Episode 1 - Neurotica
jb_01
――世界中が祝祭の産声に酔いしれる中で、私だけが空白を抱きしめている。
この一文を見つめたまま、三時間ほど経過していた。長時間座っても疲れないようにと、奮発して買ったチェアは百八十度のリクライニングが可能だ。私はそれを倒したり起こしたり、シーソーのように上下しながら考えていた。
思い悩む理由は三つある。
一つは「産声」。祝祭という言葉に続くものは歓声や熱気あたりが自然だ。しかし私の中では、ここぞという一文であえて関連性が低いように思える単語を選びたくなる。
だってここで伝えたいのは、誰かの幸せを横目に私はどん底を這っていると言いたいだけだ。それを「みんな
祝祭が産声を上げるという事は、「これまで世界で祝祭と呼ぶに相応しい物語が存在しなかった」か、あるいは「世界規模で祝い歓ぶ出来事が無かった」ことを表現できる。
しかしその直後に酔いしれると書いている。産声を上げる命に酩酊は相応しくない。それは幸と不幸、快楽と退廃の相反する二つの日常を持った者にしか味わえない。抑圧と解放のコントラストは大人の味。
だから「産声」ではない別の単語を選ぶべきかもしれない。
二つ目に「空白を抱きしめる」。祝祭の産声というミスマッチなセンテンスの対比としては余りにも弱い。こんな文字列は山のように生み出されては消費されてきただろう。日がな誰かが何もない虚空を抱きしめている。一応、「産声」と「抱きしめる」は関連性を見出だせるが安直でもある。ここもやはり変えるべきだろう。
祝祭という単語は紙吹雪や虹といった色調豊かな情景を浮かべやすい。それに対して空白という無味乾燥な色は噛み合うように思えるが、紙吹雪と虹はいずれも空にある景色だ。きらきらと舞う空から、単に「白」のイメージへと切り替わるだけではインパクトが薄い。
ここで伝えたいのは「祭りのあとの静けさ」ではなく、「祭りの外れで膝を抱える」孤独だ。同じ空をなぞるわけじゃない。
かといって鈍色だとか濡羽だとか、色の名前を付けてもしっくり来ない。祝祭という言葉の持つ鮮やかさが強すぎるのだろうか。
三つ目に語感だ。文字は音にならない。しかし読み手の何割かは小説を心のなかで音読しながら読む。故にある程度のリズム感は不可欠だ。常に五七五である必要はないが、もたついた文章は目が滑りやすい。
「世界中が祝祭の産声に酔いしれる中」という一文は長すぎる。「世界中が」とその後ろとで長さがかけ離れているからだ。これでも「酔いしれている中」を「酔いしれる中」に書き換えたのだが、それでも尚バランスが悪い。「世界中が」を無くして「祝祭の産声に溢れる中で」としたほうが幾分まとまりはいいが、途端に凡庸な表現に落ちてしまう。何より「世界」と「私」の視点は外し難い。
「私だけが空白を抱きしめている」も若干弱い。「私」と「空白」はそれぞれ目を引きやすい単語だが、「抱きしめている」は後半部の平仮名が冗長で、かつ表現としての意味を成さない。その為に尻すぼみな印象を与えかねない。
「空白を抱いている」では官能的な要素が垣間見えるし、「空白を生きている」はありきたりだ。
……と、こんな堂々巡りの思案を延々と繰り返している。ただの一文に労力を費やしたって、読者からすれば一瞬で読み進めてしまうだろう。しかしほんの一文すら妥協出来ないのが物書きの呪いであり、それを容易く妥協出来てしまっては文字にする意味がないと私は思う。
全ては緻密に研ぎ澄ませた鋭利な殺意で、読者から鼓動を奪う。私は若きウェルテルの言葉になりたい。
「祝祭」にカーソルを合わせ、Back Spaceを押そうとした瞬間。
ぴんぽん、とチャイムが鳴った。私は小さくため息をついて、チェアから立ち上がった。パキパキと膝が鳴ったものだから、流石に運動をしないと死ぬんじゃないかと他人事みたいに考えた。
彼女は毎回律儀にインターフォンを鳴らす。勝手に上がり込む事だって出来るのに。扉を開くと、白い箱を掲げて彼女は笑った。
「夜鶴ちゃん、これこれ! このシュークリーム本当に美味しいからさ! 一緒に食べよう!」
彼女の名は陽薫。高校からの腐れ縁というか、何だかんだ続く縁みたいなもの。
高校在学中、私は小説家としてデビューした。学校には秘密にしていたが、すぐにバレた。けれど家庭環境だとか人生設計についてを教師たちは把握していたから、黙認してくれた。
卒業後に、新人賞の賞金や印税を全て親に投げつけて、その後の作品の印税を元手に家を建てた。残念ながら大ベストセラーなんて作れなかったから、駅から少し遠いし控えめな戸建てだ。それでも私だけの砦だ。
私は一刻も早く静寂に染まりたかったから、デビューして一年ほどは狂ったように作品を書いていた。次から次へと原稿を仕上げ、十二ヶ月で六つの長編を書き上げた。努力が実り、二十歳で家を建てられた。
それを知るや彼女は毎日のように遊びに来る。シュークリームやらエクレアやら、ちょっと食べたくなるようなお土産を忘れずに。
仕事中ではあるが、毎度やかましい程元気にやってくるものだから、気圧されて家に上げてしまう。私は彼女に甘いのかもしれない。
陽薫はもしかしたら、空白を抱くなんて感覚を理解出来ないかもしれない。頭の中は生クリームでいっぱいだろうから。
祝祭という名の彼女を、私は疎ましく思う一方で羨んでもいる気がする。
……あ、この表現は良いかもしれない。
――祝祭という名の世界が産まれても、干乾びた空虚を私は抱きしめる。
祝祭、干魃。世界、空虚。誕生、抱擁。それぞれが関連付けられているが、まだまだ推敲の余地がある。けれど取っ掛かりとしては悪くない。
「おーい夜鶴ちゃん、私のこと見えてるー?」
思考の檻に閉じこもっていた私を、ぶんぶんと手を振る陽薫が引き戻した。
彼女は私から静寂を取り上げるけれど、いつも代わりに何かを与えてくれる。それはシュークリームだったりエクレアだったり、創造力の一端だったりする。
きっと貴方は、そんな事知りもしないだろうけれど。
私はどんな表情をしたら良いか分からなくて、素早く背を向ける。
「コーヒーでいい?」
たぶん彼女は笑っている。後方からぱたぱたと着いてくる足音がする。
「シュークリーム、シュークリーム、シュークリームう、でっかいぞー、おいしいぞー、たべちゃうぞおー」
知性を全く感じさせない歌を唄いながら、彼女はそれでもきっちりと「おじゃまします」と頭を垂れる。
私の砦には、中々静寂が訪れてくれない。それを内心疎ましく思いながらも招き入れてしまうのは何故だろう。
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