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 その日の下校時間、私は足早に玄関へ向かう夜鶴さんの姿を見た。クラスメイトの誘いを手早く断り、私はその背中を追った。

 彼女はぴかぴかのパンプスに足を通し、鞄から文庫本を取り出していた。


「夜鶴さーん、待ってよお」


 私が声をかけても、彼女は振り返らなかった。聞こえなかったのかな、と思い私は彼女の隣まで駆けていき、視界に映るようぶんぶんと手を振った。

 突然、目の前に知らない掌が現れたものだから、大層驚いたのだろう。本を握りしめて、彼女の身体は数センチ跳ねた。


「あはは、ごめんね。一緒に帰ろうよ」


 彼女は少しむっとした顔をしたが、すぐにまた本に目を戻した。


「前見ないと危ないよ」


「AR-OS(オービット)が検知するから平気」


「それはそうだけどさあ……オーディオブックもあるんだし」


 彼女はそれに返事もせず、つかつかと歩いてゆく。並んで立って気がついたけれど、夜鶴さんは背が高い。教室でも見るのだから分かってはいたけれど、改めて横に立つと本当にスラッとしている。宝塚歌劇の男役みたいだ。顔つきも中性的だし、男装とかきっと似合うんだろうなあ。

 背が高いと当然歩幅も大きくなる。それに歩く速度がとても早い。私は小走りになりながらその隣を必死に守る。


「ねえ、あのさ、何の本読んでるの?」


 息継ぎをしながら問いかける。本にはブックカバーが付けられているから、下から覗いても分からない。彼女は左手に持った本を傾けて、中表紙を見せた。

 柴田勝家作、『ニルヤの島』。文字を読み取ったARレンズを経由して、人工知能マグノリアがお節介にも書籍情報を表示する。

 曰く、柴田勝家というのは当然あの戦国武将というわけでは無く、ペンネームらしい。二〇一四年出版。


 人生のすべてが記録可能となり、死後の世界というものは否定されてしまった未来。南洋の島国に残る「世界最後の宗教」では、人は死ぬとニルヤの島へ行くという。生と死、信仰を題材としたSF小説。らしい。


「オーディオブックでは読まない」


 再び本へ目を落とし、彼女は呟いた。先程の問いかけに対し、今になって答えたのだ。


「どうして?」


「この文章は朗読に最適化されているわけじゃない。読む事に最適化されている。だから自分一人で孤独に読み進める事でしか、この物語を完璧に理解することはできない」


「でも、読むのって凄く大変だよ」


「それは……そうね」


 いつも本を読んでいるのだから彼女は読書家だ。そんな人に読むの面倒くさい、なんて言えば怒られても仕方ないだろう。けれど私はあえて尋ね、彼女はそれを肯定した。怒ってはいなかった。


「沢山読んでいても、やっぱり疲れるの?」


「人物、心情、風景、設定、全部が文章でのみ伝えられる。それを絶え間なく映像や音や共感覚に変換するのは、どうしたって疲れる」


「ならどうして、って流石に怒るかもだけどさ、どうして本を読むの?」


 彼女はページに指を挟んで、軽く本を閉じた。表紙をしばらく見つめてから、左手がすうっと降ろされる。


「何でだろう。映画でもゲームでも良いはずなのに、どうして小説という媒体メディアに固執するんだろう」


「もしかして、迷宮の扉を開いちゃった?」


「そうで無いことを願うよ」


 ひょい、と左手が持ち上げられ、夜鶴さんはすぐに本の世界へと戻っていった。

 奇遇にも私達の帰り道は同じ方向にあるようで、私は彼女の隣をずっと歩いていられた。いざとなれば、例えばランボルギーニが時速二百キロで突っ込んできたら彼女を抱えて華麗に避けるイメージが出来ていた。あるいは時代錯誤のヤンキーが因縁をつけてきても、デンゼル・ワシントンばりの格闘術で返り討ちにするイメージが出来ていた。

 あくまでイメージ。体力には自信があるけれど、残念ながら空手も合気道も習ったことがない。


 それからしばらくは、二人して無言の時間が続いた。彼女はずーっと活字を追いかけているし、私はそれをちらちらと観察しながら、夜鶴さんに襲い来るなにかに備えていた。

 大通りに面した道を歩いていると、ふと夜鶴さんが足を止めた。本に栞を挟み、車道に視線を移した。それを目で追うと、少し先の車道の隅に何かが横たわっていた。

 私の視線がその物体を認識するより先に、オービットがでかでかと警告文を表示した。見たらショックを受けますよ。人工知能が物体を検知し、オービットに告げ口して、拡張現実が目隠しする。そういうお節介機能が存在する。


 しかし私はその警告を横へ拭い取り、夜鶴ちゃんと同じものを見ようとした。

 しかしそれでも、警告された物の正体がわかった瞬間、私は反射的に目をそらしてしまった。


 それは一匹の猫だった。黒い毛並みは乱雑に逆立ち、可愛らしい手足は力なく項垂れていた。おそらく、というか確実に車に撥ねられたのだろう。

 私は昔から疑問なのだけれど、運転手は撥ねてしまったことに気付いていたはずだ。その体が大きかろうと小さかろうと、一つの命を奪ったことに変わりはない。だというのに素知らぬ顔をして過ぎ去ってしまえるのは何故だろう。それが人間なら逃げないくせに。

 結局人って、罰が無いと駄目なんだろうな。法律って人間をまともにされる為にあるんだろうな。


 夜鶴ちゃんは、そんな哀しい遺体をじっと見つめて、やがて歩き出した。私の方は一度も振り返らずに、真っ直ぐコンビニへ入った。慌てて後を追うと、彼女は手早くタオルを二枚手に取り、セルフレジで決済をしていた。

 なんでタオル? と疑問符を浮かべる私をよそに、彼女はつかつかと大股で店を出る。猫の元へとしゃがみ込むと、真っ白な汚れなき布地をそっと覆いかぶせた。両手で優しくすくい上げ、また歩き出した。


「待って、夜鶴ちゃん」


 肩を掴んで、こちらを振り向かせる。私のことをまるっきり無視していることは別にどうでもよくて、ただどんな表情でその行動を選んでいるのか、分からないことが怖かった。

 彼女は眉を寄せて私を睨んだ。怒っているのではなくて、どうして止めるのか、と言いたげな目つきだった。


「私も手伝いたいの」


 そう言って楕円をかたどるタオルに手を添えた。思っていたよりもずっと重い。魂の重さは二十グラムだとか何とかいう話があるけれど、そんなもの何グラムだろうと関係がない。こんなにも命は重くできている。


「……公園まで運ぶから」


 そうして私達は、一番近い公園まで一緒に抱えて歩いた。私と夜鶴さんの掌から伝う体温で、この子が生き返れば良いのに。そんな切なさを隠しながら。

 公園の隅の方、草木が生い茂る植え込みの辺りで猫を下ろした。あ、と夜鶴さんが小さく声を漏らす。土を掘る道具が無いのだ。きょろきょろと周りを見回す彼女に、私は少し太めの木枝を折った。


「これで出来ないかな?」


 ささくれ立った枝の先端を押し込むと、ざりっと土がめくれ上がった。もう一本枝を折って、私達は一所懸命に土を掘った。こんなのは小学生以来かもしれない。そして意外と体力がいる。

 段々と息を切らしてきた夜鶴さんに私は、


「私が掘るから、休んでいいよ」


 と声をかけた。一筋伝う汗を拭って、彼女はもう一度枝を握りしめる。


「最後までやるから」


 掘り続けて十分ほど経っただろうか、地面がカチカチになり、もうこれ以上は掘れないというところまで進められた。

 夜鶴さんが猫をタオル毎穴の中へと入れ、その上から土を被せた。両手はすっかり茶色くなっていて、制服も砂埃でパサついていた。けれど私達は一つの達成感を得た。僅かに土色の変わったその内側に、あの猫は眠っている。

 彼女はその眼前に膝をついて、私に、あるいは誰にともなく呟く。


「どうして皆、何も見えていない振りが出来るんだろう……私には分からない」


 そして、両手を合わせて祈りを捧げた。

 多分、その言葉にはいくつもの意味があるのだと思う。人以外の命に無関心なこと、人任せにして忘れてしまえること、それ以外にも沢山。

 その時初めて、彼女が少なからず怒っているのではないかと気が付いた。私の素っ頓狂な発言には大した感情を出さなかったのに、今になってどうして。

 彼女の持つ、感情の原動力はどこにあるのだろう。

 私なんて、お腹が空いたからビーフシチューが食べたい、くらいの単純なロジックしか無い。そう思うと自分の浅い人間性がひどく可笑しい。


 立ち上がり、膝を叩いて、夜鶴さんは振り返った。


「帰ろう、陽薫」


 私の名前を呼んでくれたのは、その時が初めてだった。その瞬間に、私は彼女にとってその他大勢ではなくなった。

 だから私も、


「そうだね、夜鶴ちゃん」


 彼女を認識した。その他大勢でもクラスメイト一号でもなく、雪待夜鶴という一人の命として。

 私達の縁は、名もなき一匹の猫が繋いでくれた。だからいつか、貴方に相応しい名前を贈りたい。願わくば天国に、あるいは「ニルヤの島」なる異空まで届くように。

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