jb_02

 ぷつん、と集中の糸が切れた。

 途端に視界から文字以外の全てが押し寄せてきて、私は眉をしかめる。今の今まで、私は文字だけが存在する世界を歩いていた。なのに急に三次元の者共が揃い揃って私に話しかけてくるものだから、現実に引き戻される瞬間は未だに慣れない。


 コーヒーをぐいっと飲み干すと、脳の左奥がずきりと傷んだ。偏頭痛。殊更に眉をしかめる。

 カーテンを開けると、なるほど天気が下り坂だ。今にも透明な荷物を落としてしまいそうなほど、鈍重な雲がべっとりと貼り付いている。

 炭のように鈍い色合いは、いつも私に偏執的な頭痛を齎す。この空にこそ、カーボンフリーな未来があってほしいと私は思う。


 カーテンを閉じてふと、部屋の中が余りにも静まり返っている事に気がついた。

 陽薫とシュークリームを食べてから、私は仕事が残っていたので部屋に戻った。その間、彼女にはネットフリックスでもプレイステーションでも好きなものを使っていいと言っていた。というか、毎回そういうやり取りをしている。

 そっと部屋の扉を開くと、彼女はソファにもたれかかって大口を開けていた。狙撃でもされたのかというほどに脱力している。

 西瓜が入りそうなほど大きく開けているのにいびきを全くかかないのは、彼女の七不思議の一つ……かもしれない。残りの六つは考えていない。


 私は出しっぱなしのシュークリームの箱を折りたたみ、ついでにお湯を沸かした。コーヒーは一日三杯までと決めているけれど、煮詰まった時にはもう二杯ほど飲んでしまう。胃が荒れるから駄目だと頭では分かっているけれど、この漆黒に染まる飲み物が何か素敵な景色へ連れて行ってくれると信じてしまうのだ。

 ふわりと広がるコスタリカコーヒーの香り。陽薫はコーヒー好きというわけでは無いが、アロマティックな香りに反応したのか、ぱっと目を覚ました。


「八ツ橋!」


 寝起き一番、そう叫んだ。彼女は声が比較的大きい。マンションじゃなくて良かった。


「おはよう」


「え、あ、夜鶴ちゃん。おはよう……」


 目をこすり、ふあぁ、と大あくびをする。自宅のようにリラックスしているが、彼女専用のシャンプーはまだ置いていない。


「仕事どう?」


「まだだけど、休憩」


「それじゃ何か観ない?」


 彼女は慣れた手付きでネットフリックスを起動する。私はまだ偏頭痛が続いていたから、ソファにしっかりと頭を固定させてテレビをぼうっと見つめる。


「猫とペンギン、どっちが良い?」


 動物のドキュメンタリーは外れが少ない。昨日はライオンだった。


「ペンギン」


 だからというわけじゃないが、今日は海の生き物が見たかった。何となくその方が、晴れた景色を沢山見られる気がしたから。南極では雨なんて降らないだろう。雪なら偏頭痛にもならないかもしれないな。その代わりに凍傷になるだろう。やっぱり南極には行きたくない。


「ペンギンって歩き方が可愛いよね。分かってるよね奴らは」


「骨格の問題だと思う」


「あ、ペンギンの背骨って何か凄い形してるんだよね? ムチウチになったりしないのかな」


 陽薫は思いついたまま言葉にする。つまりお喋りな子だ。それが煩わしく感じたり、時々唸るような視点を教えてくれたりもする。

 肩を寄せ合い、体温を共有するような間柄じゃない。けれど間違いなくこの時間は、コーヒー以外の熱を帯びているのだと思う。

 今日の私は、陽薫を受け入れている。

 明日の私はどうだろうか。

 今日と同じように、彼女の言葉に耳を傾けられるだろうか。

 またあの文字の海に飛び込んでしまったら。

 ペンギンのような愛らしさもシロクマのような逞しさも持たない、ただの人間がそこに立ち尽くしてしまうのでは無いか。

 私は不意に、そういう迷路に閉じ込められる。

 陽薫、こんな自分勝手な私を知っているのなら、いつか私に愛想を尽かすだろうか。それは仕方のない事だけれど、もしもすぐ目の前に来ていたのなら、その時は事前に教えてくれるだろうか。

 何月何日になったら私は愛想を尽かします。何日後にさようなら。そうしてくれたほうが私は嬉しいだろうか。私は期限付きの友情を望んでいるのだろうか。

 氷を滑るペンギン達は、ひたすらに生きることを目指している。

 雪のように美しいその毛並みを。

 木漏れ日のようにいくつもの光を讃えるその瞳を。

 私も手に入れられたのなら、文字の濁流に首を締められる事も無かっただろうか。

 言葉のない私には、生きるに足る理由を見つけられただろうか。


「本当、可愛いよね。夜鶴ちゃん」


 それはどうせペンギンの事でしょう。

 やはり私は、彼女の感情について考えようとしなかった。

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