jb_04

「雨降るかなぁ」


 晩ごはんを食べたあと、彼女はカーテンの隙間から外を眺めていた。油絵のようにべったりと張り付いた雲は、いつ薄汚れた雨粒を捨て始めてもおかしくなかった。

 今のうちに帰ったら、と提案すると、


「うん、そうするね」


 彼女はあっさりとそれを受け入れる。毎日のように遊びに来ているからか、はたまた天気に関しては合理的に判断する性質なのか、もう少しだけなんて我儘を言われた記憶はない。

 玄関でお洒落なブーツに足を通しながら、彼女はこちらを振り向いた。


「ごめんよっちゃん、鞄取って」


「その呼び方、久しぶりにされた」


 私は少しむすっとした表情のまま、リビングに置きっぱなしになっていた鞄を持ってきた。こんな小さな入れ物、すぐに一杯になってしまうだろう。外へ出歩くのにたったこれだけで事足りるのだろうか。

 街を歩くと、確かにこのくらいの大きさの鞄を使っている人をよく見かける。手で持つのと大差ないようなちっぽけな袋。

 彼女たちには、時間を浪費する為に必要な道具など必要無いのだろうか。人工知能マグノリアを操って、AR上に表示される雑多な情報で満足できるのだろうか。あるいは絶え間なく喋り続ける魔法を当たり前のように使いこなせるのだろうか。

 分厚い本も、外界を遮断するヘッドフォンも必要としない世界を生きているのだろうか。


「よっちゃんって可愛いと思うんだけどなあ。昔っから嫌がるよね」


「語感が好きじゃないから」


「そう? 私のこともひーちゃんって呼んでくれていいんだよ」


「絶対に嫌」


「えーん、意地悪」


「早く帰りなさい」


「はーい。それじゃまたね、夜鶴ちゃん」


 気をつけて。私は決してまたねとは返事しない。ぱたり。扉が閉まると、途端に静寂が蘇る。ほんの些細な物音や、外で鳴る足音や風切り音なんかがやたらと耳につくようになる。

 これはさながら、台風一過。ついでに雨雲も連れ去ってくれないだろうか。

 すとん、すとん、と足音がする。一匹の猫が階段を降りてきたのだ。


「やあ、たらふく。お腹空いたよね」


 たらふく。飼い猫の名前だ。その名に負けないふてぶてしいお腹をしている。つまりは丸い猫だ。よく食べ、よく眠り、図体はでかい癖にとても臆病な奴だ。

 未だに陽薫を怖がっているようで、いつも二階に上がったきり降りてこない。

 しかし皿に餌を盛り付けてやると、警戒心はすっかり失せてむしゃむしゃと平らげる。


 この子は家の近くで拾った。どこかの軒下で縮こまっていたところを保護した。保護というか、ある意味誘拐だ。親猫とはぐれてしまった可能性が高いけれど、しかしそれはこちらが勝手に判断してしまったに過ぎない。

 しかしあのまま放っておけば、彼は飢えや寒さで死んでしまっていたかもしれない。私が拾い上げたから、彼は元気に太ましくなり、お腹丸出しで寝ていられる。

 お前はたらふく。たらふく食べて、大きくなりなよ。飼い始めた朝、私は彼に名前を授けた。

 彼とは言っているが、すでに去勢済みだ。ワクチン接種といい定期診察といい、猫様という奴はお金がかかる。でもそれで良い。たらふくをたらふくたらしめる為に私はいるのだから。


 仕事部屋の扉を開けると、彼はリビングの中央で身体を横にした。食後の睡眠だろう。寝てすぐ横になると牛になる。彼は縞模様だから虎やライオンが近いだろう。良いぞたらふく、誰よりも大きな虎になりな。お前の腹を枕にして眠りたい。


 デバイスを立ち上げると、書きかけの原稿がすぐさま表示された。ああ、また悩ましい時間が始まる。執筆なんて本当に疲れる作業だ。

 マグノリアを始めとする遺伝型人工知能が台頭してきた時、いよいよ半数の職が失われると騒がれた。自動運転になれば運転手はいらないし、料理も接客もお手の物。データ管理など人間よりも遥かに信用できる。

 けれど世界の半数が無職になることはなかった。自動運転が発達するほど、手動運転の需要も上がる。人が作った料理には再現性が無い。人工知能は書類の端にメモ書きを残せない。人が人をもてなすという行為は、完全にへと進化した。

 小説もまた同様だった。確かにマグノリアは何でも屋さんで、聞けばだいたいのことは叶えてくれる、バーチャルなドラえもんだ。

 小説を作ってと言えば、何十万字もある長編小説をものの数秒で生成してくれる。しかしそれは小説というビッグデータから継ぎ接ぎしたパッチワークに過ぎず、どこかで見た設定やどこかで聞いた用語のオンパレードだ。壮大なオマージュ作品。

 彼らは宮沢賢治風の文章は書けるが、『銀河鉄道の夜』の結末を決められない。


 私が小説を書く理由はたった一つだ。

 私は包丁を研いでいる。銃弾を装填するわけでもプラスティック爆弾のスイッチを握るわけでもなく、包丁を研ぎ澄ませている。

 物語という凶器を出来るだけ鋭敏な形にして、読者の喉元へじっくりと差し迫る。そして最後の一行を読んだ瞬間、喉を伝う酸素も心臓を駆ける血液も、一切合切の生命反応を奪いたい。

 私の書いた物語で、読者を殺したい。

 物語に感化されて、あるいは絶望して、しかして希望して、死んでくれ。

 私はみんな殺したい。

 そんな感情しか、文章たちには込めていない。高尚な教えも社会へのメッセージも無い。そんなものは自己啓発本に任せておく。私は他者の感情を揺さぶり、操り、立ち直れない傷を負わせたいだけだ。


「遠い未来、引退する時が来たらどんな物語を書きたいですか?」


 雑誌のインタビューでされた、死ぬほど下らない質問。私は迷わず即答した。


「私が死ぬか、あるいは私以外全員死んでいてほしい。つまり遺作なんてものは書けないでしょう」


 今にして思うと、余りにも青臭い回答だと思う。もしそのまま掲載されたのなら自主回収したいくらいだ。けれどその考えは今もそれほど変わっていない。

 だってそのくらいの強い感情がなければ、こんな非効率的な媒体に居続けられない。映画や漫画なら数秒で表現できることを、小説は長々と書き連ねないと伝えきれない。そんな面倒な作業、誰だって嫌になる。

 しかも苦労して書いた一文は、ほんの瞬きで過ぎ去ってゆく。そこに込められた意味だって、全て受け取って貰えるかもわからない。


 読んだ人全員に死ねと叫び続けるくらいの覚悟でもってようやく、一割くらいの感情が伝わる。そういう媒体だ。

 だから私は思い悩む。

 この文に続く二次熟語は何が適切か。

 この文のどこに句読点を打つか。

 伏線とその回答をどのくらいの間隔に設置するか。

 どのタイミングで改ページされるか。

 製本したときに文章の配置が歪になっていないか。

 この物語は、読むに値するのか。


 私は思い悩む。

 たった一人、八畳ほどの一室に籠もって脳を費やす。

 朱色。主人公が見た光景をどんな色で表現するか、という問題に対し、今日の私はそう回答した。


 ――彼の流した血液ほどに、空の果てには朱色の渦が逆巻き融けていた。

 

 句点を打って、息を一つ吐いた。何とか想定していた所まで書き上げられた。この調子で行けば期日までに間に合うだろう。

 時計を確認すると、とっくに日付が変わっていた。光陰矢の如し。執筆中は本当に時間の感覚が失われる。そうして不摂生がたたって病気になるんだ。


 私は身体を伸ばし、煙草とジッポを手に取った。陽薫がいる間は吸わない。そして一息つける時には躊躇なく吸う。煙草の紫煙と痩せた四肢。小説家らしい姿と言えるだろう。

 小窓を開き、煙草パーラメントに火を点けた。ぱらぱらと弾ける雨音が室内に飛び込んでくる。

 朝まで降り続きそうだ。嫌になる。偏頭痛がまだ薄っすらと続いているから、痛み止めを飲んでから寝る事にしよう。

 初めて煙草を吸った日のことをふと思い出す。これこそ私にとっての黒歴史というものかもしれない。苦笑いと赤面とが同時に押し寄せる。

 きっと彼女は知る由もない。知らないままでいてほしい。

 私は貴方に嫌われたくて吸い始めたんだよ。

 今ではもう、ただのニコチン中毒なのだろうけれど。

 本当に、どんな人間も社会人になるまでは青臭い生き物だ。学生時代なんて、過ちと後悔だけが占有する。


「夜鶴ちゃん、煙草吸うの? 格好良い! 似合う!」


「夜鶴ちゃん、ピアス開けたの? 私とお揃いにしようよ!」


「夜鶴ちゃん、髪染めたの? すっごく似合うよ!」


 陽薫は何をしても私を肯定していた。

 多分、犯罪行為以外なら何でも褒めてくれそうな気がする。友達もきっと多いだろう。

 それが何故、こんな陰気臭い小説家の部屋に入り浸るようになったのだろう。記憶の集積された小部屋は散らかり過ぎていて、もう見つけ出せないだろう。


 夜鶴ちゃん。陽薫の声。

 ぱらぱらぱら。降りしきる雨音。


「……騒がしい」


 吸い殻を灰皿に押し付けて、私は小窓をそっと閉めた。

 物語の続きは、また明日。

 おやすみ、たらふく。午前三時、私は夜毎始まる夢の旅路へと舟を出した。

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