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 帰り道、私達は無言だった。私は喋りたい事が沢山あったけれど、夜鶴ちゃんは本すら持たずに黙々と地面を見つめていた。

 そういえば、お互いのお家の場所を知らない。だからいつ「さよなら」になるか分からず、ちょっとドキドキしていた。出来たら「またあした」が良い。


 しかも「夜鶴」ちゃんは戸籍名じゃないから、表札を見ても分からない。どうしよう山田とかだったら。全然イメージと違う。山田に罪はないけれど、山田のこと嫌いになりそう。せめて田中であれ。山田はどう足掻いてもドカベンを連想してしまう呪いにかかっている。


 っていうか今どきの表札って名前書かないんだよね。ARで許可した人にだけ表示させるようになっている。だから何だって話だけれど。流石に表札一つで詐欺を抑止出来るのかな。出来るんだろうな。詐欺って怖いね。


 そうこう考えているうち、夜鶴ちゃんの足が止まった。


「私、ここだから」


 彼女の背後には、それはまあそこそこ大きなマンションが建っている。


「ほえー、綺麗だねえ」


 身長百五十四センチの私なんて余りにもちっぽけに感じられるほど大きい。七階か八階建てだろうか。

 けれどふと考えた。このマンション、新築の時に広告を見た気がする。確か部屋の間取りが――。


「あれ、ここ1LDKとかじゃなかったっけ」


 そう、家族向けのマンションじゃない。一人暮らしか、あるいは新婚さんくらいの大きさしかない。

 つまり、ここは夜鶴ちゃんの実家というわけではない。


「一人暮らしだから」


「えっ、そうなの? お金とか大丈夫?」


「そっちが気になるの?」


「そっちって、他にツッコミどころあるの?」


「……いえ、何でもない」


 まあ、本当は分かっているけれど。

 聞きはしないよ、きっとそれは繊細デリケート秘密プライベートだから。


「あ、私のお家もね、もうすぐそこなんだ」


 通りを指差して話を逸らした。あと二、三分も歩けば我が家だ。一軒家。我が両親がとても頑張った。おかげで私は自分だけの秘密基地マイルームを謳歌出来ている。


「だから何だって話だけど! それじゃ、また明日ね!」


 これ以上話していたら、たぶん彼女はすごく困っていたと思う。今日一日でなんとなくその人となりが分かってきたから、私はとーっても賢いから、無闇に困らせたりなんかしない。

 だから振り返ったりせず、足取り軽く私は帰っていった。夜鶴ちゃんはさっさとエントランスへ向かっただろうか。それとも私の背中を見送ってくれただろうか。

 でもどちらでも良いや、私の姿が心の中で一ミリくらい登場してくれるなら。

 今はそれでいいんだ。友達になれたんだもの。だからその日の夜は、すごく気持ちよく寝られた。十時間くらい寝た。



 次の日の通学路。とてとてっとのんびり歩いていると、昨日の公園に差し掛かった。昨日まではただの背景だったというのに、あの出来事ひとつで大きな意味を持つ場所に変わっていた。

 そこには、夜鶴ちゃんがいた。周りと違う土の色。掘る時に使った木枝も横に添えてある。私達だけがその意味を知っている。彼女はその場所の前に立ち、ただじっと地面を見ていた。

 流石に声をかけることは憚られた。そしてこっそりと覗くこともまた失礼かもしれないと思った。私は後退りして、彼女が公園から出てくるのを待った。


 五分ほどして、夜鶴ちゃんは公園を出た。ふう、と一つ息を吐いて、鞄から本を取り出した。あ、多分いつもの夜鶴ちゃんに戻ったんだな、と理解して、私はそこへ駆け寄った。あたかも遅れてやってきた体を装って。


「おはよう、夜鶴ちゃん」


「……お、おはよう」


 中々目線を合わせてくれない。照れている? いや、そういう人柄じゃないと思う。なら困っている? それはあるかもしれない。昨日の今日でどう振る舞ったら良いか、分からないのは私も同じだ。


「一緒でもいい?」


 学校の方角を指さして、私は尋ねる。彼女は本を握りしめながら、俯いた。


「……でも、私は本読みながらになる、けど」


「良いよ、勿論。黙ってた方がいいよね、当たり前だけど」


「嫌じゃないの」


「全然。通学中くらい好きな事していたいじゃん。だから好きな事していいんだよ……あれ、同じこと二回言った? 言ったよね、バカがバレるじゃん」


 本を口元に寄せながら、彼女は小さく、本当に小さく呟いた。


「変な人」


 ちらりと見えた文章から、マグノリアが本のタイトルを当ててみせた。拡張現実機構オービットが覗き込んで、人工知能マグノリアが勝手に教えてくれる。このお節介なコンビネーションは、時として迷惑極まりない気がする。

 著者名とタイトル、そしてあらすじが映し出されたが、私はそれを一文字も読まずに横へスワイプした。そういう事は聞きたい時に聞くから、いらない。何でも教えられていたら、私達は「おはよう」の発音すら忘れてしまうもの。


「別に話していい。前に読んだ作品だから」


「え、もう一回読むの? なんで?」


「何でって、一度だけじゃあ理解が深まらないもの」


「そういうもんなんだ……」


「貴方、読書は苦手なの」


「あんまり得意ではないかなあ。嫌いってわけじゃないけど。食わず嫌いっていうか、読まず嫌い? いやいや嫌いじゃないんだって! 日本語難しい!」


「無理に読む必要はないけれど」


「でもさあ、読んでいた方がいい気がするの! 実際夜鶴ちゃん、すっごく成績良いらしいじゃん」


「別に読書は関係ないと思うけど。もし読み始めるなら、最初は短編集が良いんじゃないかな」


「ほえー、例えば?」


「うん……星新一とか」


 あー何か聞いたことがある。いでよアマゾン。ARからアマゾンのストアページを開く。空中で指を叩き、バーチャルキーボードで星新一と入力。

 すると彼の作品たちは皆電子書籍化されていた。ラッキー。色々あるけれど、どれが面白そうだろうか。

 『ようこそ地球さん』、可愛いタイトル。『きまぐれロボット』、これまた可愛らしい。『未来いそっぷ』、何で平仮名なんだろう。


 どれにしようかなー、とスクロールしていると、『悪魔のいる天国』というタイトルが目についた。何か強そうなタイトルだ。それに天国なのに悪魔がいるってとってもミスマッチ。どういう事だろう、気になるなあと思ってしまった時点で作者の思惑通りなんだろうなあ。くそう、気になる。

 よし、作者さんの企みに乗ってやろうじゃないか! 私はワンクリックで電子書籍をポチった。


「よし、お昼休みに読もうっと」


「え、もう何か買ったの」


「うん、電子書籍。星新一のやつ」


「ああ、そう……」


「あれ、もしかして紙の本の方が良かったかな。確かによく言うよね、小説は紙の方がいいって」


「私は別に、どちらでも良いと思う。読みやすい方を選べば良い。そうじゃなくて、余りに早かったから」


「思い立ったら即行動! 思い立ったが吉日! 笑う門にはオロナミンC! って言うでしょ」


「言わない」


「リポビタンDだっけ」


「違う」


「夜鶴ちゃん、意外とノリ良いよね」


 むう、と不服そうに眉をしかめる彼女に、ごめんごめんと謝る。何だかこういう会話、ずっと誰かとしてみたかったんだなあと実感する。

 だってまるで友達みたいだもの。

 けれど夜鶴ちゃんは拗ねてしまって、本の世界に没入しようとしていた。

 私はそれに微笑みながら言う。


「ふふ、安心して読んでいて。ランボルギーニが突っ込んできても絶対助けるから」


「……意味がわからない」


「でっかいヤンキーが絡んできても、ジェイソン・ステイサムみたいにぶっ飛ばすからね」


 流石に二回目は返事をしてくれなかった。

 良いもんね、すんでのところでランボルギーニを交わして、彼女を抱きしめたまま華麗に受け身を取ったなら、きっと私に感謝の言葉をありったけ言うだろうから。

 さあ来いランボルギーニ。あるいはアウディ。今の私は三百六十度死角なし。タウリン千ミリグラム配合。シュワちゃんもびっくり――


「あばっ」


 などと妄想に夢中で、私はコケた。何にもないところでコケた。そして人生で五番目くらいに情けない声を出した。

 この程度の声では一番には程遠い。何たって卒業式の尻もち事件は、もはや日本語の体を成していなかった。文字化できるものならしてほしい。


「置いていくよ」


 夜鶴ちゃんはそんな哀れな私には目も向けず、本に目線を固定したまま歩いていく。

 本を読む人って猫背になりやすいって聞くけれど、彼女は背筋をぴんと張っていてとても姿勢がいい。格好良いな、と思いつつも私は慌てて駆けてゆく。


「待ってよお、夜鶴ちゃん」


 私達の騒がしい朝は、やがてありふれた日常となってゆく。

 姓は音峰、名は陽薫。趣味は寝ること、なんて中身のない事を言っていた私が、夜鶴ちゃんという大きな大きな存在に寄り添ってゆく、そんな学生生活。

 これはそんな尊い縁の、一番初めの朝だった。

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