rn_07

 その日の放課後、私はシベリアの大地に立つ子鹿のように震えていた。シベリアに鹿がいるかは定かではない。とにかく緊張で震えていた。


「つつつ継未ちゃん、私、ががが頑張るよ」


「陽薫ちゃん、おっ落ち着いて、深呼吸しよう……」


「あ、あ、ありがとう献身的友人ソウルフレンド……陽薫、行きます!」


 私は歩き出す。右手を前に、右足を前に。あれ、逆だっけ? 


「陽薫ちゃん、逆、逆になってる……」


「おおお友よ、歩き方がワカラナイ」


 右手を前にしたら右足って前だっけ後ろだっけ? 

 落ち着いて考えよう。右手が前の時、右足は前か後ろかの二択で、左足も前か後ろかの二択になる。あれ、そうなると左手も前か後ろかの二択になるぞ? え? 二択と二択と二択じゃん。全部で何パターンあるんだ。難しすぎない? 歩行を覚える二歳児たち、賢すぎない?


「大丈夫、陽薫ちゃん。私、おっ応援してるから!」


 私の手を取り、継未ちゃんは精一杯の笑顔で私を励ましてくれた。良い子すぎる。天使かな?


「ありがとう! よし! いざ出陣じゃ!」


 でででー、でっでっでっでー。暴れん坊将軍!

 帰り支度をする夜鶴ちゃんに、私は恐る恐る声をかける。思えば、教室で話しかけるのはこれが初めてだと思う。


「夜鶴ちゃん、からっ、カラオケ、行こう」


 バッグの口を締めて、彼女は顔を上げた。私を見つめて、無表情のままに答える。


「本当に行くつもりだったの」


「え、そりゃあだって、行きたいし……」


 彼女は私の後方に視線を移した。振り返ると、継未ちゃんがこちらを見守っていた。しかし夜鶴ちゃんに気付かれたからか、咄嗟に目線をそらし、ぎこちなく鞄を背負って誤魔化していた。


「仲良くなりたいもん……革命的友人ソウルフレンドになりたいし……カラオケボックスってどんな人間とも仲良くなれるから、好感度上昇スターターパック的なところあるし……」


 ぶつくさと言い訳を並べる私に、夜鶴ちゃんは一つため息をついた。


「あまり長居は出来ないよ」


「えっえっ、いいの! やったあ!」


 継未ちゃんにピースをして、私は廊下へ飛び出した。夜鶴ちゃん、と手招きをして、靴箱まで走っていった。夜鶴ちゃんはその後ろで、普通に歩いてやってきた。



「よーし歌うぞお」


 パソコンが生まれ、携帯電話が台頭し、スマートフォンに移行し、拡張現実にまでテクノロジーは進化した。しかしカラオケボックスだけは時が止まったように変わらない。デンモクでぴっぴこと曲を選択すると、中身の薄いメロドラマの映像と共にでかでかと歌詞が表示される。

 私は『フライディ・チャイナタウン』を選曲した。大熱唱をする私を横目に、夜鶴ちゃんは表示される歌詞をじいっと凝視していた。


 流行りの曲にしようかとも思ったけれど、私は親あるいは祖父母の世代、つまり私が生まれるよりずっと前の歌謡曲が好きだ。

 流行は一巡するものだから、何処かのタイミングで昔の曲が再流行することは少なくない。しかし私には関係ない。私はただ、両親や祖父母と共に歌っていた思い出を反芻し続けたいのだ。


 クラスメイトの前でこれを歌うつもりはない。みんな知らない曲だろうし。けれど夜鶴ちゃんは、何を歌おうと気にしないのではないかと思った。だからこれを選んだ。手拍子もタンバリンもいらない。ただ、黙って受け入れてくれたらそれで良い。

 名曲は何年経っても名曲なんだって、みんな気付いてほしい。


 歌い終えると、夜鶴ちゃんは小さく頷いた。頬杖をついて、こめかみの辺りを人差し指でトントンと叩く。


「どうしたの、夜鶴ちゃん」


 尋ねると、


「少し待って」


 と言って、口を閉ざした。一分くらい、沈黙が続いた。隣の部屋からは最新のヒットソングを歌うお兄さんの声が聞こえる。


「……うん、なるほど。面白い」


「何が……? もしかして私、歌ってる時の顔がめっちゃ変だったりする?」


「いいえ。この時代の歌謡曲は、異国人や異邦人といった言葉が度々登場するなと思って。人種や文化の距離感を表すには丁度良い単語ね」


 歌詞を見てそんな考察をしていたなんて。

 ほええ、と呆気に取られた私を見て、彼女はふっと目をそらした。


「ごめんなさい、気にしないで」


「あ、いや、凄いなあって呆気に取られてた。そんな真面目に聴いてくれたなんて、むしろ嬉しいよ」


「……そう」


「ほら、夜鶴ちゃんも歌ってよ」


「私はいい」


「そう言わずにぃ、気遣わずに歌いたいやつ入れてよ」


 デンモクを渡すと、彼女は渋々といった表情でピピ、と音がして、モニターに曲名が映し出される。

 オアシスの『シャンペン・スーパーノヴァ』。知らない曲だ。それに洋楽。男性ボーカルだからか、彼女はキーを一つ上げて歌った。

 ゆったりとしたメロディに、夜鶴ちゃんのダウナーな歌い方がとても良く合っている。途中の間奏で、私は彼女の肩を叩いた。


「この曲、面白いね。歌詞が夢の中みたい」


「貴方、英語が分かるの」


「え、うん。私、英検準一級持ってるよ」


「えっ……そう」


「あ、夜鶴ちゃん、二番だよ」


 彼女は慌ててマイクを構える。何だかんだ、歌う時はしっかり歌うのだから可愛らしい。真面目なんだな。

その曲はとても長くて、とてもとても長くて、何ならもう終わりかな、と思った所からもう一パートあったくらい長かった。後で調べたら、七分以上あると分かった。


「夜鶴ちゃん、上手だねぇ。もっと歌おうよ」


「いえ、いい」


「それじゃあ、お喋りしよっか」


 二時間で取ったカラオケルームは、その大半をお喋りで費やした。といっても九割くらい私が喋って、夜鶴ちゃんは端的に相槌をしてくれる程度だったけれど。でも、いつもよりも沢山お話ができて私は嬉しかった。

 勉強の話。洋楽の話。映画の話。とりとめのない言葉を沢山伝えた。けれどあと十分ほどで退室時間となるタイミングで、私はどうしても知りたい事を訊いてしまった。


「夜鶴ちゃん、バイト二つやってるって本当?」


「どうして知っているの」


「噂になってるから。何か、作家さん? の活動をしているって」


「それが何」


「いやあ、凄いなって思って。想像もつかないもん。プロの作家さんのお仕事なんて」


 夜鶴ちゃんはコーラの入ったカップをこつん、と叩いて私を睨んだ。


「誰かに聞いてこいって言われたの?」


「え? ……ああ、そういうんじゃないよ。個人的な好奇心、とかかな」


「そう。なら覚えておいて。私は土足で自分の領域に入って来る人が嫌いなの」


 そんなつもりじゃ、と謝ろうとしたけれど、彼女は鞄を取って立ち上がった。時間だから、と呟いて、先に部屋を出た。

 私は急いでその背中を追った。


「待って。ごめんね夜鶴ちゃん」


「謝る必要は無いし、別に怒ってもいない」


「けど、夜鶴ちゃんに悲しい思いさせちゃったから」


 胸元で手をまごつかせる私を見て、夜鶴ちゃんはふう、と息を吐いた。前髪をすうっと撫でてから、


「……帰ろう」


 と言ってくれた。



 帰り道、私達は無言で歩いた。時々、私は夜鶴ちゃんの顔色をした。けれど彼女はやや俯きつつも、前だけを見て歩いていた。

 もしかしたら、私が前を見ていた時に彼女もまた私を見ていたかもしれない。そうだとしたら、申し訳なくなる。

 何を話したらいいか分からなくて、いっそ早くお家に着いてほしいとさえ思った。


 思えば、友達と喧嘩をするだとか、意思疎通に失敗するだとかいった事を経験した記憶がない。誰とでもある程度は親しくなれた人生だった。無論、夜鶴ちゃんのようなミステリアスな人は初めてだった。

 だから尚更、何が正解なのか分かり得ない自分に戸惑っていた。ああ、継未ちゃんがいれば、優しく背中を押してくれるだろうか。


「夜鶴ちゃん、あのさ」


 沈黙に耐えきれなくなって、私は口を開いてしまった。あのさ、の次に何を話すのか、何も決めていなかった。


「繰り返すけれど、私は怒っていないよ」


「でも」


「だから何も望んでいない」


 望んでいない。その言葉に、私は何故か腹が立った。いや、謝っている人間が急に怒るなんて変な話だけれど、とにかく一言いいたくなった。

 だから私は、道の傍らにある塀に飛び乗った。背の高い夜鶴ちゃんを、ここからなら見下ろすことができる。


「謝る権利は欲しいよ!」


 仁王立ちする私を見上げて、夜鶴ちゃんは眼を丸くした。


「どうして」


「仲良くなりたいだもん」


「あ、えっと……どうして塀に登ったの」


「あ、そっち?」


 ぴょんと塀から飛び降りると、再び彼女を見上げる目線に戻った。困ったように眉を寄せる夜鶴ちゃんを見ると、何だか居心地が悪くなってしまって、とにかく恥ずかしくて、感情のまま好き勝手に喋ってしまう自分が情けなくて、だから私は逃げたくなった。


「ごめんね、せっかくバイトお休みだったのに。私、先に帰る! ごめん!」


「え、あの」


「ごめんね夜鶴ちゃん、また明日!」


 出来るだけ、私は笑顔を見せられたと思う。だだだっと走りながら、もし振り返ったら私を見送ってくれているだろうかと考えた。けれど、もしもそこに誰もいなかったらと思うと悲しくなって、振り返らなかった。だから置いてけぼりになった夜鶴ちゃんが、どんな表情で何秒間私の背中を見送ってくれたかを私は知らない。


 明日また、謝ろう。そう自分に言い聞かせるしか無かった。仲直りのやり方を私は知らない。

 

 また明日。また明日。

 そう言い聞かせたのが火曜日の話。

 それから三日間、つまり週末まで。

 私は学校に行くことが出来なくなった。

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