jb_06
「まっ逆さーまーにー、落ちてディザイアぁー」
両手を広げ、左右にフラフラ傾きながら、陽薫はカラオケの階段を降りてゆく。二時間で目一杯歌ったからか、すっかりハイになっている。
「この後はどうするの」
もうそろそろ日没の時刻だった。もう用事がなければ、帰って執筆の続きをやらなければならない。彼女が付いてくるというのなら、晩御飯の材料を買わなければならない。
「このあとバイトなんだよねえ、ごめんね」
「ああ、そう」
「ごめんね」
「何で二回言ったの」
「本当にごめんねって思ったから」
この子はいちいち私の琴線に触れてくる。どんな音が鳴るかも分からないのに、触れただけで断ち切れてしまうほど脆いかもしれないのに、言葉を伴う掌は躊躇なくその糸を奏でてしまう。
こんなにも容易に、そして単純な言葉で、陽薫は感情の奥地へと侵入してくる。それは彼女だけの特殊能力なのか、あるいは多くの他人もまた広く扱われる常識なのか、私には分からない。
駅前まで戻ってから、私達は別れる事となる。私は自宅へ、彼女はアルバイトへ。確かチェーンの喫茶店で働いている。
「また明日、遊びに行っていいかな」
両手を後ろで組みながら、彼女は伏し目がちに尋ねる。あざといほど照れくさそうに尋ねる仕草に、私は少しだけ目を逸らす。
「良いよ、別に」
「……夜鶴ちゃんさ、滅多に断らないよね」
「断るときもあるよ」
「そりゃあさ、仕事で東京に行くとかなら断って当たり前じゃん。でも例えばさー、何となく今日は人と会うの億劫だなって日とかあるじゃん。そんなこと無い?」
「いつも億劫よ」
「じゃあ無理してOKしてくれてるの?」
陽薫はますます目を伏せてしまう。子犬みたいだ。楽しければ落ち着き無くはしゃぎ、悲しければ八の字に眉を落とす。
「そうじゃない。貴方は別に良い。良いと言うか……慣れたのかな」
「私が来るの、嫌じゃない?」
「嫌な時はそう言う」
「じゃあ明日は?」
「良いよ、別に」
オーイエー! アメリカンな喜び方をして、陽薫はバイト先へと走っていった。時間にはまだ余裕があるから、きっと走る必要は無いだろう。ただ走りたいほど嬉しかったのだ。やはり陽薫は子犬なのかもしれない。
なるほど、人間というより子犬をあやしている感覚ならば、私が彼女の滞在を許すことも合点がいく。
家には猫のたらふく、そして子犬の陽薫がいる。そう考えたら凄く自然な風景だ。私は二匹のペットを飼っているのだ。寝てばっかりのデブ猫と、お喋りで脳天気な子犬とが暮らしている。
日本語が堪能な子犬は、週の何割かを私の家で過ごす。そして残りは働いていたり、自分の家に帰っていたり。
彼女のご両親は、私の家に行ってばかりの彼女をどう思っているだろう。私は面識が無いけれど、普段どんな会話をしているのだろう。
夜鶴ちゃん家に行ってくるね、いってらっしゃい。ただそれだけの会話だろうか。私は友達の家に遊びに行く、なんて殆どしたことが無かったから想像がつかない。
家に着き、扉に手をかける。認証が行われ、自動的に解錠される。
「ただいま」
廊下に私の声が響いても、たらふくは出迎えになんて来ない。動いたらその分だけお腹が空くからだ。食に関しては賢い子だ。
「たらふく、お腹空いた?」
リビングの電気を点けると、ど真ん中で眠りこけていたたらふくがすくりと立ち上がる。
ご飯を要求するときだけ、彼の尻尾はピンと凛々しく天を向く。びやおん。独特な鳴き声とともに足元へ纏わりついてくる。そうするとかえって餌をやりにくくなるのだが、彼は甘える仕草をすれば餌を沢山くれると思い込んでいるのだろう。
「ほら、たらふく。召し上がれ」
彼は脇目もふらずにガツガツと餌を食べる。ふぐふぐと鼻息荒く、必死になってかぶりつく。
ソファに腰を落としてそれを眺めていると、部屋の中が酷く静まり返っていることに気付く。ここには私とたらふく、二人だけがいる。
たらふくは餌を食べ終えたら寝るだろう。だらしなく尻尾を投げ出して寝るだろう。
そうしたら、そこには彼のいびきと私の呼吸だけになる。ああ、やっぱり静かなものだな。改めて実感する。
子犬を飼いたくなる気持ちが分かってきた。この静けさに耐えられなくて、途方もない喧しさを赦してしまうのだろう。
たらふくの顔を撫でる。うっとりと目を細める。気持ち良さそうにぐるぐると喉を鳴らす。君は嬉しければ尻尾を振り、不満ならぶすりとした顔をする。こういうわかり易さが愛おしい。それは陽薫もよく似ていて、感情を大変分かりやすく表に出してくれる。それは私のような他人を安心させるために、わざとそうしている、なんてことはあるだろうか。子犬のような喜び方を、彼女はいつ獲得したのだろう。
けれど今はまだ、私とたらふくのふたりきり。騒がしい子犬は自分の家で眠りにつく。
明日になったら。
明日になったらまた、喧しい子犬が遊びに来る。だからそれまでは、酷く静かなこの家が私の日常だ。
「琥珀色の静寂……鈍色の沈黙……流雲に似た無音……ううん……」
静かな部屋、という状況から作品に使えそうなフレーズを考える。ふとした瞬間から私の創作は始まる。脳内の仮想世界へトリップしてしまえば、夜なんて恐ろしいほどの速度で過ぎ去ってゆく。
尻尾をふりふり、シュークリームでも持って遊びに来る明日を想像する。そして目の前でだらしなく眠るたらふくを見下ろす。
「ほら、尻尾を踏んでしまうよ」
だらりと明後日の方向に投げ出された尻尾を、私の手がつまみ上げる。そうすると彼は不服そうな顔をして、尻尾をくるりと後ろ脚の方へ隠す。
はじめからそうしなさいよ、と彼のお腹を撫でて、仕事部屋に入っていく。暖かな日常はひとまず中断。
ここからは仕事の時間。想像力の限りを尽くし、脳が焼き切れるまで文章に変換する賽の河原。
ひとたび扉をくぐれば、ここは戦場となる。引き金を引くよりもずっと複雑で孤独な、私だけの戦争だ。
戦火を起こすが如く、私は煙草に火を点けた。この紫煙が、この灰塵こそが、私を想像力の世界へと陥れる。
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