彼女の本が追加されていた。


 ただ、誰も夜鶴ちゃんに質問攻めをしたり、サインを求めたりはしなかった。夜鶴ちゃんは夜鶴ちゃんであって、「藍波鵺宵」先生ではない。彼女自身が「雪待夜鶴=藍波鵺宵」であることを認めない限り、私達がその境界線を踏み越えちゃいけない。

 治安の良い学校であるがゆえに、秩序は保たれていた。しかし夜鶴ちゃんにとっては、遠巻きに囁かれる事がすでに煩わしかったのかもしれない。


 でも、それでも。

 私は夜鶴ちゃんに会いたい。

 面白かったって沢山感想を伝えたい。

 だから寂しいなあ。


「陽薫ちゃん、あの、あのね」


「どうしたの?」


「あの、えっと、私は雪待さんのかわっ、代わりにはなれないけど……私、陽薫ちゃんのお話を沢山、き、聞きたいなって……その、思っているから……」


 継未ちゃんは、本心を話す時に殊更言葉に詰まる傾向がある。それだけ懸命に表現を推敲して、私のためを想って伝えてくれているのだ。

 そして継未ちゃんが今伝えようとしている事は、文量に対してとてつもなくシンプルだ。私がいるのだから、寂しい顔をするなと言いたいのだ。


「ごめんね、継未ちゃん。せっかく付き合ってもらっているのに」


「あ、う、ううん。せめて雪待さんが来られるまでは、わ、私がお話を聞くよって言いたかったから……」


「本当に良い子だなあ……うん、そうだなあ。ついでにもう一つ謝らないと」


 何を、と彼女は首を傾げた。

 継未ちゃんは本当に良い子だ。誰も傷つけず、思慮深く、何よりも愛らしい。リスやハムスターのように庇護欲を刺激される。事実、継未ちゃんはクラスの皆に愛されている。

 それなのに、私は一度も夜鶴ちゃんに継未ちゃんを紹介しなかった。文芸部だし、夜鶴ちゃんの本ももちろん読んでいるし、きっと私以上に話が弾むのだと思う。

 けれど、と言うべきか。あるいはだから、なのか。


「本当はね、夜鶴ちゃんに継未ちゃんを紹介したかったの。夜鶴ちゃんはすっごく人見知りするけど、二人は気も合いそうだから。でも、どうしても出来なくって」


「わ、私は気にしてないよ」


「ううん、だってこんなに素敵な友達なんだもん。夜鶴ちゃんに知ってほしいって思っているの。でも、でもね」


 私は手をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。恥ずかしくて、身体中から湯気が出そうだった。「へそで茶を沸かす」ってこういう時に使うのかな? 何か違う気がする。


「私、夜鶴ちゃんの事を独り占めしたいの……」


 上目遣いで、恐る恐る継未ちゃんを覗いた。

 私の告白に、彼女は息を呑んで、口に手を当てた。けれどすぐ、五月のお日様くらい柔らかい笑みを返した。


「そっか……それならしょうがないね」


 継未ちゃんは私を見て、床に目を落として、今度は窓の外を見た。グラウンドから届く部活動の声に耳を澄ませるように、彼女は四角く切り取られた空を見つめていた。


「それじゃあ、私、待っているね」


 何を待つのか、複数の可能性が考えられた。

 本当は私だって彼女がどうしてほしいかなんて分かっている。けれどこれはどうしようもない本能みたいなもので、それは明確に継未ちゃんという無垢な少女を傷付けてきただろう。


 友達として、私をその輪に入れて。

 あるいは、私も一番になりたい。

 そういう感情を彼女は隠し持っているのだと私は考えた。継未ちゃんから見れば夜鶴ちゃんは友達の友達であって、それはある意味他人より遠い位置にある。友達の許可が無ければ、友達の友達に手を伸ばすなんて揉め事の火種になる。

 友達のネットワークはとても複雑で、一人ひとりの思惑が渦巻いていて、大渦潮メイルストロムくらいややこしくて危険な船旅だ。


 私が良いよと言わなければ、きっと継未ちゃんは夜鶴ちゃんに干渉できない。もし彼女が夜鶴ちゃんと仲良くなりたいと思っていても、きっと私の立場を慮り我慢するだろう。それを思うと胸が痛む。

 継未ちゃんは何も悪くないのに、私の我儘が彼女を苦しめているかもしれない。


 継未ちゃんと夜鶴ちゃん、どちらの方が大切かなんて選べない。友達に順位なんて付けられない。

 でも、それでも。

 私は夜鶴ちゃんを私だけの友達にしたいし、継未ちゃんとも友達でいたい。

 だから今は、


「ごめんね、継未ちゃん。今はそれしか言えないんだ」


 彼女の手を取って私は心から謝った。

 せめて、その寂しさの半分くらいは受け取れるように。継未ちゃんの体温をこの手で包みこんだ。


「大丈夫、私は大丈夫だよ、陽薫ちゃん……」


 継未ちゃんもまた、私の手を握り返した。

 差し込む夕日と、遠くからやってくる運動部の掛け声。どこかで上靴が床を擦り、甲高い足音が廊下を駆ける。誰かの笑い声がぼわりと響く。


 けれど私達の放課後は、私達の友情は、私達の寂しさだけは、哀しいほどに静かだった。

 私達の他に誰もいない教室で、私達だけの寂しさがそこにあった。その秘密の感情を目撃したのは、きっとお互いの持っていた本だけだっただろう。


 下校時間のチャイムが鳴るまで、私達はずっと手を繋いでいた。

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