jb_11
シャツの上からジャケットを羽織ると、途端に春を感じられた。ついこの間までコートを着ていたのに、季節はすっかり春の真ん中にある。
ブーツに足を通し、バッグを手に取る。とんとん、とつま先を整えると、私は一つ深呼吸をした。
「たらふく、お留守番をよろしくね」
けれど彼は見送りに来なかった。どうせリビングで大の字に寝ている。薄情な奴だ。
片道四十分の旅。こんなに時間をかけて移動をするのは久しぶりだ。ヘッドフォンを装着し、適当な音楽を流す。出来るだけ、いらない音を聞かずに済むように。
最寄り駅のすぐ傍には文学館と呼ばれる建物がある。この地方出身の小説家、あるいはこの近辺を舞台とした小説を特集している施設だ。
引っ越してきた時、一度行ってみようとは思っていた。けれどいつでも行ける距離にあると、人は存外足が遠のく。一応私も出身者に含まれるはずだが、仲間入りをするにはまだまだ実力も実績も不足している。
電車に揺られること二十分、着いたところに丁度バスが来て、さらに二十分。目的の場所へと辿り着いた。
その建物は、スペイン風の外観を誇る由緒正しいキャンパスだった。大学という場所へ、私は初めてやってきた。だから中への入り方も歩き方もまるで知らなかった。
しかし来る前にちゃんと調べておいたから、躊躇なく門を越えて中へ入った。大学というのは、誰でも自由に出入りが出来るのだ。
ただし、過去に数度の殺傷事件が起きた影響により、多くの大学では入場時に個人認証が行われる。殆どの場合は誰かが確認する事もなく、その日の夜間にアーカイブされるだけのデータだ。しかし例えば数日以内に刃物を買っているだとか、近隣で液体燃料を買っているだとかいう履歴が含まれている場合、入場と同時に警備室へアラートが飛ぶようになっている。
大抵の場合は直接身体検査をされる上、大学側には強制退出を勧告する権利もある。
学問を受ける門戸は自由であるべきだ、という理想は素晴らしい。しかし多くの理想は、酷く愚かしい悪意によって瓦解する。あちこちにある監視カメラが、スパニッシュ・スタイルの外観を台無しにしていた。
私にとって、校舎というのは高校生で止まっている。だから大学のキャンパスがちょっとしたショッピングモールほどの大きさを持っている事に驚いた。
綺麗に刈り揃えられた芝生や、何処を見ても必ず置いてあるベンチが、異国に迷い込んだかのような非日常感を誘発させる。こんな広さの中で、果たして私は目的を達成出来るのだろうか?
ひとまず、私は喫煙所へ駆け込んだ。
若者の喫煙率は低下の一途を辿っているが、思いのほか人は多かった。それもそうだ、こんなに広いキャンパスで学部も山程あるのだから、そもそもの母数が多い。そして喫煙所なんてごく限られた所にしか無い。分煙という首輪をつけられた哀れなヘビースモーカーは、砂糖に群がる蟻のように一つ所へ集うのだ。
パーラメントに火をつけ、辺りを見回した。学校、という言葉から連想されるイメージとは何もかもが異なっていた。みんなバラバラの服を着て、バラバラの髪色をしていて、好きなように歩いている。
時刻は十二時だった。午前中の講義はまだ続いているだろうに、喫煙所にもキャンパスのそこかしこにも人はいた。
彼らは元々この時間に講義が無いのか、あるいはサボっているのだろうか。いずれにせよ、朝から夕方まで整列して机に向かっていた高校生までの日々とはまるで違って見えた。
誰かに咎められる事もなく、何処かに縛られる事もなく、彼らは人生最大の自由を謳歌しているようだった。私にはそれが、余りにも新鮮だった。
私にはその解放感が分からなかった。いつも誰かに首を絞められている気がするから。
例えば原稿の締め切り。これは仕事なのだから仕方ない。
例えば納得いく文章が作れない時。自分で自分を強迫している。こんな駄文で他人の感情は揺るがないぞ、と刃を向けられる。
例えば過去の自分と未来の自分が衝突する時。これまでの私、これからの私。それらの境界線は、一体何処にあるのだろう。
煙草の吸い殻を灰皿に落とし、もう一度時刻を確認する。十二時十五分。大学にチャイムは無いらしい。午前中の講義が終わったからか、喫煙所の近くにある建物から学生たちがぞろぞろと出てきた。
行き交う人々をちらりちらりと眺めながら、私はある期待と不安を抱いていた。
どうして私がここに来たのか、ここで何を確かめようとしているのか。それはずっと前から決めていた事だけれど、このまま答えが分からないまま帰りたい気持ちもあった。
二本目に火をつける。わずかに指先が震えていると気付く。果たして彼女は、ここを通るだろうか。この広いキャンパスで、今日ここにいるかも分からない貴方を見つけられるだろうか。
煙草の味もまともに知覚できない緊張の中、私は地面を見つめながら待っていた。きっと、きっと出会える。私は運命を信仰してはいないが、偶然というものは信じている。
「八ツ橋!」
聞き慣れた声が、雑踏の中でふわりと聞こえた。気の抜けるようなふにゃりとした声を聞いて、私は迷い子が母親と再会した瞬間のような暖かさを覚えた。
「ああ、八ツ橋も良いねえ。京都でしか買えないのは勿体無いね」
「そうだよ、八ツ橋もうなぎパイも白い恋人も、あらゆるデリシャスご当地おやつは各種コンビニ店に陳列すべきだと思うの!」
「ふふ、そうしたら毎日旅行した気分になれるね」
「どうしよう、サーターアンダギー食べたい!」
「お昼ごはん、何処にしようかな」
二人の会話はそこまで聞こえた。ゆっくりと人の波に乗って、彼女はキャンパスの奥へと歩いていった。その隣には、小柄な女の子がいた。
二人は楽しそうに、そうやって寄り添い歩くことがありふれたものであるように、ぶつかることも離れることもなくぴったりとした歩幅を保っていた。
陽薫の姿が見えなくなった。
彼女は楽しそうだった。
自由な世界で、仲の良い友達を連れて、普遍的な学生生活を満喫していた。
私には、その光景を見られただけで十分だった。
陽薫、貴方にちゃんと友達がいると分かって良かった。私のために何かを犠牲にしているわけではない、と分かって良かった。
私の他に、心を開ける相手がいて良かった。
けれど。けれど、それでも。
私は不意に寂しくなった。その隣に私がいない事が怖くなった。貴方が知らない人のように見えた。
貴方はその友達とどんな会話をするのだろうか。
貴方はその友達と何をして遊ぶのだろうか。
あるいは、その友達にだけ見せる姿はあるのだろうか。
私は瞳の縁に溜まった水分を払いたくて、瞼を閉じた。煙草を灰皿に放り捨てて、陽薫の歩いていった方とは逆の道を歩き出した。
貴方が独りでなくて良かった。それを知るために此処へ来た。
きっと後悔は無い。私がこれからどうなろうと、貴方は独りにはならないのだから。
私がどんな未来を選ぼうと、どうか笑っていて。
キャンパスの出口へ辿り着いた時には、もうこの瞳に迷いなど無かった。
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