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十三架名約定。通称"Signature-13"が締結されたのは今から二年前、二〇二八年頃のこと。AR-OS「orbit」と遺伝型人工知能「マグノリア」が台頭し、世界中が新たな生活様式へと移り変わっていた。
私はその時のニュースを特に何も考えずに眺めていた。よくわからないけれど、新しい法律でも出来たんだろうなあとしか考えていなかった。まだ中学二年生だったし、難しい事なんて大人が教えてくれるだろうと思っていた。
結果、二〇三〇年六月現在に至るまで、誰も教えてはくれなかった。というよりは、多くの人にとってこれが何を意味するのかを分かっていなかったんだ。
けれど孤高の美少女は、雪待夜鶴さんだけは、この先世界がどう変わっていくのか確信を持っていたのだ。
「どうして、偽名を使っているの?」
私の問いに対して、彼女は眉間に皺を寄せた。後になって知ったけれど、その表情は機嫌が悪くなったというわけではなく、単に何を話そうか悩んでいるだけだった。
自己紹介をした日、私は彼女の名前に感銘を受けた。そして思った。こんな美しい名前が本当にあるだなんて。そう、余りにも出来すぎた名前なのだ。たまたま綺麗な苗字のお家に生まれて、親御さんがネーミングセンス溢れる人で、更に名前と同じくらい端正な顔立ちに育つだなんて、途方もなく低い確率だ。
マイケル・ジャクソンが
だから私は検索した。どんな情報も数秒で検索できるのだから、誰も知らない無駄知識なんてもうとっくに絶滅しているんじゃないかな。
雪待、という一風変わった苗字について検索したが、そのような名はヒットしなかった。雪、待、いずれかを含む苗字はあったが「雪待」は無かった。全国に数人しかいないような苗字すらデータベースに記録されているのだから、本当に実在しないものなのだろう、と私は判断した。
「Signature-13を知っている?」
彼女は本を再度開き、栞を挟んでから閉じた。
「何かニュースでやってたのは覚えてる」
「そう。私はその制度を使って独立した戸籍を作ったの」
彼女は掻い摘んで説明してくれた。
Signature-13とは、要するに個人情報管理の民営化だ。それまではグーグルやアップルやメタがしれっと掌握していた個人情報の数々を、一つどころに集約させる権利を与えたものだ。
私達は検索するたびグーグルに個人情報を吸い取られる。私達は製品を使うためにアップルへ個人情報を提供する。私達は遠く離れた友人とお喋りするためにメタへ位置情報を教えてしまう。
誰も彼もがパイの争奪戦よろしく、大切な個人情報を吸い上げて売り物にしている。個人情報を提供しない方法もあるけれど、そうなれば露骨に不便になるし各社は儲けづらくなってサービスが劣化する。
ならいっそ、それぞれが個人情報を誰に預けるかを選べるようにした。それがSignature-13。十三という数字は制度を推し進めた国の数、そして個人情報を預かる
グーグル、アップル、メタは勿論の事、PlexUs(プレクサス)、Reany(レニー)、Hotaru(ホタル)といった新たに作られた管理局も存在した。
加盟した管理局はお互いに個人情報を交換し合う事ができない。
氏名、住所、クレジットカード番号、位置情報などは所属した管理局だけが閲覧でき、他局にデータを共有する際にはユーザーの許可が必要になる。そして許可したとしても、一時的に暗号化されたデータを借りるだけで、実際に何が書かれているかを他局は調べられない。必要なサービスが実行されたら、データはすぐに抹消される。
こうしてデジタル上の個人情報達はその価値を高められる。アナログな、市役所の奥底に眠るような個人情報以上にデジタル上のそれが重要視されるようになる。
住民票よりも国民番号よりも、一体誰に服従するべきかを誰もが考える。そういう世の中が来るって、彼女はそう言いのけた。
「それじゃあ夜鶴さんは、その管理局のどこかに登録したってこと?」
「そう。日本中の誰よりも早く」
「でもそれって、要は今までバラバラに登録していた個人情報を一つの窓口にまとめ上げたってだけでしょ? それと偽名を使うのと、どう繋がるの?」
「言ったでしょう、これはデジタルな個人情報なの。どこにあるかも分からない、国が管理する個人情報なんて私達は触れられない。けれどデジタルな個人情報は完全に私のものなの」
「……え、もしかして嘘の情報を登録したってこと?」
「今はまだアナログな情報のほうが重要だから、デジタル側は適当な名前を名乗ったって怒られない。それで税金の支払いや身分証明を行うわけじゃないのだから。けれどその力関係が逆転したら、デジタルな情報こそがこの世界を回す地位になったとしたら」
「ええと、ごめん。何か頭パンクしそうなんだけどさ、今のうち! って偽名で登録したのまでは分かるんだけどさ、何でそうまでして偽名にしたかったの?」
「言うなれば、二歩先のことを考えたから」
「えーどういう事お、何かでっかいキャンペーンでも始まるのお」
「始まるんじゃない、始めるの。そう遠くない日に、どこかの誰かが」
「何をー? 私もう疲れてきちゃった。数学より難しいよお」
「ならここまでにする」
彼女は携帯食料と本を持ち、すっと立ち上がった。
「え、どこ行くの」
「もうすぐお昼休みが終わるから」
時刻を確認すると、確かにあと五分しか残っていない。無論、私はまだご飯を食べていない。聞きながら食べれば良かった。でもやっぱり、親切に教えてくれている人の前でむしゃむしゃ卵焼きを食べるのは失礼だと思ったから仕方ない。
「本当に聞いてくれると思わなかった」
「え、何で? 難しいお話だけど面白かったよ」
「……そう」
彼女は特段表情を変えることもなく、けれど少しだけ階段を降りることに躊躇していた。
私のお弁当箱をちらりと見る。そこそこでっかい。私は白米を無限に食べられる胃袋の持ち主だ。
「食事の邪魔をしてごめんなさい。先に行くから」
「あ、待って! 五秒待って!」
私の静止が聞こえているのかいないのか、多分聞こえているんだろうけど彼女は階段をすとん、すとん、と降りてゆく。
私はお弁当箱をばっこんと開き、中にある白米やら卵焼きやらほうれん草やらトマトやら、あらゆる食材を口の中に詰め込んだ。
人間の頬はここまで伸びるものなのか、というほどパンパンに膨らんだ。何なら喉の手前までお米が押し寄せている。息が出来ない。苦しい。死にそう。そもそもこんなに詰め込んだら噛めない。
「ふぉふふ、ふぁん、ふぁふふぇふぇ」
夜鶴さん、助けて!
私は辛うじて開いた唇で彼女を呼んだ。余りに素っ頓狂な言葉だからか、彼女はこちらを振り向いた。極限にお腹を空かせたリスでも、ここまで頬袋をふくらませる事はないだろう。彼女は私の破裂寸前な顔を見て、
「ふっ」
顔を反らした。笑った。これは間違いなく笑った。
「ん! んあ、わあっふぁ!」
いま、笑った!
私の言葉は果たして翻訳出来ているだろうか。彼女は頑なにこちらへ目を向けず、階段を静かに降りてゆく。私はその背中を追いかけながら、どうすればこの食材たちを穏便に飲み込めるか必死に考えていた。
孤高の美少女と、それを追いかける爆弾みたいなリス。奇妙な取り合わせだけれど、これが私と夜鶴ちゃんとが初めて交わしたコミュニケーション。
私はこの日のことを忘れない。
私は貴方と出会えて良かったと、後に何度もそう思うことになる。
そして、話の続きをもっと早く聞くべきだったとも思うことになる。
けれど今はまだ、私の頭はご飯でいっぱいだった。
ご飯は無事、教室に着くと同時に飲み込めた。どうやってそんな偉業を成し遂げたのかは、残念ながら覚えていない。たぶん二度とすることは無い。というかしたくない。本当に死にそうなくらい息が出来なかったもの。
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