rn_08
週が明けて月曜日。しばらくぶりの登校となった私は、いつもよりかなり早く学校に着いてしまった。まだ誰もいない教室で、何をするでもなくちょこんと自分の席に腰を下ろした。
机に突っ伏しながら私は扉を見る。次に来るのがもしも夜鶴ちゃんだったら、私はどんな顔をすれば良いのだろうか。出来るなら、今日だけでいいから、寝坊していてくれないかな。
がらりんちょ。幸いにも次にやって来たのは継未ちゃんだった。
「あ、え、陽薫ちゃん? どうしたのこんな早くに」
「うおおーっ! 我が
「私も心配だったよお。だっ大丈夫、かな」
「大丈夫だよ、休んでたけどメッセージは送ってたじゃん」
継未ちゃんにはメッセージアプリで逐次報告していた。だからここ数日のことを彼女は知っている。しかし夜鶴ちゃんはというと、
拝啓フォロワー、スタバの新作うまみんちぇ。そういう呟きをする彼女が存在するのかを、私は知らない。
その後続々とクラスメイトが登校してきたが、私は一度も扉の方を見なかった。夜鶴ちゃんがやってきても、何でもない振りをしていたかったから。
――お昼休み。私は文芸部の部室まで継未ちゃんを送っていた。部室の前で、私は彼女の裾を掴んでいた。
「ああ緊張する……全身の穴という穴から謎の液体が出てきそう」
「陽薫ちゃん、お、落ち着いて。深呼吸しようっ」
すうう、はああ。肺活量には自信がある。周囲五メートルの酸素を吸い尽くさんとする呼吸で、私は心拍数を整えた。
「よよよよし、陽薫、行きます!」
裾から手を離し、意を決して廊下を走ろうとしたが、今度は継未ちゃんが私の裾を引っ張った。え、もしかして廊下を走るなとか突っ込むのかな? このタイミングで? 確かに走っちゃ駄目だけど、今だけはシチュエーション的に許されたい。
しかし継未ちゃんは私の裾を見つめて、ほんの数秒言葉を考えているようだった。彼女の方に向き直して、伝えようとしている思いを待つ。
「……あのね、陽薫ちゃん。陽薫ちゃんが休んでいる間、雪待さんの事を少し見ていたの」
失礼な事だけど、と添えてから、話を続ける。
「雪待さん、いつもみたいに読書をしていたけど、でもね、私には少し寂しそうに見えたの」
「え、どうして?」
「悩んでいるみたいに頬杖をついたりとか、お昼休みも教室を出る前に陽薫ちゃんの席を見ていたんだよ。だから、あの、だからね」
継未ちゃんは、私の両手を包んで目を合わせた。上目遣いの視線には、精一杯の感情がはっきりと色付いていた。
「きっと仲直り出来るよ。大丈夫だよ」
「……ありがとう」
彼女の手を握り返して、私は笑った。肩や膝や頭の強張った筋肉たちが、ふっと和らいでゆく様を感じた。
こくりと頷いて、私は背を向けて走り出した。夜鶴ちゃんの待つ、待っているであろうあの階段へ向けて。私の青春が走り出した。
「ろ、廊下を走ったら危ないよぉ」
そして継未ちゃんは生真面目に青春を嗜めた。
だから徒歩で向かうことになった。
階段を登る時、私達はつい一段飛ばしで駆け上がろうとする。その分脚は疲れるけれど、踏み外したら危ないけれど、私達は一段分を省略しようとする。降りる時にはちゃんと一段ずつ踏みしめるのに。
私は夜鶴ちゃんに教えてもらってから、少しずつ本を読んでいる。読書というのは慣れない行為だし、落ち着きもないから中々ページは進まない。けれど一つ気付いた事がある。
小説には、物語には、省略できない文章で出来ている。一つひとつの文章がちゃんと意味を持っていて、一文字ずつ噛み締めて読むべきものだと私は知った。
だから、人生という長大な物語でも同じことなのだと思う。読み飛ばしたり見過ごしたりしてはいけないのだと思う。怖くとも、悲しくとも、階段は一段ずつ登らなきゃいけないものだと思う。
私はそう思う。
寄り添う時も、別れる時も、一段ずつその想いを刻むべきだ。
「夜鶴ちゃん」
仄かに暗い階段の終わりに、今日も彼女は座っていた。傍らにはトートバッグが置いてあった。コンビニのサンドウィッチをこくりと飲んでから、彼女は私を見上げた。
「夜鶴ちゃん、ごめんね」
「……何が?」
「私は多分、夜鶴ちゃんを傷つけてしまったから」
「だから怒っていないって――」
「でも、夜鶴ちゃんは悲しそうだったよ」
静寂。ここには休み時間の喧騒なんて届かない。
夜鶴ちゃんは本を片手でぱたりと閉じ、階段の端に身体を詰めた。隣に座れ、ということなのだろう。
それに従い、私はすぐ隣に腰を下ろした。思えば私達は、隣り合って座ったことがなかった。いつも彼女が上の段、私は下の段に座っていた。
「どうして休んでいたの」
間近に見る彼女の顔はとても綺麗で、人間の瞳はこんなにもきらきらと輝くものなのかと驚いた。
「法事だったの。母方のお祖父ちゃんが亡くなったから」
本人の意向により、お葬式の準備は事前に段取りがついていた。せっかちな祖父らしい気遣いだった。
水曜日に母方の実家へ向かい、日曜日までにお葬式等々の通過儀礼を済ませた。母はもう一週間残って、色々な手続きをするらしい。私と父とは先に帰宅したのだった。
夜鶴ちゃんは私の説明を聞いて、そう、とだけ答えた。目を伏せて、自らの指先を見つめていた。やがて言葉の整理がついたのか、顔を上げた。
「こんな事を聞いたら、貴方は怒るかもしれない。けれど、一つだけ訊かせて」
「なに?」
「……貴方はその時、涙を流したの」
「ああ、うーん……泣いたと言えば泣いたんだけど、夜鶴ちゃんの想像する泣き方とはたぶん違うんじゃないかな」
「どういう事?」
私はお葬式の日を思い出した。
私が葬儀に出たのはずっと昔の事で、恐らく幼稚園生辺りのころ、曾祖父母のお葬式に出たきりだった。
だから自分の意思でお葬式に参列するのは初めてで、読経を聞く時間やご焼香の時間は、周りの人の動きを見て真似ていた。粗相の無いようにという責任感で一杯になり、悲しんだり思いを馳せる余裕はなかった。
一通りの手筈が終わった時、お坊さんが仰った。
「棺に蓋を致します。故人とのお顔合わせはこれが最後となります」
祖母が前へ出て、棺の中を覗き込んだ。私はその時、自分の中に意識が帰ってきたような感覚に襲われた。ただ自我を押し殺して、葬儀の邪魔にならないよう人形のように努めていた私は、明確な意識をもって祖母を見た。
その背中は余りにも寂しくて、余りにも切なかった。
「その時思ったの。ああ、お祖母ちゃんはこんなにも小さくなってしまったのに、独りぼっちでお家に帰らなきゃいけないんだって」
だから私は、亡くなった祖父へではなく、独り残された祖母へ涙を流した。
「だからね、泣いたの」
もちろん亡くなった祖父のことを思えば寂しくなるけれど、それ以上に祖母の孤独を私は嘆いた。
夜鶴ちゃんは話を聞き終えると、目を閉じて少しだけ俯いた。小さく弧を描く背中は子猫のようだった。
「そして貴方も救われるのなら……私が、始める」
独り言のように声を漏らしてから、彼女は顔を上げた。
「私は貴方を信じる。少しずつでも、信じていきたい」
だから、と言葉を続ける。
「不躾な態度を取ってしまってごめんなさい。私も、貴方を悲しませたくない」
私の目を見て、目を逸らして、もう一度私を見て、また目を逸らす。中々視線の合わない彼女の表情を見て、私はくすりと笑った。
「うん……ありがとう、夜鶴ちゃん」
夜鶴ちゃんの表情が少しだけ和らいで、左手がトートバッグの中へと突っ込まれた。するり、と取り出されたのは、ハードカバーの書籍だった。
「私は、人と会話をするのが苦手だから」
書籍を私へと向ける。
「もしも私の事を知ってくれるのなら、これを読んでほしい。私の想いも願いも、全て物語の中に刻んでいるから」
「このお名前、ペンネームってやつ?」
「ええ、そうよ」
「素敵なお名前だね。夜鶴ちゃんにぴったり」
私は本を受け取って、心から笑いかけた。
嬉しい。初めて夜鶴ちゃんと心が繋がり合ったと感じる。
表紙をめくると、袖の部分に著者のプロフィールが書かれていた。
本名や年齢等の個人情報は非公開になっており、短編となる表題作、『夜明け色のダチュラ』で新人賞を受賞、そしていくつかの書き下ろし作品を追加し、本書籍で作家デビュー。つまり夜鶴ちゃんは、今まさにプロになったばかりなのだ。
ほほお、と私は早速本編を読もうとページを捲った。
「は、恥ずかしいから自宅で読んでほしい……」
夜鶴ちゃんは視線を床に落としながら、自らの指を絡めた。その様子が子供のように愛らしくて、私は夜鶴ちゃんをぎゅうっと抱きしめたくなった。けれど彼女は背が高いのに線が細い。私の手加減知らずな抱擁で骨の二、三本くらいは折れてしまうかもしれない。だから私は我慢した。
「ありがとう夜鶴ちゃん、大切に読むからね」
だから代わりに、書籍をきゅっと抱き寄せた。新品の紙の匂いがふわりと鼻を撫でる。これが夜鶴ちゃんの創り出した世界の匂い。
「嬉しいなあ……あ、そうだ。後でサインも下さい!」
「その台詞、初めて言われた」
「やったあ、夜鶴ちゃんの初めてを貰っちゃった!」
色々と語弊のある言葉が階段の下まで響いた。夜鶴ちゃんはむうっと眉を寄せたが、怒っているわけではない。恥ずかしい時、夜鶴ちゃんは耳が赤くなる。という秘密に私は気付いた。
「これからは趣味は読書です、って答えなくちゃね」
彼女から贈られた、私だけの、私のための本。およそ三百ページの喜びは、その日から私の宝物になったのだった。
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