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 週が明けて月曜日。しばらくぶりの登校となった私は、いつもよりかなり早く学校に着いてしまった。まだ誰もいない教室で、何をするでもなくちょこんと自分の席に腰を下ろした。

 机に突っ伏しながら私は扉を見る。次に来るのがもしも夜鶴ちゃんだったら、私はどんな顔をすれば良いのだろうか。出来るなら、今日だけでいいから、寝坊していてくれないかな。


 がらりんちょ。幸いにも次にやって来たのは継未ちゃんだった。


「あ、え、陽薫ちゃん? どうしたのこんな早くに」


「うおおーっ! 我が郷愁的友人ソウルフレンド! 会いたかったよお!」


「私も心配だったよお。だっ大丈夫、かな」


「大丈夫だよ、休んでたけどメッセージは送ってたじゃん」


 継未ちゃんにはメッセージアプリで逐次報告していた。だからここ数日のことを彼女は知っている。しかし夜鶴ちゃんはというと、連絡先アカウントを知らないから私が休んでいた理由なんて知る由もない。

 拝啓フォロワー、スタバの新作うまみんちぇ。そういう呟きをする彼女が存在するのかを、私は知らない。

 その後続々とクラスメイトが登校してきたが、私は一度も扉の方を見なかった。夜鶴ちゃんがやってきても、何でもない振りをしていたかったから。


 

 ――お昼休み。私は文芸部の部室まで継未ちゃんを送っていた。部室の前で、私は彼女の裾を掴んでいた。


「ああ緊張する……全身の穴という穴から謎の液体が出てきそう」


「陽薫ちゃん、お、落ち着いて。深呼吸しようっ」


 すうう、はああ。肺活量には自信がある。周囲五メートルの酸素を吸い尽くさんとする呼吸で、私は心拍数を整えた。


「よよよよし、陽薫、行きます!」


 裾から手を離し、意を決して廊下を走ろうとしたが、今度は継未ちゃんが私の裾を引っ張った。え、もしかして廊下を走るなとか突っ込むのかな? このタイミングで? 確かに走っちゃ駄目だけど、今だけはシチュエーション的に許されたい。

 しかし継未ちゃんは私の裾を見つめて、ほんの数秒言葉を考えているようだった。彼女の方に向き直して、伝えようとしている思いを待つ。


「……あのね、陽薫ちゃん。陽薫ちゃんが休んでいる間、雪待さんの事を少し見ていたの」


 失礼な事だけど、と添えてから、話を続ける。


「雪待さん、いつもみたいに読書をしていたけど、でもね、私には少し寂しそうに見えたの」


「え、どうして?」


「悩んでいるみたいに頬杖をついたりとか、お昼休みも教室を出る前に陽薫ちゃんの席を見ていたんだよ。だから、あの、だからね」


 継未ちゃんは、私の両手を包んで目を合わせた。上目遣いの視線には、精一杯の感情がはっきりと色付いていた。


「きっと仲直り出来るよ。大丈夫だよ」


「……ありがとう」


 彼女の手を握り返して、私は笑った。肩や膝や頭の強張った筋肉たちが、ふっと和らいでゆく様を感じた。

 こくりと頷いて、私は背を向けて走り出した。夜鶴ちゃんの待つ、待っているであろうあの階段へ向けて。私の青春が走り出した。


「ろ、廊下を走ったら危ないよぉ」


 そして継未ちゃんは生真面目に青春を嗜めた。

 だから徒歩で向かうことになった。



 階段を登る時、私達はつい一段飛ばしで駆け上がろうとする。その分脚は疲れるけれど、踏み外したら危ないけれど、私達は一段分を省略しようとする。降りる時にはちゃんと一段ずつ踏みしめるのに。


 私は夜鶴ちゃんに教えてもらってから、少しずつ本を読んでいる。読書というのは慣れない行為だし、落ち着きもないから中々ページは進まない。けれど一つ気付いた事がある。

 小説には、物語には、省略できない文章で出来ている。一つひとつの文章がちゃんと意味を持っていて、一文字ずつ噛み締めて読むべきものだと私は知った。


 だから、人生という長大な物語でも同じことなのだと思う。読み飛ばしたり見過ごしたりしてはいけないのだと思う。怖くとも、悲しくとも、階段は一段ずつ登らなきゃいけないものだと思う。

 私はそう思う。

 寄り添う時も、別れる時も、一段ずつその想いを刻むべきだ。


「夜鶴ちゃん」


 仄かに暗い階段の終わりに、今日も彼女は座っていた。傍らにはトートバッグが置いてあった。コンビニのサンドウィッチをこくりと飲んでから、彼女は私を見上げた。


「夜鶴ちゃん、ごめんね」


「……何が?」


「私は多分、夜鶴ちゃんを傷つけてしまったから」


「だから怒っていないって――」


「でも、夜鶴ちゃんは悲しそうだったよ」


 静寂。ここには休み時間の喧騒なんて届かない。

 夜鶴ちゃんは本を片手でぱたりと閉じ、階段の端に身体を詰めた。隣に座れ、ということなのだろう。

 それに従い、私はすぐ隣に腰を下ろした。思えば私達は、隣り合って座ったことがなかった。いつも彼女が上の段、私は下の段に座っていた。


「どうして休んでいたの」


 間近に見る彼女の顔はとても綺麗で、人間の瞳はこんなにもきらきらと輝くものなのかと驚いた。


「法事だったの。母方のお祖父ちゃんが亡くなったから」


 本人の意向により、お葬式の準備は事前に段取りがついていた。せっかちな祖父らしい気遣いだった。

 水曜日に母方の実家へ向かい、日曜日までにお葬式等々の通過儀礼を済ませた。母はもう一週間残って、色々な手続きをするらしい。私と父とは先に帰宅したのだった。


 夜鶴ちゃんは私の説明を聞いて、そう、とだけ答えた。目を伏せて、自らの指先を見つめていた。やがて言葉の整理がついたのか、顔を上げた。


「こんな事を聞いたら、貴方は怒るかもしれない。けれど、一つだけ訊かせて」


「なに?」


「……貴方はその時、涙を流したの」


「ああ、うーん……泣いたと言えば泣いたんだけど、夜鶴ちゃんの想像する泣き方とはたぶん違うんじゃないかな」


「どういう事?」


 私はお葬式の日を思い出した。

 私が葬儀に出たのはずっと昔の事で、恐らく幼稚園生辺りのころ、曾祖父母のお葬式に出たきりだった。

 だから自分の意思でお葬式に参列するのは初めてで、読経を聞く時間やご焼香の時間は、周りの人の動きを見て真似ていた。粗相の無いようにという責任感で一杯になり、悲しんだり思いを馳せる余裕はなかった。

 一通りの手筈が終わった時、お坊さんが仰った。


「棺に蓋を致します。故人とのお顔合わせはこれが最後となります」


 祖母が前へ出て、棺の中を覗き込んだ。私はその時、自分の中に意識が帰ってきたような感覚に襲われた。ただ自我を押し殺して、葬儀の邪魔にならないよう人形のように努めていた私は、明確な意識をもって祖母を見た。

 その背中は余りにも寂しくて、余りにも切なかった。


「その時思ったの。ああ、お祖母ちゃんはこんなにも小さくなってしまったのに、独りぼっちでお家に帰らなきゃいけないんだって」


 だから私は、亡くなった祖父へではなく、独り残された祖母へ涙を流した。


「だからね、泣いたの」


 もちろん亡くなった祖父のことを思えば寂しくなるけれど、それ以上に祖母の孤独を私は嘆いた。

 夜鶴ちゃんは話を聞き終えると、目を閉じて少しだけ俯いた。小さく弧を描く背中は子猫のようだった。


「そして貴方も救われるのなら……私が、始める」


 独り言のように声を漏らしてから、彼女は顔を上げた。


「私は貴方を信じる。少しずつでも、信じていきたい」


 だから、と言葉を続ける。


「不躾な態度を取ってしまってごめんなさい。私も、貴方を悲しませたくない」


 私の目を見て、目を逸らして、もう一度私を見て、また目を逸らす。中々視線の合わない彼女の表情を見て、私はくすりと笑った。


「うん……ありがとう、夜鶴ちゃん」


 夜鶴ちゃんの表情が少しだけ和らいで、左手がトートバッグの中へと突っ込まれた。するり、と取り出されたのは、ハードカバーの書籍だった。


「私は、人と会話をするのが苦手だから」


 書籍を私へと向ける。

 藍波鵺宵あいなみやよい作、『夜明け色のダチュラ』。


「もしも私の事を知ってくれるのなら、これを読んでほしい。私の想いも願いも、全て物語の中に刻んでいるから」


「このお名前、ペンネームってやつ?」


「ええ、そうよ」


「素敵なお名前だね。夜鶴ちゃんにぴったり」


 私は本を受け取って、心から笑いかけた。

 嬉しい。初めて夜鶴ちゃんと心が繋がり合ったと感じる。

 表紙をめくると、袖の部分に著者のプロフィールが書かれていた。

 本名や年齢等の個人情報は非公開になっており、短編となる表題作、『夜明け色のダチュラ』で新人賞を受賞、そしていくつかの書き下ろし作品を追加し、本書籍で作家デビュー。つまり夜鶴ちゃんは、今まさにプロになったばかりなのだ。

 ほほお、と私は早速本編を読もうとページを捲った。


「は、恥ずかしいから自宅で読んでほしい……」


 夜鶴ちゃんは視線を床に落としながら、自らの指を絡めた。その様子が子供のように愛らしくて、私は夜鶴ちゃんをぎゅうっと抱きしめたくなった。けれど彼女は背が高いのに線が細い。私の手加減知らずな抱擁で骨の二、三本くらいは折れてしまうかもしれない。だから私は我慢した。


「ありがとう夜鶴ちゃん、大切に読むからね」


 だから代わりに、書籍をきゅっと抱き寄せた。新品の紙の匂いがふわりと鼻を撫でる。これが夜鶴ちゃんの創り出した世界の匂い。


「嬉しいなあ……あ、そうだ。後でサインも下さい!」


「その台詞、初めて言われた」


「やったあ、夜鶴ちゃんの初めてを貰っちゃった!」


 色々と語弊のある言葉が階段の下まで響いた。夜鶴ちゃんはむうっと眉を寄せたが、怒っているわけではない。恥ずかしい時、夜鶴ちゃんは耳が赤くなる。という秘密に私は気付いた。


「これからは趣味は読書です、って答えなくちゃね」

 

 彼女から贈られた、私だけの、私のための本。およそ三百ページの喜びは、その日から私の宝物になったのだった。

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