jb_03
ドキュメンタリーが終わり、スタッフロールが流れ出した。時刻はもう夜を指していた。
「貴方、そろそろ帰らなくて大丈夫なの」
「え、だって明日土曜日じゃん」
目線を滑らせ、日付を確認する。確かに明日は土曜日だ。小説家に週休制度など無いのだから、今が何曜日かなんて殆ど意味を成さない。
街角でラスト・クリスマスが流れ出したら。やたらとチョコレートが山積みになっていたら。足元でかさりと枯れ葉が音を立てたら。その時になって初めて、私は今日が何月何日なのかを知る。
「泊まるの?」
「ううん、晩ごはん食べたら帰る」
「……麻婆豆腐にするけど」
「中華大好き! っていうか夜鶴ちゃんの作るもの全部好き!」
麻婆豆腐、麻婆豆腐、ヤンボーマーボー天気予報! とまたよく分からない歌を奏でながら、彼女は空中で指を滑らせた。
テレビスクリーンは彼女の指先を認識し、ドキュメンタリーを再生していたアプリケーションを閉じた。隣で私が指を滑らせると、今度はスポティファイを起動した。
適当なクラシック音楽を再生させて、私はキッチンへと足を向けた。
「マグノリア、麻婆豆腐の材料を出して」
虚空に向かって呟くと、冷蔵庫が開いていくつかの材料をトレイに出した。本来ならば料理もそのまま
非論理的かもしれないけれど、普段周りの人間と異なるライフサイクルを辿っている分、こういった所で人間らしい面倒くささを味わっておかないと、自分がどんどん形骸化していくような気分に襲われる。
かつて人間は、歩いて行きたい場所を目指した。
あるいは馬に乗って、あるいは船に乗って。
それが馬車に変わり、車に変わり、ついには外に出ずとも誰かと会話し、買い物をし、旅行気分すら味わえるようになった。
けれど世界の半数は旅行をするし、大きな買い物袋を抱えて店を出る。子供だってアマゾンで買い物をするし、学校の友達と朝までオンラインゲームをして遊ぶ。けれどその一方で、半径何メートル以内に必ず公園を設置せよという条例も存在する。人間は外で活発に汗をかく生き物であるべきだ、という誰かからのメッセージなのだろう。
私は可能な限り効率的な生活を維持したい。家で運動が出来るのならそうするし、オンラインで原稿のやり取りが出来るのなら原稿用紙を買わない。
けれど効率を突き詰めていくと、最後に残るものはインフラ代だ。電気代を払うために働き、働いた報酬で楽をする。その繰り返ししか生み出せない。
生きるために三十分の料理を受け入れる。非効率的となってしまったその行為を敢えて受け入れる事で、私は古来より続く人間らしさを確保している。
それに、私が具材を煮込む姿を彼女はいつもじっと見つめる。義務であるかのように。その僅かな楽しみを奪う理由もない。
「夜鶴ちゃんさ、前言ってたじゃん」
鍋に入れた具材が赤く染まる。私はちょっと辛めの麻婆豆腐が好みだ。
「なにを?」
「髪の毛、染めたじゃん。卒業してすぐ」
高校を卒業したあと、私は髪を染めた。
ある程度小説で稼げる目処が立っていたので、私は進学をしなかった。大学は受かりさえすればいつでも入学できるし、今すぐ必要な工程だとも思わなかった。
その代わり、ある賞を受賞した為に授賞式へ出席しなければならなかった。学生の間はそういった公式の場に出ない言い訳ができたので、完全な覆面作家を貫けた。しかし学生で無くなれば「大人」として振る舞わざるを得ない。
メディアも結構な数が来ると聞いていたので、私はまず高校までの同級生に気付かれたくないと思った。仲の良い人なんていなかった。唯一交流のあった陽薫は私の活動を知っていた。しかし彼女は誰にも私の仕事を言いふらさなかった。
どうしたものかと迷っていたが、ふと陽薫が話していた事を思い出した。
「私、大学生になったら金髪にしたい!」
そうだ、髪を染めたらいいんだ。私はすぐさま美容院を予約し、完全に髪を脱色した。似合うかどうかなんて考えてもいなかった。とにかく私だと誰にもバレたくなかった。
真っ白の髪で現れた私に、みんな動揺を隠せていなかった。会う人皆が私の頭を見る。多くの人間は極端な選択を躊躇し、容易く選べる人間を畏怖するものだと実感した。
「それがどうしたの」
彼女の問いに答えると、
「あの後も青とか金とかやってたけどさ、やっぱり白が一番似合うね」
にか、と笑う彼女の歯は綺麗に矯正されている。美意識の現れか、あるいは親御さんの方針によるものか。
何にせよ、彼女は恵まれた世界で生きた善良な生き物なのだと思う。
「陽薫は……」
「なに?」
「ずっとその色なの、どうして」
高校卒業後、陽薫は金髪にしなかった。
髪は特に染めることをせず、サイドにメッシュカラーを施した。私と同じ、透き通った白を。
私が脱色したのと、彼女が髪を染めたのと、どちらが先だっただろうか。
私が陽薫のメッシュカラーを見て追随したのか、その逆か。どちらにせよ、私達はお互いにちょっと奇抜な髪の色をしている。
「うーん、染色ってお金かかるじゃん。髪も痛むし。それなら一部分だけ染めて、色が戻ったらエクステにすれば良いかなって」
「結局、今でも染めているのね」
「うん。変わらない手触りが、今では胸でさざ波を立てるの」
あ、素敵な言い回しだ。と思ったのもつかの間、
「大分麦焼酎、二階堂」
と続けた。広告のキャッチコピーらしい。
ふ、と鼻で笑ってしまい、誤魔化すように鍋をかき回す。
「夜鶴ちゃん、今笑ったでしょ。鼻で笑ったよね! 格好良く言ったのに!」
彼女の駄々を聞き流しつつ、私は器に麻婆豆腐を注いだ。ふわりと沸き立つ湯気が食欲をそそる。
そういえば、当たり前のように二人分の晩ごはんを作ったけれど、そもそも彼女のために作る義理はない気がする。たまにならまだしも、毎週何日かは二人分作っている。
そろそろ材料費を請求しても良いのではないか。まあ、お金に困ってはいないし一人分でも二人分でも手間は変わらない。
「出来たよ」
私がそう言うと、彼女は涎を垂らして喜ぶのだ。それで
どうせ騒がしい夜になるのなら、機嫌よく過ごしてほしい。あくまで私の精神衛生上の問題だ。
「本日の摂取栄養素はこちらです」
賢い賢い
ああ、もう一人うるさい奴がいるのだった。
私は
西暦二〇三五年。
私達は世界をARで上書きした。
AR-OS、その名はオービット。
私達は世界を人工知能に委ねた。
あらゆる総てがデジタルに入れ替わるのも、時間の問題だった。
古書を開いた時の紙の匂い。
契約書に署名するペンの感触。
貴方と私を結ぶ文字。
総てがグラフィカルなデータ群へと進化してゆく。
陽薫はインターフォンを鳴らさずとも、
専用のキットを使えば、料理は
名刺も自己紹介も必要なく、私と貴方はARに映し出された個人情報を交換出来る。
はじめましての文章は瞬きする間に完成される。
私達はそうやって摩擦を忘れてゆく。
滑らかで痛みの無い日々を手に入れる。
だからきっと、芸術なんてものはじきに絶滅する。せめて私が死ぬまでは生き残ってほしいけれど。
私の大切な物語たちも、そう遠くないうちに忘れられていくのだろう。
けれど、もしかしたら。
「夜鶴印の麻婆豆腐、熱くて辛くて銀河一デリシャス!」
よく分からない歌で美味しさを表現するこの子だけは、一生忘れないでいてくれるだろうか。
いつの間にか私の傍に居続けている、ただ一人の友人ならば。
私の名を、かけがえのない脳に残し続けてくれるだろうか。
「いただきます」
確かに、今日の麻婆豆腐は熱くて辛かった。
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