Episode 3 - Have You Ever Seen the Rain
jb_09
私は彼女の名を叫んだ。言葉は音となり、彼女の征く海辺の果てまで届いたはずだった。
けれど、私の願いは決して報われない。矮小な祈りすらも赦されないのならば、手を伸ばしても届くことのない彼女を望むなど罪に等しい。
彼女は両手を広げ、こちらへと振り返る。ああ、その顔をよく見せて。しかし駆け寄ろうとする間もなく、自らの肉体がするりと砂浜に落ちた。
私はあと数秒で、何度目かも分からぬ死を迎える事となる。
しかしせめて、彼女の全てをこの目に遺して死に戻るのだと、私は決意していた。
貴方のそのワンピースは、そのネックレスは、その指先は、どんな色をしていただろうか。私にはもう、あらゆる色が遠く彼方へと融けてしまっていた。
命を喪うたび、私が甦るたび、この視野からは色域が欠けてゆく。初めに碧を、次に朱を、そうして紫黒すらも。
それは私の心象を再現するかのように、この海辺も、彼女の残像も、私の涙すらも、白とも黒とも言えぬ灰色の渦へと堕ちていた。
何もかもが空白になる。
何もかもが追憶になる。
何もかもが。
何もかもが。
あらゆる総てが。
私から生の祝祭を奪い去る。
私がこれから何度死のうと、再び何処かで甦ろうと、私は何の感情も抱かないような気がした。それほどまでにこの海は、何色の音も奏でなかった。
私はただ、貴方を知りたいだけなのに。
貴方はどんな言葉を紡いでくれるだろう。
貴方はどんな体温を抱いているのだろう。
ただ、願い求めただけなのに。
呪いのように、茨のように、私が彼女に手を伸ばすと同時に仮初の死を受ける罰を背負った。
生と死、邂逅と別離、いくつもの螺旋の果てに私はこの海へと還ってきた。
あと何度、貴方に会えるだろう。
あと何度、これは繰り返されるだろう。
消えゆく鼓動を覚え、私は目を閉じた。閉じた先にだけは、まだ私の色が残っていた。黒、赤、青、数え切れない血肉の色がそこにあった。
螺旋の海辺で、灰色になった私は眠りにつく。
それは限りなく静寂な、誰よりも孤独な、
――「孤独な」。この次に連なる単語を悩み続けて何時間経っただろうか。いよいよ試行錯誤にも疲れてきた。
この原稿とにらめっこしている間は自分が本当に海辺にいるのではと錯覚しそうになる。しかし仮に
一つの文章にここまで悩んでしまったら、無意識的に妥協案を選びかねない。一度休憩をして思考をリセットしよう。私は
最新作、『螺旋の海辺は灰色に眠る』はこれまでよりも多くの時間を費やしている。高校の学費を返すため、自分だけの家を建てるため、私はとんでもない速度で作品を執筆してきた。一冊分を一ヶ月で脱稿させたことも少なくない。しかし本作には半年以上を費やしていた。私としてはとても時間をかけていた。
短編、長編問わずいくつも執筆してきたが、その中でも「色彩シリーズ」と呼ばれるものを何度か出版してきた。デビュー作『夜明け色のダチュラ』に始まり、『片翼の轍は藍色を唄う』、『緋色の天使は笑わない』、『夜
直接的な繋がりは無いけれど、各作品の題名には何らかの色が含まれており、全作品共通として「同じ場所で繰り返し出会う」という展開からスタートする。
例えば『夜明け色のダチュラ』の場合、二人は庭園で出会う。出会うたびに彼女は異なる花の中に佇んでおり、少しずつその出会いは変化してゆく。
おおよそこういったフォーマットに沿って構成されている。今作も同様だ。シリーズとしてはどれも安定した売上を記録しているので、のびのびと書かせてもらえている。大ベストセラーは書けないけれど、五万人にだけ的確に刺さるものは無尽蔵に書ける。そういうニッチな作家は案外重宝されるものだ。
かつて、あるバンドが言っていた。
「この国で百万人の声援を受けるよりも、世界中で千人ずつの声援を受けるほうが私達に相応しい」
当時、私はその考え方に感銘を受けた。私はハリー・ポッターや指輪物語を生み出すことなど出来ない。世代を超え、国境を超え、誰しもに夢と興奮をもたらす言葉など紡ぎ得ない。けれど世界の何処かに、身を潜めるように小さく生きる見知らぬ貴方の喉元に、深く強く刺さる物語を創ることは出来ると思った。
私はそんな希少な読者のことを、「同志」と密かに呼んでいる。顔も名前も知らないけれど、毎回本を買ってくれる約五万人を、「同じ哀しみを飼う隣人」のように思っている。
だから発表する作品の数々は、同志たちへの贈り物に等しい。故にたった一つの単語にも、一切の妥協を認めたくはなかった。
煙草を咥えたまま、仕事部屋からリビングへと移動する。屋内は真っ暗になっていて、いつの間にか夜になっていたのだと気付いた。時刻は十九時。それでこんなに暗いのか。もう少し明るい時間が長いと思っていたけれど、夜は足が速いらしい。
「たらふく、ご飯だよ」
からんからん、と餌を銀の皿に入れると、その音を聞いてたらふくが飛んで来た。餌の時だけは俊敏に駆け、私の足元をぐるぐると回る。頬を擦り寄せ、びやぁびやぁと訴える。
それは求愛行為の一種だが、私が好きだからではなくて、私の持っているお皿が好きだからしているに過ぎない。そういう打算的な生き様がたまらなく愛おしい。
「いつもそのくらい甘えてよ」
独り言を呟きながら、お皿を床に置いた。
はぐりはぐり。たらふくは鼻息荒く餌にかぶりつく。すっかりおデブになってしまったから、そろそろ糖尿病に気をつける時期かもしれない。猫の死因は腎臓病と糖尿病が多くを占める。人間と同じように、猫も食べ過ぎれば糖尿病になるし、インスリン注射を余儀なくされる。
だから餌はあるだけ出しっぱなしにしてはいけないし、こまめに動物病院で採血をすべきなのだ。どんなに好戦的な飼い猫も、動物病院の診察台では無力だ。大統領でさえ、歯科衛生士の前では臆病な顔をするだろう。
「たらふく食べて、長生きするのよ」
たんと蓄えたお腹を撫でながら、私は微笑んだ。そう、貴方はもっともっと生きてくれないと。
ここには私と貴方がいるばかり。たまに犬のように騒がしい誰かさんも来るけれど、必ずいるわけじゃない。だからここは、私と貴方のためにある秘密基地なの。
私はここで、五年前から願い望んできたものを叶えようとしている。
高校一年生の頃、陽薫に話したあの言葉を成就させようとしている。
成功するかは分からない。けれど読者という名の同志たちへ、私は問いかけたい。世界は本当に変えられるのかを確かめたい。
かつて、ゲーテ作『若きウェルテルの悩み』が若者たちに自殺衝動を誘発させたように。
かつて、当たり前に使われていた差別表現たちを消し去ろうとしていたように。
物語は現実を侵食し得るという事を、もう一度証明したい。
「だから貴方は、一番近いところで見届けて」
何も知らない、ただ可愛いばかりの生き物に唇を当てた。祈るように、託すように、私はたらふくの頬を撫でた。
――私は、二歩先の事を考えたから。
――どういう事ぉ、何かでっかいキャンペーンでも始まるのお。
高校生当時の、陽薫のふにゃりとした声を反芻する。かつて私は、彼女に「名前の在り処」について少し話した。
なぜ偽名を使い続けたのか。なぜそうまでして、デジタルな戸籍に固執したのか。その答えを、私はあの時すでに教えていた。
「始まるんじゃない、始めるの。そう遠くない日に、どこかの誰かが」
どこかの誰かはやって来なかった。私より先に旗を振る
私の物語が貴方へと届く時。
私の願いが言葉へと
ようやく始められるのだ。
私の
「それは限りなく静寂な、誰よりも孤独な、永遠のような救済だった」
続きの文章が思い浮かび、私は仕事部屋へ飛び込んだ。
私の、私達の革命を、この物語から始めよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます