jb_07

 拡張現実というものは想像以上に利便性が高い。目に映る全ての空間がモニターとなり、入力方法はバーチャルキーボードでも指でもスタイラスペンでも実行できる。

 目が覚めて、拡張用コンタクトレンズを装用すればすぐに作業を始められる。執筆は古き良きパーソナルコンピュータを使用するが、その合間にプロットを確認したり、メモを取ったりするのは拡張現実を使用する。既存のテクノロジーとの親和性が高い。これもまた、拡張現実の強みと言える。

 

 午前十時。目が覚めた私は、レンズを装用してからコーヒーを煎れた。くしゃくしゃの髪の毛を手で撫でると、思いのほか毛先が伸びている事に気がついた。髪色は何度か染めているが、長さは余り変えていない。そろそろ違う髪型を試してみても良いかもしれない。

 コーヒーを啜りながら、目の前の空間を指で払う。日常生活用の機能空間レイヤーから、仕事用のものへと遷移する。

 私の場合、仕事用のレイヤーはいくつかのフォルダで構成されている。単なるメモ、今後使いたいフレーズ、作品に対する作者としての考察など。何か思いついたら付箋をぺたりと貼り付け、後で時間がある時にフォルダへ振り分ける。そうしないと、レイヤーは付箋で埋め尽くされてしまう。


 私は整理整頓が得意な方ではないが、ことデジタルコンテンツに関しては綺麗に並べられていないと落ち着かない。幸い、大抵のコンテンツは人工知能マグノリアが中身を読み取り、適切なフォルダに振り分けてくれる。

 現実の服や食器や紙の本たちも、マグノリアが片付けてくれたら良いのに……と思う日は少なくない。けれどその面倒くささがあるからこそ、己の堕落を自制出来るのだろう。


 コーヒーとトースターを手に、パソコンの前で文章を練り上げていく。この作業は気がつくと二時間や三時間が過ぎてゆく。ピョポ、という不意に鳴った通知音で現実に引き戻される。

 陽薫からのメッセージだ。この時間に話しかけてくるのは珍しい。時刻は十五時を回っていた。恐らく講義が終わって帰るのだろう。


「夜鶴ちゃん、このアプリ使ってる!?」


 メッセージと共にアプリケーションのダウンロードリンクが貼られている。『スティッキーズ』というアプリで、私は使ったことが無かった。しかしこの間、ネットニュースでこの名前を見た記憶がある。最近流行りのARコミュニケーションツールだとか何とか。


「使ってない」


 と返事をすると、瞬く間に既読となり、また瞬く間に返信が来た。


「アプリでフレンド申請したいのー! おねがーい!」


 陽薫からこういった催促をされるのは珍しい。私が必要最小限のアプリしか手を出さないと知っているからか、それとなくお勧めはされても一緒にやろうよ、と誘われることは少ない。

 何をするアプリかもよく分かっていないけれど、こういった流行りに追随するのは大切だ。小説は流行に従う義務が無い。しかし舞台が現代であるならば、生活様式には従う必要がある。SNSではなくEメールでやり取りする女子高生なんて、リアリティの欠片もない。


 アプリをインストールし、アカウント登録画面を開く。登録にはグーグル、メタ、プレクサスなど主要な個人情報管理局セグメントとの連携に対応している。自身の個人情報シグネチャーを連携させると、自動的に親しい友人へのフレンド申請を提案される。その中から陽薫を選び、申請をした。そしてまたまた瞬く間に申請は認可された。


「ありがとうー! それ使ってさ、お外を見てほしいの!」


 玄関に向かいながら、アプリのチュートリアルを読んでみた。

 スティッキーズはキャンパスと呼ばれるインターフェイスを使うらしい。専用の機能空間レイヤーを開いておく事で、拡張現実上に様々なスタンプ、サイン、gifなどのデコレーションを表示出来るらしい。

 要は過去に流行った写真加工アプリが、生活の中で好きに使えるようになったと言える。今までは「猫のコラージュを施した写真」でしか肉体をデコレーション出来なかったが、これがあれば「常に猫のデコレーションを纏って生活できる」というわけだ。


 なるほど、いかにも流行りそうなサービスだ。それで、恐らく陽薫はデコレーションした状態で玄関先に立っているのだろう。

 果たしてどんな姿を見せたがっているのか。可愛いスタンプか、下らないジョークなのか。扉を開く前にいくつか予想は立てたが、きっと当たらない。

 陽薫はいつだって私の想像を超えてゆく。真上ではなく、斜め上の角度へと。


「じゃじゃーん!」


 陽薫の身体は巨大なうんちになっていた。リアルなものではなく、あくまでスタンプでよく見る可愛らしい絵柄の方だ。何分巨大だから、彼女の手足は半分くらいスタンプの中に埋もれてしまっている。寸胴短足になった見た目は、マスコットキャラのように可笑しなバランスをしていた。

 短くなった手足をぴょこぴょこと動かしながら、彼女は勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。


「えへへ、うんち」


「……他に無かったの」


「え、何が? 可愛いでしょ!」


 茶色いとぐろがぶんぶんと左右に揺れる。可愛いとは、何をどこまで指す言葉なのだろう。そんな哲学に囚われそうになる。


「可愛くは無いと思う」


「嘘ぉ、じゃあこっちはどう?」


 何かを操作する素振りを見せてから、彼女のデコレーションが変化する。

 今度は頭に猫耳を付け、服にはネオン色の肉球がデザインされた姿になった。サイバーパンク風のギラギラしたデコレーションだ。さっきのうんちとは比べ物にならないほどしっかりしたアレンジだ。


「そっちの方が良いよ」


「そうなの? なるほどねぇ、夜鶴ちゃんはやっぱり猫ちゃん大好きなのねぇ」


 猫の手のスタンプを付けた両手のひらをゆらゆら揺らしながら、彼女は家へと上がりこむ。お邪魔します。奇妙な恰好をしていても礼儀は欠かさない。

 さっきまで、うんちのデコレーションをして道路の真ん中に立っていたというのに。つくづく彼女の自由さと謙虚さとの同居を面白く思う。

 

「……馬鹿だなぁ」


 思わずぽつりと、心の声が漏れてしまった。しまった、と一瞬だけリビングへ向かう脚が止まったが、彼女はちょうど靴を脱いでいたところだった。聞こえていなかったかもしれない。

 ちらり、と背中越しに彼女を見る。ギラギラと輝くサイバーパンク猫耳娘のまま、陽薫は靴を揃えてこちらを向いた。


「馬鹿って言ったなあ?」


 にやり、と怒っているのか喜んでいるのか分からない表情をして、彼女は猫耳をぴょこぴょこさせた。どうやらデコレーションにはいくつかのエモートを設定出来るらしい。

 またアプリを操作し、今度は猫の尻尾を生やした。そしてぶんぶん、とそれを上下に激しく振り回す。


「怒ったぞー、怖いぞー、アフリカ象はでっかいぞお」


 引っ掻くフリをしながら、がおおと威嚇する。何も怖くない。顔は陽薫のままだもの。そして彼女は何だかんだ喜んでいると思う。

 馬鹿と言われて喜ぶ理由が分からないけれど、笑って許してくれるのだから有り難い。


「夜鶴ちゃんも何かデコろうよ、やり方教えてあげるから」


「私はいい」


「何でえ、楽しいよ。一緒にうんち君になろうよ」


「それは絶対に嫌」


 可愛いのに、と耳をしょんぼりさせる陽薫を見ると、猫耳くらいはやってみても良いかもな、と考えた。けれど言葉にはしなかった。


「あ、ちなみにちゃんとお土産もあります。今日はクソデカ! 粒あん! たい焼き!」


 取り出されたものは、通常の三倍はある大きな大きなたい焼きだった。両手で持たないと真っ二つに折れてしまいそうなほどの重量感だ。


「そんなに大きくしてどうするの」


「んー、何か大きいとお得じゃん」


「値段は普通のたい焼きと同じなの?」


「ううん、当然の権利みたいに三倍の値段だったよ」


「……次からは普通のたい焼きを三つ買ったら?」


 それじゃあ面白くないもん!

 陽薫は面白みのために買った巨大なたい焼きにかぶりついた。猫の恰好をしているからか、魚の形をしたものを食べると似合っている。

 ああ、こういう時に写真を撮ってデコレーションをするのか。それが友達とのコミュニケーションなのだ。

 溢れ出る粒あんを吸い上げる陽薫を見ながら、私は少しだけ彼女達の作る文化を理解出来た気がした。

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