jb_12
「夜鶴ちゃん! 完成おめでと、バステト、レッツパーリナイ!」
バステトはエジプト神話に登場する月と豊穣の神だ。黒い猫の姿で描かれることが多い。そして陽薫はたぶん、言葉の響きで選んだに過ぎないだろう。
ここしばらく、私は執筆が佳境に入っていた。対する陽薫もアルバイトに明け暮れていたらしい。なので陽薫に会うのもしばらく振りだ。たらふくは勿論、二階へ避難している。いつになれば慣れるのだろう。
無事脱稿した、と連絡すると、陽薫はケーキを持って突撃しに来た。今回書いた総文字数を伝えると、彼女は卒論の百倍くらいある、と絶句していた。
だから陽薫は私のことをしきりに褒めている。私からすれば数ある仕事の一つを終えたまでで、数日休んだら次の執筆が始まるだろう。けれどその作品一つを完成させるという事自体が凄いのだと、彼女は繰り返し語っていた。
初めて作品を完成させた日の事を思い出す。確かにあの時の私は、目の前に並ぶ色とりどりのケーキのように浮かれていたかもしれない。やった、書けた、絶対面白い。そういう自信に満ちていた。
あの頃はただ、自分だけが紡ぎ出せる言葉に夢中になっていた。私だけの文章。私だけの世界。私だけの物語。それが宝物になるのだと信じていた。
けれど言葉を重ねれば重ねるほど、私はどんどん呼吸の仕方を忘れてしまった。ただ懸命に酸素を吸って、殺されるほどの強迫観念に耐えながら原稿を書き上げる。それがずっとずっと続く。一体いつから、創作は苦しいものに変わったのだろう。
「今回のお話はいつ発売されるの?」
「今月末だよ」
「えっ、そんなに早く?」
「脱稿したと言っても、しばらく前だから」
脱稿したのは、つまり修正も終わり完成となったのが先々月の話。そこから表紙や装丁の打ち合わせを経て、現在は印刷や広報の準備に移っているはずだ。私に出来ることはもう何も無く、ただ発売をそわそわと待ち続けるしかない。
チーズケーキにフォークを差し込んで、口に含んだ。思っていたよりも濃厚で、舌触りもせせらぎのように滑らかだ。私は思わず目を見開いた。
「それ美味しいよねえ。私もよく食べるよ」
「このお店、知らなかったな……よく見つけたね」
「うん、友達が連れて行ってくれたの!」
友達。記憶がくるりと逆再生される。大学のキャンパス。素敵さを押し売りするような、きらきら輝く芝生たち。彼女の隣には確かに友達がいた。私は何も知らない、教えてもくれない「友達」が。
そう、と返事をしてコーヒーを啜った。エチオピア産の柔らかな味が喉を伝う。コスタリカやブラジルの豆も好きだけれど、エチオピアのそれは他に無い多重奏的な薫りが特徴的だ。
「夜鶴ちゃんが忙しかった間、私も死ぬほどバイトしたんだよね。だからいま超裕福なの! 遊びまくろうね!」
「単位は大丈夫なの」
「ふふん、こう見えて無傷で来ているのだよ。三年前期でほぼ終わる見込みなんだぜい」
陽薫のピースサインに、私もピースで返した。特に理由はない。陽薫は能天気なように見えて、やるべき事はちゃんとやっている。高校生の時から変わらない。授業中はよく寝ているし、起きていたって隠れて何かを食べているし、あげくの果てにはベランダにいたカマキリと戯れていたりもした。
けれど成績は優秀だったし、事実いま通っている大学だって偏差値は高めだ。
「そういえば貴方、どうして英語学科にしたの。教育学部とどちらにするか悩んでいたじゃない」
陽薫は英語が得意だ。カラオケで私が洋楽を歌っても、歌詞の意味を完璧に和訳できる。英検一級、TOEICもかなりの点数を取っていたはずだ。
とはいえ、選択肢は他にもある。英語を扱えるとしたって、それと関係ない学問を選ぶ余地はある。実際、陽薫の性格を考えれば教育の道はとても合っているように思えた。
「うーん、教職も良かったんだけどね。どうしても叶えたい夢があったから」
「どんな夢なの」
「んふふ、秘密」
にやり、と弧を描く彼女の唇にチーズケーキが運ばれる。夢。陽薫からその言葉を聞くのは初めてだ。
私は夢の半分は叶えたと言っていい。小説でご飯を食べていく。具体的には一人で生きていけるくらい稼ぐ。それは達成できている。貯金もある。
けれど叶えた夢は継続出来なければ意味がない。プロ野球選手になりたい、歌手になりたい、それらは「なった」時点で終わりとはならない。レギュラーになる事、国際大会の代表選手として選ばれる事、ヒット作を生み出し続ける事、そして何よりも忘れられない事。
イギリスに行きたい、陶芸を体験したい、そういった一回限りの願望とは大きな隔たりがある。夢というものは、簡単に目指せるものではない。
だから私は、陽薫の持つ夢が何なのかを訊いてみたかった。けれど自らの領域に踏み込まれる事を恐れる人間が、他人のそれにずかずかと入り込むというのは身勝手だと考えた。
教えて、という言葉を飲み込んで、チーズケーキを飲み込んだ。
「あ、ぼちぼちバイトの時間だ」
夕暮れ時までだらだらと喋って、時間は瞬く間に経過していた。十八時から出勤らしい。都心部にある駅前のコンビニをバイト先に選んだ理由は、観光客がよく来るからだと言っていた。英語はもちろん、最近はスペイン語も練習しているらしく、ネイティブスピーカーと話すことが一番の練習になると熱弁していた。
玄関まで送っていくと、階段からすとん、すとんと足音がした。たらふくが恐る恐るこちらを覗いていた。
「まだ早いよ」
陽薫が帰ったと勘違いしたのだな、と思いそう言ったのだが、陽薫はお腹空いたねえ、と笑いかけていた。まあ確かに、餌をやるにもまだ早い。下手に早い時間に与えたら、夜中にもう一度ねだってくる。
しかし、たらふくは階段を最後まで降りて、陽薫の足元に寄ってきた。
「わ、初めましてだ」
陽薫はそっとしゃがみ込み、たらふくに手を差し出した。くんくんと指先を匂い、うろうろと彼女の周りを回ってから、ほんの一瞬、ぺろりと陽薫の手を舐めた。
「ほえっ! こ、これは懐いてくれたと言って良いのでは!」
「そう、かも知れない……」
私は心底驚いた。あんなにも臆病極まりないたらふくが、私以外の人間に好意を見せるだなんて。私と彼とは、他人を避ける点では似た者同士だと感じていた。たぶんこれからもずっと、彼は陽薫の前に現れないものと思っていた。
しかし、彼は長い時間をかけてついに心を開いたのだ。陽薫がゆっくりと額を撫でると、彼は満足そうにふぐふぐと喉を鳴らした。
「あーもう幸せすぎる。バイトとかもうどうでもいい、永遠にこの子を撫でていたい」
顔を撫で、肉球を押し、たるんだお腹を揉んでも彼は怒らない。むしろ嬉しそうに目を細めている。
人も猫も、変わっていく。望まれる日常もいつかは変化し、あるいは欠落し、あるいは離別してゆく。
だから無性に、私は寂しくなった。
離れたく無いのだと、ようやく理解した。
「流石にもう出ないと遅刻しちゃうな、たらふく君ありがとう! それじゃ夜鶴ちゃん、また――」
扉に手をかけた彼女の腕に、私は手を伸ばした。彼女の袖に、私の指が三本だけ絡みついた。ほんの少し振り解けば容易くすり抜けるほどの弱々しい力で、私は彼女を引き止めた。
「どうしたの、夜鶴ちゃん」
陽薫は振り解かなかった。代わりに袖に縋り付く手に、自らの掌を重ねた。彼女の暖かな体温が、冷えきった私の手をじんわりと駆けてゆく。
「……陽薫」
「うん、なあに」
「あ、あの……」
行かないで。
私はそう言いたかった。
眼球が重力に押しつぶされるように下を向く。
心臓が吠えるように肋骨を叩く。
喉が締め付けられる。
「また、明日、来てくれる?」
何とか眼球を押し上げて、陽薫を捉えた。彼女は私の言葉に一瞬目を丸めて、すぐに笑みを浮かべた。向日葵のような笑顔は、私には余りにも眩しく尊いものだった。
「うん、勿論。明日も明後日も、夜鶴ちゃんが良ければ何回でも来るよ」
だから、と彼女は続ける。
「夜鶴ちゃんは独りじゃないよ」
私の手を握り、柔らかく笑みを浮かべ、そしてその体温はゆっくりと引き剥がされる。
するり、と指先が滑り落ちて、彼女の体温はみるみる失われていって、その身体は扉を隔てた向こう側へと歩いていく。
「何かあったら、いつでも相談してね。また明日」
そう言って陽薫はそっと扉を閉めた。
ぱたりという音が響き、一転して部屋の中は静かになった。私はその場に座り込んだ。
陽薫は騒がしいやつだ。本当に元気な子だ。たまに喧しく感じるし、煩わしい時だってある。
けれど不意に、柔らかな言葉を与えてくれる時もある。
陽薫は、雨のようだ。
窓を叩くそれはいつもうるさくて、眉間に皺が寄ってしまう。けれどそれがいなくなったら、途端に静けさが怖くなる。
ただそこで降り続ける雨音。
優しく地面を濡らす雫たち。
空と雲が奏でる、騒がしい鈍色のダンス。
通り過ぎてようやく、それが心音のように代え難い
陽薫という雨音を、私は心の何処かで待ち望んでいたのだ。
たとえ偏頭痛になろうとも。
たとえ耳障りだと感じても。
もはやその音色が、私を生かす心音に等しい。
けれど私は、優しい雨空にもう会えない。傘は無く、道標も無く、私は歩かなければならない。
だから立ち上がって、リビングへと歩いた。明日無き今日を願うことは、もうしない。
西暦二〇三五年六月二十六日、新作である『螺旋の海辺は灰色に眠る』が発売される。それが始まりとなる。
六月二十六日とは、『ハーメルンの笛吹き男』のモチーフになった出来事の起きた日でもある。偶然ではあるが、あらゆる偶然は必然と同義だ。
その時は私が笛を吹く。導くように、あるいは絶やすように。
私の天国に、もう雨が降らずとも。
哀しみの無い世界に、必ず貴方を連れてゆく。
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